師匠シリーズ118話 双子


双子 0/4

師匠から聞いた話だ。

0 時間の話

「にい、さん、しい、ごお、ろく、しち、はち、きゅう、よんじゅう、いち、にい……」
 机の上に置いた目覚まし時計の秒針の動きを、オカルト道の師匠、加奈子さんが数えている。僕はその様子をじっと見守っている。
 時計の針が深夜0時を指したところで、師匠が秒針を数えるのを止め、顔を上げて僕に、「どうだ?」と訊いてきた。
「いや、どこも飛んでないです」
 そう答えると、師匠は、
「うにゃあああ」
 と喚いて畳の上にひっくり返った。
「わっかんねぇ!」
 そう言って足をバタバタとさせる。僕はそのホットパンツからのぞく太ももにドキドキし、目のやり場に困っている。
 夜に師匠の部屋に呼び出されて、「実験」とやらにつき合わされているのだが、なにがやりたいのか、こっちこそわからない状態だ。
「なんなんですこれ」
「だ、か、ら、噂だよ噂。都市伝説、フォークロア!」
「だから、なんの?」
 師匠が足を上げて、それを下ろす反動で上体を起した。
「この街の24時間は、外の24時間よりも1秒短いっていう、噂だよ」
「はあ?」
 なんだそれ。意味がわからない。
「うちの大学の実験なんかしている理系の学生の間では、結構有名な噂らしいぞ。知らないのか」
「知りませんよ。なんですかそれ。1秒短かったら、ずれていくってことですか。ええと、1日あたり1秒短いってことは、60日で1分でしょ。1年で6分か。てことは、大晦日から、次の年の大晦日までに6分短くなるから、12月31日には23時54分で年が明けるってことですか」
「そうならないから不思議なんだよ」
「意味がわからないんですが」
「いいか、この街では1日が1秒短いのに、街の外と時計がずれない。これがなにを意味するのか?」
「1秒短いのが気のせいだってことですよ!」
 呆れてそう言ったが、師匠は首を振る。
「ところが、1秒短いとしか説明できない現象が色々起きてるらしいんだな。大学のOBやら教授やらにも聞いてみたけど、ずっと何十年も昔から、そんな噂がささやかれてんだ。市内にある製薬会社なんて、実験で1秒短い前提の調整をわざわざしているって噂もある」
 僕はおおげさに眉に唾をつける真似をした。
「うるう年がなぜ起きるか知ってるか」
「そりゃあ、地球が太陽のまわりを一周するのに、実際は365日よりちょっと長いからでしょ。ずれてきちゃうから4年に1回、1日追加して366日にしてるんですよね」
「回帰年は約365.24219日だ。これが365.25日なら4年に1回うるう年にして1日追加すればちょうど合うけど、実際はそれよりもちょっと短い。西暦だと4年で割り切れる年数のときはうるう年、そのなかでも100で割り切れるときは平年、さらに400で割り切れるときはうるう年、って感じで調整してる」
「へえ、じゃあ西暦2000年は100で割れてさらに400で割れるから、例外の例外で結局うるう年なですね」
「まあ、日本の場合は皇紀を元にそれとは違う計算して決めるらしいけどな。……話がそれた。とにかく、うるう年が日数のズレを調整するものなら、秒数のズレを調整する、うるう秒ってのがあるんだ」
「うるう秒なんてはじめて聞きましたよ」
「これは本当にあるんだよ。1日は秒数で言うと、60秒×60分×24時間で、86400秒だ。ところが、実際には地球が1回転するのに、それよりほんのちょっとだけ長くかかるんだな。実は地球の自転の速度は一定じゃなくて、大体1年間で1秒から2秒、長いときで3秒くらい、24時間ジャストよりも多くかかるから、そのズレを調整するために、6月30日か12月31日に、うるう秒ってのを追加するんだ。実は去年は、そのうるう秒がなかったんだけど、今年は6月30日の23時59分59秒の次に、59分60秒っていう1秒が追加されることになってるらしい」
「へえ。今月の末じゃないですか。知らなかった」
「問題はだ、このうるう秒で、1日に1秒が追加されたとしても、普通に生活している私たちには体感できないってことだ」
「ん……。まあそうですね。学問上というか、机の上の話でしょ」
「同じように、この街にだけ、マイナスのうるう秒が1日1回、導入されているとしたら、どうだ」
「はあ? だれが。どうやって?」
「普段、時計はどうやって合わせる?」
「テレビの表示とか、まあキチンとするなら電話で時報聞くとか」
「じゃあ、テレビとNTTの時報を好きにいじることができれば、マイナスのうるう秒導入は可能だな」
「どんな陰謀論ですかそれ」
「でもその場合、この街の時計の時間が1日1秒短くなれば、街の外の時計とは、1日1秒ズレが生じる。さっきおまえが計算したとおり、1年間で6分も。でも、実際はそうなってない。これはどういうことなのか」
「だから、1秒短いなんてのは気のせいだって言ってるでしょう」
 また話が元に戻った。
「その気のせいじゃないとしたら、だ。2通り考えられる。1つ目は、外の時計の秒針が1日で86400回動く間に、この街の時計の秒針は86399回しか動かない場合」
「なんですかそれ、時空でも歪んでるんですか。でもそれだと結局1秒時計がズレるでしょ」
「そうだよ。どこかで時空が歪んでるんだ。そして、86399回のうち、1回が2秒分進むとしたらどうだ」
「それがさっきやった実験とやらですか」
 僕はさっき師匠が時計の秒針を数えるのを監視する役をやらされていた。
 どこかで、1秒飛ばないか、よく見ててくれと言われて。
「ああ、深夜0時になるタイミングがあやしいと思ってたんだけど、やっぱり起きなかったな」
「あたりまえですよ。そんな怪奇現象」
 そう言った瞬間、目があった師匠のその瞳の奥に、射すくめられるような暗い光を見た気がして、ゾクリとした。
 そうだった。僕は、この師匠と一緒にいた1年間、起こるはずのない怪奇現象を何度も体験してきたのだった。
「そうなると、2つ目の可能性」
 師匠は僕の目を見つめながら、人差し指を立てて見せた。
「この街の時計の秒針は外の時計と同じく、86400回動くけど、1回あたり86400分の1秒早く動く。そうすれば、時計のズレは起こらない」
「それって、時間が少しだけ早く進んでいるってことですか」
「そうだよ。本当に1日が1秒短いんだ」
 ばかばかしい。いくらなんでも。そう言って笑おうとした顔が、強張る。
「短い1秒は、どこに消えてるって言うんです?」
 ようやく冗談めかしてそう言ったけれど、なんだか自分でも怖くなってきてしまった。
「さあな。どこかに……」
 師匠は楽しそうに上目遣いをしながら言った。
「貯金でもされてるんじゃないか」
 そのころ、おかしなことでも、師匠の口から出る言葉は僕には魔法だった。それがどんな荒唐無稽なことだとしても。いや、荒唐無稽なものであればあるほど、魔法のように、僕を魅了した。
 それは、結局、僕が、そんなものを愛する、変なやつだってことなのだろう。この奇妙なやりとりは、そのあとに起きたこととは、関係がなかった。しかしそういう好奇心は、いつも猫やそんな僕を殺そうとしている。師匠と、時間の不思議について語りあったその月の月末。うるう秒が導入されるという6月30日の、2日前。つまり6月28日に、僕は、死を覚悟した。

双子 1/4

1 羽根川里美

 大学2回生の夏の初めだった。6月も半ばになり、道往く人々の服も軽くなってきた季節。梅雨入りして、むしむしする日が続いていた。
 その日僕は、寝不足でしょぼしょぼする目を擦りながら、バイト先の興信所、小川調査事務所の机に座って書類整理をしていた。
 外は昼下がりに降り始めたばかり雨が、霧雨のように細かい粒を音もなくガラスに振りまいている。
「あー、眠いっ」
 何度目かのひとりごとが、自然に口をついて出てくる。
 ターンッ。という、先輩の服部さんの叩くワープロのキーの音が、そのたびに大きくなる。
 なんだよ。いいじゃないか。眠らないように、自分の眠さを客観的に確認してるんだから。
「眠いんですよ。昨日は、加奈子さんと一晩中寝ないで朝を迎えたんでねっ」
 言ってから、無駄な挑発だったと後悔した。この人はこういう会話にとにかく乗ってこない。完全に無視だ。
 寝ないで朝を迎えたのも、時計の針を延々数え続けるのを手伝わされただけだった。結局なにも変わったことは起きず、ちょっと寝るから、出てけと追い出される始末。
 不毛な時間だったが、同じ大学生たちが徹夜マージャンに明け暮れているのと、大した違いはないだろう。
 ガンガンガンという足音がして、事務所のドアが開いた。
「タオル、タオル」
 その加奈子師匠が、髪の毛をかきあげながら入ってきた。雨で濡れたらしいく、雫が散っている。そして自分のロッカーから取り出したタオルで頭をゴシゴシと拭きながら、「依頼人が来るぞ。お湯を沸かしとけ」と僕に言う。
「所長は?」
「いま下のボストンで話してる。すぐ上がってくるだろ」
 師匠は頭にタオルを被ったまま、スケジュールの書かれたホワイトボードの前で腕組みをしている。
「羽根川、里美。こいつか」
「師匠も呼ばれてたんですか。てことは、『オバケ』ですかね』
オバケというのは、ここのところ、この零細興信所の最大の収入源になりつつある依頼の符牒だ。
炊事場で、ヤカンをコンロにかけながら、ちょっとワクワクしてきた。去年から心霊スポットやいわくつきの怪異を求めて散々うろうろしてきた僕だが、この興信所にいると向こうから怪現象がやってくるのだ。オバケ専門の調査員である加奈子さんの助手として、それに関わるだけでなく、バイト代までもらえてしまう。最高のバイト先だった。
やがてカンカン、という控えめな足音がして、小川所長がドアから入ってきた。今日も色の薄いグレーのスーツを着ている。人と会ったからか、ネクタイは曲がっていなかった。
「どうぞ。お入り下さい」
所長のうしろから、スラリと背の高い女性が現われた。肩ほどの長さの髪の毛を茶色に染めていて、カジュアルな白いブラウスに、下はデニムのワイドパンツという格好。緊張しているのか、どこか表情は暗い。大学生くらいだろうか。
「失礼します」
 女性には応接用のソファに座ってもらって、その向かいに所長と加奈子さんが腰を下ろした。
「紅茶とコーヒー、どちらがよろしいですか」
 僕がそう訊くと、「あ、じゃあ紅茶を」と言う。やっぱり声がどこかうわずっている。
「羽根川(はねかわ)里美(さとみ)です」
「こちらが担当する調査員の」と所長に振られ、師匠が、「中岡です」と言って、名刺を差し出した。名前と、小川調査事務所の住所・連絡先が書かれただけのシンプルなやつだ。
『霊能者』という肩書がついたジョークバージョンがあるが、さすがに知り合い以外には出さない。
 3人分の紅茶と、小川所長用のコーヒーをテーブルに置いてから、僕も事務用の椅子を引っ張ってきて、師匠のそばに座った。
 羽根川里美と名乗った彼女は、今はフリーターをしていると自己紹介をした。
「さっき簡単に伺いましたが、もう一度依頼内容をお願いできますか」
 小川所長が丁寧な口調で言った。
「あ、ええ。あの…… 私の生き別れの兄を探して欲しいんですけど」
「生き別れの兄?」
師匠がポリポリと額をかいて、問いかける。
「羽根川さん。私をご指名なんですよね。どこかで聞いたんでしょう。私がその……。特殊な依頼が得意だってことを」
「あ、はい」
「仁科さんルートだ」
 小川所長が師匠に耳打ちする。仁科さんは師匠のファンのおばさんだ。商工会やら町内会やら、とにかく異様に顔が広いうえに、物凄いスピーカーを持っているので、この小川調査事務所に様々な『オバケ』案件が舞い込んでくる原因になっている。
「あ、それが……。どこから説明したらいいのか」
 里美さんはまだ緊張しているようで、言い淀んでいた。やけに「あ」が多い。20歳そこそこの年齢で、こんな興信所に1人でやってくるのは、たしかになかなかない経験だろう。無理もないと思ったが、そのぎこちない視線の動きに、ふと、緊張以外の影を見た気がした。
 ああ、これは畏れだな。じっと観察していて、そう直感した。
「あ、これを、見てください」
 里美さんは思い出したように、膝に置いていたハンドバッグから写真を取り出して、テーブルに置いた。
 写真は洋服を着た年配の男性と女性、そして着物を着た小さな女の子が家の前に並んでいるものだった。少し古い色合いをしている。
「私が3歳のときの写真です。七五三のときですね。こっちが父親、こっちが母親のはずです」
「はず?」と師匠が問う。
「母は私が4歳になる前に亡くなりました。交通事故だったと聞いています。だからあんまり母の記憶がないんですよ。特に顔は、写真を見て、ああこんな人だったっけ、って思うくらいです」
「これには、お兄さんが写っていませんね」
「ええ。私に兄がいることがわかったのは、ほんの最近です。母が死んでからは、ずっと私と父の2人暮らしでした」
 里美さんは七五三の写真を手に取り、自分の顔の横にかざして、「どうです? 似ていると思いますか?」と言った。
 喋っているうちに、少し緊張が解けてきたようだった。
「私、ずっとおかしいと思ってたんです。私は今21歳なんですけど、父が46歳、母が42歳のときの子どもです。幼稚園のころも小学校のころも、友だちに父親を見られるたびに、『あれ、おじいちゃん?』なんて、からかわれたことばかり覚えてます。『おまえ、もらわれっ子じゃないのか』とも言われました。ホントにそうなんじゃないか、ってずっと思ってました。でも年がいってるってことだけじゃなくて、顔も似てないんです。ほら」
 写真の顔と並べて見る限り、両親とも顔立ちがふっくらしていて、顎の線まですっきりとしている里美さんとは、たしかに似ていなかった。
「それに、私170センチあるんですけど、父は158センチしかないし、母は145くらいしかなかったって聞いてます」
 写真では里美さんもまだ3歳で小さく、比べるものがないが、たしかに2人とも小柄なようだ。
「養子ですか」
「父はそんなことは言いませんでした。私、訊いたことがあるんです。何度も。でも、おまえは父さんと母さんの子どもだ、って言うんです。嘘だって思ってました。本当は養子なんだろうって。大人になってから、戸籍抄本をとりました。でも、私は実子になっていました。私、ホントは変な想像してたんです。父と母には実は若いころにできた娘がいて、その子が中学とか高校のときに子どもができちゃって、その子ども、つまり私を、父と母の子どもだってことにしたんじゃないかって。なんかドラマでそんな話を見て、思い込んじゃったんですよ」
「まあ、昔はそんなことがたまにあったらしいですね。世間体のために」
 小川所長がぽつりと言った。師匠は固い表情をしている。
「実際には父も母も初婚で、子どもも私ひとりでした。でも戸籍がそうなってるからって思っても、ずっと持ってた疑いは消えないですよ」
 里美さんは興奮して喋りすぎたことに気づいたように、「あ」と言ってソファに深く座り直した。
「で、その生き別れのお兄さんっていうのは?」
 師匠が促すと、またおずおずと口を開く。
「実は去年、父が66歳で亡くなりました。急性の白血病でした。あっという間に、悪くなるんですね、あの病気。元気だった父が、たった2週間で死んだんです。……最後は感染症で、高熱を出して苦しんでました。そのあいだ、せん妄って言うんですか、苦しみながら、よくわからないことを言っていました。そのとき聞いたんです。私は、父の生まれ故郷の岩倉という村から連れてこられた、他人の子どもだって。本当は私には双子の兄がいて、今も岩倉村に住んでるって」
「それが、生き別れの兄ですか」
 師匠がふぅ、と息をついた。
「岩倉村?」
 小川所長が地図を持ってきてテーブルの上で開いた。

「県北に、笹川町ってあるでしょう。そこの東のほうにあります」
 里美さんが指で地図をなぞる
「ああ、岩倉って地名がありますね。昭和の合併で吸収されたのか」
「父は若いころにその村を出たそうです。父がいたころはまだ岩倉村だったはずです。父の戸籍にもそう書かれていました」
「昭和の大合併は昭和30年前後だから、ええと、お父さんが30歳くらいのころか。その前に村を出たってことですね」
 小川所長が電卓叩いて言った。
「依頼内容はだいたいわかりましたけど」と師匠が口を開く。
「要するに、その生き別れの兄を、岩倉村で探せばいいんですね」
「あ、えと」
 里美さんは、最初のころのように、そこでまた口ごもった。表情に、また緊張が浮かんでいる。
 いや、これは、畏れだ。
「紅茶、おかわり持ってきましょうか」
 いつの間にかあいていたカップを見て、僕は腰を浮かせた。
「あ、はい。すみません。喉がかわいて」
 ううむ。これはまだなにかあるな。
 僕はお盆の上にカップを回収しながら、胸の奥に好奇心がむくむくと湧いてくるのを感じていた。
 師匠がズズズーッと、慌てて目の前の紅茶を飲み干して、炊事場に向かう僕のお盆にカップをのせる。
 こういうところだよ。
 こういうところに、平均的な女子の爪の垢を飲ませたい。
 もう一度、お湯を沸かしていると、師匠が顔を出して、「おい、ラジカセどこ置いたっけ」と言う。
「あのラジカセですか。奥のキャビネットの下のはずです」
「そうか」
 ラジカセをなにに使うんだろう。
 紅茶をいれなおして持っていくと、応接テーブルの上で、師匠がラジカセにカセットを入れるところだった。里美さんが持参したものらしい。
「これは、岩倉村のことを調べていて、県立図書館で見つけた、童歌(わらべうた)集です。県内のいろんな地域の童歌を集めた、20年くらい前のテープですけど、このなかに、岩倉村のものがあるんです」
 里美さんが再生ボタンを押して、何度か早送りをする。
『…うしろの正面、だぁれ……』
 その合間に、そんな歌が聞こえてきた。
「かごめかごめって歌がありまけど、地方によって歌詞がちょっとずつ違うみたいで、その違うのを集めたみたいなテープですね」
 ここです、といって里美さんはラジカセから指を離した。あまりよくない音質で、『笹川町 岩倉』という男性のナレーションのあとに、子どもたちの歌が流れてきた。
『か~ごめ かごめ
 か~ごのな~かの と~り~は
 いついつねやる かたわれどきに
 なぬか などぉって つぅべった
 うしろのしょうめん だぁれ……』
 里美さんが巻き戻しボタンを押し、もう1回流しますね。と言った。
 また同じ歌が流れる。師匠は腕を組んでじっと聞いていた。そして聞き終わると僕に、
「おい、かごめかごめの歌をうたえ」と言った。
 有無を言わせない口調に、衆人環視のもと、しぶしぶ歌う。
「か~ごめ かごめ
 か~ごのな~かの と~り~は
 いついつであう よあけのばんに
 つると かめが すぅべった
 うしろのしょうめん だぁれ……」
 うわあ。なんかすごい嫌。こんな昼間の事務所で、ひとりで見られながら歌うのほんとキツイ。
 歌い終わると師匠は、「違うのは中盤からの部分だな」と言った。
「いついつ出会う、が、いついつ寝やる、になってる。夜明けの晩に、は、かたわれどきに、か。鶴と亀が、って部分は、なぬか、などって、に変わっている。鶴と亀がつべった、ってところは確か、あまり意味のない拍子言葉だって言われてるよな。『なぬか』はたぶん『七日』か。『などって』は方言かな。意味はわからないけど、頭韻を踏んでるだけの拍子言葉の可能性が高い。でも、『いつ出会うのか』、って問いかけが、『いつ寝るのか?』って問いかけになってるのは、意味がありそうだな。あと、その時間が、『夜明けの晩』から『かたわれどき』になってるのも意味深だ」
 師匠は里美さんを見た。
「夕暮れのことを、誰ぞ彼は、って書いて、『たそがれどき』って言うけど、それに対して、明け方の薄暗闇のことを、彼は誰ぞ、で『かわたれどき』と言う。まあ古くはどちらも日暮れ、明け方両方の薄闇をさす言葉だったみたいだけど。この童歌の『かたわれどき』はもしかして、『かわたれどき』と同じ言葉じゃないのか?」
 里美さんは「昔何度か、父に朝早くから魚釣りに連れて行かれたことがありました」と言った。「まだ暗い空を見て、父が、かたわれどき、と呼んでいたことを覚えています」
「いついつねやる、かたわれどきに、ということは、夜明けに寝る、つまり徹夜をするってことだな。なぜ徹夜をするんだろう」
 師匠は童歌の歌詞に興味を持ったようだったが、僕はこの歌が、生き別れの兄を探す話とどう関係しているのか気になった。
「で?」と言ってみると、里美さんがまたハンドバッグを探りはじめ、バインダーを取り出した。今度こそなにか有益な情報だろうか。
「父が、もうろうとしながら言っていたことのなかで、しきりに繰り返していた言葉があります。おまえは、双子だったと。双子の忌み子だったって。だから、うちにもらわれてきたんだと」
 スッ、と開いたページに、なにかの記事のコピーが綴じられていた。
「凄くショックでした。もらわれっ子だってことは、薄々わかっていたことでしたから、そのことはいいんです。でも、忌み子って、忌まわしい子どもって意味でしょう? そんなこと、どうして言われなくちゃならないんだろうって、ほんとに悲しかったです。記憶もないような赤ん坊のころに、どうしてそんな、忌まわしいなんて……。父が死んでから私、調べました。岩倉村のこと。県立図書館とか国立の大学の図書館で。そしたら、この記事を見つけたんです」
『現代の庚申信仰』というタイトルがついている。
「郷土史の研究論文か。書いたのはだれだ、これ。佐藤正継って、聞いたことないな。結構古い記事?」
「あ、ええと、奥付にありますけど、1971年ですね」
 20年くらい前のものか。
「元小学校の校長ね。ふうん。で、これに岩倉村が出てくるんですか」
 師匠がバインダーをパラパラとめくる。どうやら、県内に残る庚申信仰が地方ごとに紹介されているようだ。
 あった。『岩倉』という項目が。岩倉では、古来から数戸から十数戸でなる講が地区ごとにいくつかあり、それらの本尊が青面金剛であることや、『南無阿弥陀仏』という唱えごとから、直会(なおらい)までの作法などが記されていた。ただ、現在ではその講も催されることは稀になっている、と注記がある。
「大ごもり?」
 師匠が興味深そうに読んだ箇所は、一風変わった風習として紹介されている部分だった。
『なお、岩倉地方独特のものとして、大ごもりという習慣がある。七庚申の年や、初庚申、あるいは終庚申(つめこうしん)に平素よりも大掛かりに行うことはよく見られるものであるが、ここでは毎年決まった時期に、近隣の複数の講がひとつところに集まって夜明けまでこもるという。以下に、記録の残っている大ごもりの日付を記す。
・1955年6月29日
・1956年6月28日
・1957年6月29日
・1958年6月29日
・1959年6月29日
・1960年6月28日
……:』
 師匠がそこまで読み上げて、首をかしげた。
「おかしいな。庚申は60日ごとだろ。6回で360日。1年は365日だから、5日余る。その分、翌年の同時期の庚申の日付がズレていくはずじゃないか。前倒しになって。でも、この大ごもりってやつは、6月28日と29日の2種類しかない」
 その後、記事では師匠が指摘した日付の疑問について、触れていなかった。
「おお~い。そこはつっこめよ、研究者」
 イラッとした様子で師匠が毒づいた。
「あ、ええと、その後ろを読んでください」
 興味のある部分にいちいち引っ掛かる師匠に、里美さんが焦れて促した。
「んん? ……また、岩倉地方では、近代においても双子を忌む、興味深い風習があった……」
 双子。里美さんの生き別れの兄は、双子だと言っていた。キーワードになっていた言葉の登場に、師匠の表情が緊張を帯びる。
『男女の双子が生まれると、あとに生まれた方を忌み子として、里子に出すのである。かつては、間引きのようなこともあったとされる。なお、同性の双子は、忌み子とはみなされないようだ』
岩倉の記事はそこまでで、また別の地方の庚申信仰の説明が続いていた。
「これは」
 小川所長が険しい表情をしている。
「父の言った通りでした。きっと私は双子で岩倉に生まれて、妹だったから、忌み子として、村の外に里子に出されたんです」
「ちょっと待ってください。戸籍上、養子ではなく、実子だったんですよね。里子だとしても、戸籍を偽装するなんてやりすぎだ。父親はともかく、母子関係は分娩の事実を持って発生するって民法に規定されてる。出生届って医師の書類がいるんでしょ?」
 師匠の問いに、小川所長が答える。
「ああ。出生証明書がいる。それを役所に出す必要があるから、羽根川さんが他人の戸籍に子として記載されているなら、医者か、役所か、どっちかを丸め込んでるな」
 おいおい、と僕は思った。今の時代にそんな前近代的なことが本当にあるんだろうか。そこまでして、双子を忌み子扱いするなんて。
「さっきの歌、かたわれどきに、って歌詞。あれ聞いて、私怖くなったんです。ゾクッて、背筋が冷たくなって。彼は誰時(かわたれどき)って、あれはだれだろう? って意味でしょう。薄暗くて、そこにいるのがだれだかわからない。なんだか怖い言葉ですよね。同じ朝の薄暗闇を、岩倉村では『かたわれどき』って言う……。絶対良い意味じゃない。双子の片割れ。もう片方の我。まだ明けない暗闇のなかに、もうひとりの自分がいる。はっきりとは見えないけど、きっといる。それを忌まわしいって言ってるんです」
 里美さんは冷たい息を吐くように言った。うつむき、右手で自分の肩を抱くようにしながら。
「いついつねやる、かたわれどきに」
 師匠は腕を組みながら、童歌の歌詞を呟いた。
「いつ寝るのか。朝に。つまり徹夜、夜明かし。庚申の、大ごもり……。なにか繋がっているな、これは」
 考え込んだ師匠を横目にため息をつき、小川所長が訊ねた。
「羽根川さん。ちょっといいですか。ご自分では岩倉村には行かれたんですか」
 ビクッとして、里美さんは顔を上げた。
「あ、あの。はい。行きました。もちろん。でも、あの村は、その、すごく閉鎖的って言うか。200人くらいの村なんですけど、双子の兄を探してるって言ったら、みんな取りつくシマがない感じで。きっと今でも、双子はタブーなんです。だから、お願いしたいんです。私の代わりに岩倉に行って、生き別れの双子の兄を見つけてください。そうじゃないと私……」
 そこまで言って、声を詰まらせた。そして口元を押さえて、「私、もう、たったひとりなんです」
 うわずった声で搾り出したその言葉を聞いて、僕はもらい泣きしそうになった。
彼女は母親と3歳で死に別れ、2人暮らしだった父親は去年他界。しかもよそからもらわれてきた子どもだったと明かされて、本当の家族すら失ったのだ。
「父は…… 去年死んだほうの父ですが、私には岩倉に双子の兄がいる、としか言っていませんでした。本当の父と母はもう亡くなっているのかも知れませんが、ひょっとしたらまだ兄と一緒にそこにいるのかも知れない。どうかお願いします」
 里美さんは涙のこぼれる目尻を拭いながら、頭を下げた。
「師匠」
 考え込んだまま反応がない師匠に、声をかけた。すると、息を吐いてから指を組み、口を開く。
「人探しならたしかに興信所の出番ですよ。そんな、頭を下げていただかなくても、料金さえ払っていただければお引き受けします。するよね?」
 顔を向けられ、小川所長は頷いた。
「でも、仁科さんに聞いて、『オバケ専門』の私をわざわざご指名ってことは、なにかいま聞いたこと以外に、理由がありそうだ。どうなんですか」
「あ、あの」
 はっきりと、畏れの表情を浮かべている。じっと師匠に射すくめられて、里美さんは意を決したように、言った。
「かごめかごめの歌って、あれ、子どもの遊びの歌ですよね。目をふさいだ子どものまわりを、手をつないだ子どもたちがグルグル回って、うしろの正面にいる子の名前を当てるっていう。私、あのテープを聞いてから、怖くてたまらないんです。私、霊感とか、なかったはずなのに、夜起きてると、急にあの歌が聞こえてきて、うしろにだれかいるような、気がして。でもうしろにいるのは私なんです。私がうしろにいるんです」
 ごくりと喉を鳴らして、里美さんは自分の両肩を抱いた。
『か~ごめ かごめ
 か~ごのな~かの と~り~は
 いついつねやる かたわれどきに
 なぬか などぉって つぅべった
 うしろのしょうめん だぁれ……』
 師匠が急に口ずさんだのは、あのテープの歌だった。いい声をしているので、僕よりよほど上手い。
「や、やめてください」
 そう呻いて怯えている里美さんを見つめ、師匠は、「童歌は、まだ社会性が育っていない、子どものアミニズム的発想から生まれています」と言った。
「古来から子どもの歌は、遊戯的なものと、祝詞にまで昇華する前の呪術的なものが未分化の状態で存在しています。例えば、ほうほう、蛍こい、あっちの水は苦いぞ、こっちの水はあ~まいぞ。ってのは『だまし型』と呼ばれる類型の童歌です。遊戯でもあり、そして、だまして蛍をこっちによび寄せるための呪術的な歌でもあるのです。かごめかごめの歌は、籠の女と書いて、籠女の歌だから、籠に閉じ込められたような暮らしの遊女のことだって説もある。お腹が籠を抱いたように見える、妊婦のことで、流産を歌っているって話もある。籠の目と書いて、籠目で、六芒星のことだなんて言ったり。ま、いろいろ説はあるんですが、はっきりしません。さっきの、岩倉村の歌は、一般的に知られているものと異なる部分が中盤にあります。そこには、なにかそう歌うべき意図があるんでしょう。羽根川さんが言うように、『かたわれどき』という言葉が双子と関わりのあるものなら、双子を忌み嫌う村で歌われる以上、それは遊戯の形をした原初的な呪術です。『おどし歌』や『のろい歌』の類なのかもしれません。その脅しや呪いの対象は、双子に生まれた羽根川さん自身……。そう直感で、わかってしまってるんでしょう? 言葉の意味はわからなくても」
 師匠は里美さんに問いかける。
「その、うしろにいる自分は、はっきりと見たんですか?」
「いいえ。あ、あの、きっと気のせいですけど。怖い夢も見るようになったりして」
「……わかりました。お兄さんを探してきます。で、その歌の意味も調べてきますよ。意味がわかれば、対処のしようもある。私は拝み屋じゃないから、お祓いはできないけど、ま、こういうのは専門なんで。任せてください」
 ホッとした表情を浮かべる里美さんに、小川所長がラミネート加工された料金表を差し出して説明を始める。
 里美さんは「これなら、ためたお金でなんとかなります」と言って、「その、とりかかる開始日ですけど」と壁のカレンダーに目をやった。
「ああ、わかってますよ。6月28日、29日の大ごもりまで、あと10日あります。まだやっていれば、ですが。童歌との関わりもありそうだし、そのイベントにあわせるのがいいでしょう」
「大ごもりは、まだやっていると思います。たぶん、今も。はっきりとは聞けませんでしたが」
「そういえば、お父さんの戸籍を調べたんでしょう? 岩倉村で、本籍地を訪ねてみたんですか?」
「もう家は残っていませんでした。父は、両親も早くに亡くして、親類もいないと言っていました。だから村を出たんだって」
 師匠は里美さんに補足質問をいくつかして、これまで自分で調べたバインダーの資料や、童歌のテープなどを借り受けた。
「では、よろしくお願いします」
 里美さんが長身を折って、頭を下げながらドアから出ていった。
「やっかいそうな依頼だな」
 依頼人が去ったドアを見つめながら、師匠がため息をついてそう言うと、ふいに静かな声が事務所のなかに響いた。
「あとはつけなくていいんですか?」
 びっくりした。服部さん。いたんだ。
 僕は完全に事務所のデスクと同化していた服部さんを、あらためて忍者みたいだと思った。そして、なんで里美さんの尾行をする必要があるのだろう? と首を捻ったが、師匠がムスッとして睨みつけているのを見て、気づいた。
 春にあったばかりの、心霊写真にまつわる事件のことを引き合いに、からかっているのだ。あの時も、依頼人を、いや、依頼人になりそこねた男を、服部さんは独断で尾行して、師匠の鼻をあかしたのだった。
「うっせー。Mind your own business!!」
 師匠は妙に流暢な英語で服部さんを罵倒して、中指を立てた。

 そんなことがあった2日後、僕は師匠につれられて、南の港の近くの住宅地へ向かった。
「着手日まで、まだ5日ありますけど~」
 潮の香りのする風を顔に浴びながら、言った。僕の頭のうしろから、師匠の声がする。
「いーんだよ。せっかくまだ生きてるってんだから、話を聞いとかなきゃ」
「生きてるったって、もう90歳なんでしょ」
「電話で話したけど、まだ呆けてはなかったぞ。それに、着手日前だろうが、調査にかかる交通費は依頼人持ちになる契約だ。自腹切ってるわけじゃないから、いーんだよ」
「だったら交通費かけて来ましょうよ」
 僕はうしろに師匠を乗せて、必死に自転車をこいでいた。
「いーんだよ。たまには海の近く走ってみたいから」
 こいでんの僕ですけど、という文句を言おうとして諦めた。師匠が潮風を受けて楽しそうにしていたからだ。
 少々遠回りをして堤防沿いを走ってから、僕らは古めかしい日本家屋に到着した。あのバインダーに綴じられていた、庚申信仰に関する記事を書いた、佐藤正継という研究者の家だ。
 師匠が懇意にしている元大学教授に電話をかけて、その研究者のことを尋ねると、住所まで知っていた。教えてもらって、さっそく連絡を取ったのだ。
 元々教師で、小学校の校長を歴任し、退任したあとは趣味で郷土の史談会や、民俗学のフィールドで筆をとっていた人だった。いわゆる在野の民俗学者だ。御年90歳になり、もう会合などにも顔を出さなくなって久しいそうだが、師匠が言ったように、まだ頭はしっかりしているらしい。
「こんにちは」
 玄関で声をかけると、娘か、お嫁さんらしい年配の女性が出てきた。
「ああ、お待ちしておりました。でもおじいちゃん、近ごろはあんまり人と話さないから、失礼があったらごめんなさいね」
 そう言いながら案内してくれた応接室では、厳めしい顔の老人が、奥深い皺のなかに、寄り付きがたい表情を浮かべてひっそりと座っていた。
「今日は急に済みませんでした」
 そういって師匠と2人で頭を下げ、挨拶をしている間も、こちらの話を聞いているのかよくわからない顔で、頷きもせずにじっとしていた。
「で、えーと。この記事なんですけど」
 と里美さんから預かっているバインダーを取り出して、かつて目の前の老人が書いた記事のコピーをテーブルの上に置いた。しかし、老眼鏡や拡大鏡を取り出す仕草も見せず、佐藤老人は師匠の顔を見ていた。
「師匠」
 思わず小声で耳打ちをすると、師匠も、「電話で話したときは、会話できてたんだよ。ボケてるなら、さっきの嫁がなんか言うだろ」と小声で返してきた。
「あー、えーと。この庚申信仰のことというより、岩倉村のことをもう少しお聞きしたいんですよ。覚えてらっしゃる限りでいいんですが。あの」
 困り顔でそう言かけた師匠を、ふいに老人が遮った。
「岩倉のことは……。それを書くだいぶ前に、行ったきりだ」
 表情を変えず、入れ歯がずれるのか、もぐもぐとした口調だったが、たしかに老人はしゃべり始めた。
「岩倉神社……の宮司と親しくなって、聞いた。岩倉に伝わる、伝承を」
 師匠と僕は、思わず身を乗り出した。
「……人は、すべて男児と女児の双子で生じると、言っておった。双子で生じ、うつしよと、かくりよにそれぞれ生れ落ちると。もし、うつしよに、双子が生まれたれば、片方は過ちて生まれし忌み子として、隠されると……」
「過ちて、生まれし忌み子」
 師匠がその言葉を繰り返した。僕は、そのはじめて聞いた伝承に気持ちの悪いものを感じた。
「じゃ、じゃあ、僕は男だから、あの世に双子の姉か妹がいるってことですか」
「いや、記事にあっただろ。あとに生まれた方を忌み子として里子に出すって。つまり、弟、妹のほうがあの世に生まれるはずなんだ」
 そうか。里美さんも妹だった。
「なぜそんな妙な伝承が、今も続いているんです?」
 師匠の問いかけに、佐藤老人はゆっくりと瞬きをするばかりで、答えようとしなかった。師匠はしかたなく質問を変え、記事にある大ごもりの部分を読み上げた。
「先生の記事に、この岩倉では、毎年きまった時期に、近隣の複数の庚申講がひとつところに集まって夜明けまでこもる、とあります。大ごもり、という習慣です。
・1955年6月29日
・1956年6月28日
・1957年6月29日
・1958年6月29日
・1959年6月29日
・1960年6月28日
・1961年6月29日
・1962年6月29日
 日付が記されていたのは以上です。記事が書かれたのは1971年となっていましたから、おそらく先生が岩倉を訪ねられたのは、その9年前の1962年ごろですね。ざっと見ると、6月29日が多くて、6月28日が2日間だけありました。見た瞬間におかしいと思いましたよ。実際の庚申の日がいつだったか、調べてみました。1955年は6月28日でした。おしいですね。大ごもりは6月29日で、1日違いだ。普通の地域のお祭りならそれでいいかも知れない。でも、これは庚申講の集まりなんですよ。1日でもズレれば。庚申の日でなければ、意味がない。そして、その後の日付はもうめちゃくちゃだ」
 師匠は持参したメモを読み上げる。
「いいですか。実際の庚申の日は、
・1955年6月28日
・1956年6月22日
・1957年6月17日
・1958年6月12日
・1959年6月7日
・1960年6月1日
・1961年5月27日
そして、1962年は、5月22日で、その60日後の庚申が7月26日です。大ごもりは、6月末に固定されていて、庚申の日なんかとは関係なく行われているんです。これはいったいどういうことでしょうか」
 たしかにおかしい。僕はゾクゾクするものを感じて、老人の反応を待った。師匠は応接テーブルの向かいに座る老人を睨みつけるように見据えている。
「……岩倉の庚申講の本尊は、青面金剛だった。だが、大ごもりの本尊は、青面金剛ではなく、岩倉神社の祭神と同じだった……」
 ようやく口を開いて、出た言葉。師匠はすぐさま、「その祭神は?」と訊く。
「……岩倉神社の、祭神は伊弉諾神(イザナギ)と、大日孁貴神(オオヒルメノムチノカミ)だった。どちらも、近しいものが、かくよりへ行った。だからこそ、うつしよを守る、カミなのだ……」
 そう言って、老人は口を閉ざした。地層のように、唇がはりついている。
 イザナギはわかる。でも、もう1人の神がよくわからなかった。
「オオヒルメノムチのカミって、聞いたことある気がしますけど、なんでしたっけ」
「バカ。アマテラスのことだ」
 そうか。近しいものが、かくりよ、つまり黄泉の国へ行ったというのは、イザナギの妻のイザナミと……。ん? アマテラスはだれだ?
「なるほど、イザナミと、スサノオですね。イザナミはホトを焼かれて死に、黄泉の国へ行った。スサノオもまた、母イザナミを慕ってその黄泉、根の堅洲国(ねのかたすくに)へ行った。でもなぜです。大ごもりは、なぜそのうつしよを守るという神を祀るのです? 庚申とはまったく発想が違う」
 師匠の問いかけに、老人は目を見開いたままなにも言わなかった。
 しばらく無言の時間が過ぎた。応接室の柱時計が、カッチカッチと音を立てている。
 師匠は、苛立った様子で頭を掻いて、「コンセントお借りしますよ」と言った。そして持って来たリュックサックから、ポータブルラジカセを取り出して、あのテープをかけた。
 静かな部屋に、子どもの歌が流れる。岩倉の子どもたちが歌う、かごめかごめの歌だ。
『か~ごめ かごめ
 か~ごのな~かの と~り~は
 いついつねやる かたわれどきに
 なぬか などぉって つぅべった
 うしろのしょうめん だぁれ……』
 終わると巻き戻して、もう一度流した。老人は聞いているのか、よくわからない。
「この、かたわれどき、というのは早朝を指す、『彼は誰どき(かわたれどき)』と同じ言葉です。岩倉に伝わる、双子を忌む習慣からも、興味深い言葉です。そして、いつ寝るのか、という問いかけに、朝だと答えています。眠らずに朝を迎える、庚申講と関わりがあるように思えます。あるいは、庚申ではなく、大ごもりと、なのか」
 師匠の言葉は、老人を素通りしているように見えた。
「なぬか、は七日。その次は、などう、または、などる、という言葉でしょうか。方言だと思いますが、意味はよくわかりません」
 歌の意味を尋ねる師匠に、老人はもはや石化したかのように動かなかった。目だけがはっきりと見開いて、それがどこか異様な感じだった。
 あんまり知った口を聞くと、気分を害する大学教授もいるということを、わずかな大学生活で学んでいた僕は、師匠とは逆に、まったくの素人丸出しの質問を無邪気に投げかけたりもしてみた。しかし、それも無駄だった。佐藤老人は、1日にしゃべることのできる量が決まってて、もうそれをオーバーしてしまったかのようだった。
 師匠は諦めたのか、ようやく「ヨシッ」と言って、立ち上がった。
「おいとまします。色々教えていただいて、ありがとうございました」
 あんがい皮肉でもなさそうな口調で、そう言った。僕も頭を下げて、立ち上がる。部屋を出るとき、座ったままの老人が、ボソリと言った。
「……スサノオでは、ない……」
 師匠は振り向いて、目を見開いた。
「スサノオじゃない?」
 それから、ハッとした表情を見せたかと思うと、勢いよく、「ありがとうございました!」ともう一度頭を下げた。
 なんだかわからない僕は、そのままドアを出て行く師匠の背中と、応接室のイスに座ったままの老人とを、キョロキョロ見返していた。
 そして、ふと気づいた。地層のなかの化石になったように、反応がなかった老人の、その異様に見開かれた目を。その目に浮かぶ、かすかな感情の起伏を。2日前に、里美さんに見たものと同じだった。
 畏れ。
 湧き上がる畏怖をこらえているような、そんな目をしていた。

双子 2/4

2 <6月26日> 双子を忌む村

6月26日は金曜日だった。その日の朝、僕は師匠の運転するボロ軽四で、北へ向かう旅路にあった。県北の笹川町に向かっているのだ。僕らの住むO市は、瀬戸内海に近い南側にあったから、県北の町までは結構な距離がある。
「晴れて良かったなぁ」
 窓から吹き込んでくる風を気持ち良さそうに顔に受けて、師匠がそう言った。
 そんな爽やかな朝に、ステレオからは稲川淳二の怪談が流れている。
「で、その庚申信仰について、僕も一応調べてきたんですけどね」
「ああ?」
 さっきからなかなか話を聞いてくれないので、僕は実力行使で淳二を黙らせた。
「あ、てめぇ」
「庚申って、十干・十二支の組み合わせ60通りのうち、庚(かのえ)・申(さる)のことですよね。年だったら60年ごと、日だったら60日ごとにやってきます。かのえのほうは、読んで字のごとく、『金の兄』のことで、さるのほうは、五行思想では酉と並んで、『金』の元素を持っている。だから、庚申は金の気が満ちた状態で、その庚申の日に生まれた子どもは金に執着して、泥棒になる、なんて迷信があったとか」
「そうそう。夏目漱石なんて、庚申の日に生まれたから、将来泥棒にならないように、はじめから金を与えられたんだよ。本名は夏目金之助ってんだ」
「し、知ってましたよ。で、中国では道教の思想で、三尸説(さんしせつ)ってのがあって、三尸っていう三匹の虫が人間の身体に住んでる、とされてるんですよね。この三尸が庚申の日の夜になると人間の身体から抜け出して、天帝に宿主の悪行を告げ口する。告げ口された人間は罰を受けて寿命を縮められる。だから、庚申の夜に三尸が抜け出さないように寝ずに過ごすんですよね。その文化が日本にも入ってきて、庚申待ちって言って、身内や近所の人と一緒にお互いが寝ないように監視を兼ねて、夜通し語り合ったり、飲み明かしたりする。昔はそういう集まり、『講』がたくさんあって、その庚申講が脈々と今にも続いていると。こういう感じですよね」
「脈々とは続いてないよ。県北のほうはもともと庚申信仰が盛んでな、私も何年か前に、一度庚申待ちに混ぜてもらったことがあるんだけど。夜、地区の集会所に、講を組んでいる地元民たちが十何人集まってな。本尊の青面金剛童子の掛け軸を拝む勤行が終わったら、さっそく直会(なおらい)。ようするに飲み会だ。それも夜中の12時前には解散。おうちに帰って、グースカ寝る。庚申待ちって名目で、2ヶ月に1回親睦会をやってるだけだ。みんなで集まって、さっきまで気分良く愚痴やら悪口やら言い合ってたんだ。三尸が抜け出しゃあ、自分の分だけじゃなくて、数人分まとめて告げ口されらあ! そんな感じだよ。ホントに60日ごとに精進料理食いながら夜を明かす講なんて、現代じゃあもうないだろ」
「じゃあ、これから行く岩倉村の『大ごもり』はなんなんでしょうね。庚申講がいくつも集まるってことは、20人、30人と集まるわけでしょう。そんなに大勢で夜を明かすなんて、大袈裟ですよね。それに、6月末ごろに日付が決まってるなら、庚申(かのえさる)とは関係がない。いくら時代が下って、儀式が簡略化されようが、庚申講を庚申の日にやらないなんて、おかしいですよね」
「ああ、それに祀るのが、イザナギにアマテラスだとよ。仏教系なら、ほぼ青面金剛一択。まれに神道系の講があっても、普通は猿田彦大神だ。もともと道教思想から入ってきたものを、無理やり神道にくっつけようとしたから、縁起もなにもあったもんじゃない。元は駄洒落だからな」
「駄洒落?」
「庚申は、かのえ・さる、だから猿の神様をあてたの!」
「それで猿田彦ですか」
 ちょっと笑ってしまった。本当だろうか。
「佐藤さんが言ってましたね。イザナギとアマテラスは、近しいものが、かくりよへ、つまりあの世へ行ったからこそ、うつしよを守る神なんだって」
「ああ」
「最後に、スサノオじゃないって言ってましたけど。その、かくりよへ行った近しいもののことを。アマテラスの弟ですよね。スサノオは」
「……」
 師匠は答えなかった。佐藤老人とのやりとりで、なにかに気づいたようだったが、まだどこか腑に落ちないような顔をしていた。
僕は思いついたことを言ってみた。
「思うんですけど。6月末って、昔の人たちにとっては、田植えも終わって雨も降り始めて、一息つくころじゃないですか。夏祭りってそのころにやるもんでしょう? 豊作祈願を兼ねて。だから、『大ごもり』も、そういう、地域のハレのお祭りの一種じゃないですかね。普段は地味にやっている庚申講を、その日はみんな集まって盛大に夜通しやるんです。三尸の虫封じが目的じゃなくて、打ち上げ的なノリで」
「そうかもなー」
 師匠は窓の外の、のどかな山の風景を見ながら言った。あまり気が乗ってない声だった。
 僕は今回の依頼は、案外簡単に解決するんじゃないかと、どこか楽観している部分があった。なにせ田舎の村だ。若い者はあまりいないだろう。探すのは里美さんの双子の兄だから、21歳の男だ。しらみつぶしに探したって、すぐに見つかりそうだ。そう思っていた。しかし、その一方で、どこか不安な気持が湧いていたのも、たしかだった。不安定な板の上に乗っているような、そんな心細さ。かごめかごめの歌が聞こえる気がする、という里美さん。そしてあの、応接室で押し黙ったままだった佐藤老人。2人の目に浮かんでいた、なにかを畏れる感情……。
 僕はそれを振り払おうと、軽い声で言った。
「今日から泊まる民宿は、どんなところでしょうね」
 なにしろ、2人旅なのだ。調査員とその助手。去年のクリスマスに行った、神主の幽霊が出るという温泉宿のことを思い出す。あの時は、なんだかんだで結局ロマンスはほとんどなかったけど、今回はどうだろうか。チャンスはあるんじゃないか。やばいな。アレ持って来てないな。買っておいたほうがいいかな。お・と・ま・り、だからな。
 ソワソワしてくる。
「言っとくけど、2部屋借りてるからな」
 師匠の容赦ない言葉が突き刺さる。完全に心読まれてるわ。なにこの人怖い。サトリ?
 それから僕らは、山間の道路を走り続け、少し開けたところにある笹川町の中心街にたどり着いた。とろとろと車を走らせていると、古いけれどどこか気品のある町並みが見えてくる。
「白壁の町だぁ」
 僕は窓の外に顔を突き出した。古い木造建築が道沿いに並んでいて、そのどれもが、白壁や格子窓を持っている。歩く人の姿はまばらだが、商店街は映画で見る明治・大正の古い日本の町並みのようだった。
「町役場に行くぞ」
 僕らは町なかにあった役場の建物に入った。まだ昼前だった。庁舎の案内図と睨めっこしてから、師匠は住民課というところで、岩倉地区の現在の人口がわからないか、と相談をした。
 対応した若い男性の担当職員は資料をめくって答えた。
「えーと。岩倉ですよね。……上岩倉(かみいわくら)が37戸、120人。下岩倉(しもいわくら)が26戸、73人。あわせて63戸193人ですね。去年度末の数字ですけど」
 193人か。依頼人が言っていたとおりだが、なんとなく僕のイメージよりも多かった。
「岩倉地区に分庁舎はありますか」
「ありませんねぇ」
「病院とか、分院は? もしくは診療所」
 師匠に矢継ぎ早に問いかけられ、若い職員は別のベテラン職員に助けを求めた。
「むかしは町営の診療所がありましたけど、今は隣の地区の診療所から往診に行くくらいですねぇ」
 年配のふくよかな女性職員が、そう答えた。詳しそうだったので訊いてみたが、岩倉の出身ではないという。
 なぜ岩倉のことをそんなに訊くのか、という視線を受けて、師匠は、「民俗学の研究をしている学生」を名乗った。
「うちの役場には、岩倉の出身はいなかったと思いますよ」
 礼を言って住民課をあとにした。その次は、教育委員会事務局というところに出向いた。そこで、地域文化に詳しいというベテラン職員を捕まえて、岩倉のかごめかごめの歌のテープを聞かせてみた。
 興味深そうに聴いていたが、はじめて聴いたと言う。他の職員も同様だった。
「え? 庚申さま? いまもやってるとこもあるみたいですね。まあ、地域コミュニティの維持のための機能ですよね。この辺じゃ見ないけど、もっと田舎に行けばやってるんじゃないかな。岩倉で? さあ、どうでしょうか……」
 そんな調子で、あまり収穫はなかった。
 最後に近くにあった町立の図書館で、地域の歴史の本を調べた。
 笹川町は、昭和30年4月に1町3村が合併してできた町だった。ただ、合併とは言っても、元からあった笹川町に、岩倉村とあと2つの村が吸収されてできたものだった。
 合併当時の岩倉村の人口は700人とある。今が193人ということだから、30数年の間にずいぶんと減ったものだ。
 おもな産業は林業。山間部のため平野は少なく、農業は稲作とニラ、そしてソバを少々やっているくらいだった。
「あるな。神社。岩倉神社」
 師匠が、郷土史の本の記事に載っている写真を指さした。場所は、岩倉でも北のほうに位置している。地図で見ると岩倉地区は、笹川町の北隣にある穴原町と接していて、その間には千メートル級の山がいくつかつらなっている。岩倉神社があるのは、ちょうどその山地が始まる山裾のあたりだった。岩倉は、北だけではなく、西と南も山に囲まれていて、こうして見ると、ずいぶんとへき地だなぁ、という感想を抱く。
「ま、事前の情報収集はこんなもんか。さて行くかね。岩倉へ」
 師匠が伸びをしながら言った。黒いキャップに、ホットパンツという格好だった。もう6月も終わりで、これからどんどん暑くなってくる時期だ。師匠の定番の夏仕様の格好だったが、山間部に行くには少し寒くないだろうか、と余計な心配をしてしまう。
 しかも平日の昼間から図書館にいる、じいさんばあさんたちのなかで、あきらかに浮いている格好だった。じいさんたちのときめく視線を浴びながら、師匠と僕は図書館をあとにした。
 駐車場の車に乗り込んだあと、師匠は地図を見せながら言った。
「岩倉へは、こっから東に行くけどな。このまま北西へ行ったら、廿日美(はつかび)村だ。さらにその北西は県境の新城村」
 地図の上に指さしながら説明する。
「この新城村はな。いつか話した、天狗の肉の伝説がある村だ」
 思い出した。師匠が幼いころに体験した話。変質者に、天狗の肉と称するものを食わされたという恐怖体験だ。あの肉は、どこかの神社に伝わっていたと言っていた気がするが、それがこの新城村にあったのか。驚いていると、師匠は続ける。
「で、実は隣の廿日美村にも、面白い伝説があるんだよ。『もどり沼』っていう妙な名前の沼でな。死んだ人が生き返って、沼から上がってくる、という言い伝えがあるんだ」
「生き返らせるために、死体を沈めるんですか」
 僕は気味の悪い話に、眉をしかめて訊ねた。すると師匠は首を振る。
「生きている別の人間を、沼に沈めるんだ」
 グロテスクだ。なんだその伝説は。唖然としている僕に、師匠は、「まあいずれ連れて行ってやるよ」と言った。
「それより、見てみろ。新城村の天狗伝説の神社がここだ。そして、廿日美村のもどり沼がここ。で、これから行く岩倉が、ここ」
 師匠は地図の上に、鉛筆でマルをつけた。そして、その3つのマルを線で繋ぐ。

「あ」
 線は直線になっていた。岩倉から、北西へ向かって左肩上がりに、まっすぐ線が延びている。
「な、面白いだろ。こいつは、パワースポットとパワースポットを繋ぐ神秘の直線。『レイライン』だぜ」
 たしかに、レイラインに見える。僕は驚いた。
「レイラインって、もともとイギリスで生まれた言葉で、直接関わりのない古い遺跡群が、まるで意図的に配置されたかのように、地図で直線上に並ぶ現象のことだ。イギリスのセント・マイケルズ・レイラインが有名だな。日本でも、茨城の鹿島神宮から、明治神宮、富士山、伊勢神宮、ソロモン王の財宝伝説がある徳島の剣山(つるぎさん)に、宮崎の高千穂神社と並んでいるレイラインがある。わくわくするだろ」
「たしかに面白いですけど、岩倉のマルの位置が意図的じゃないですか。今は一地区でも、元は村で、単に岩倉って言っても、結構広いのに。わざわざ天狗と戻り沼を結ぶ直線の、延長線上を選んでマルをつけてますよ」
 僕は、岩倉村の北のほうにつけられたマルを指さしながら抗議した。すると師匠は、チッチッチッ、と舌を鳴らす。
「チェリー・ピッキングだってか? さっき図書館で見たろ。岩倉神社の位置を。それがここなんだ」
 あっ、と思った。
「いいか、岩倉って地名は、日本中にある。その語源は、ほとんどが、岩の座と書く、『磐座(いわくら)信仰』から来ている。磐座ってのは、ようするに巨石だ。古代の日本人は、巨石に神秘的な力が宿っていると考えていた。世界中で見られる、巨石信仰だな。その巨石は、神の住まう場所なんだ。その神の座である、磐座を崇め祀るための社に、なんて名前をつける? 磐座神社(いわくらじんじゃ)に決まってるだろ。たぶん、古来から信仰の対象となってきた巨石があって、それが磐座と呼ばれ、磐の座と書く磐座神社(いわくらじんじゃ)ができて、いつしか今の『岩倉神社』という漢字を当てられるようになったんだと思うよ。そしてそれが、行政単位の名前になり、岩倉村になったんだ」
 師匠の推理に、僕は感心していた。ただの想像にしても、理にかなっている。案外そのとおりなのかもしれない。
「おそらく岩倉神社がこの村のパワースポットとしての中心だ。天狗神社、戻り沼、岩倉神社。この3つがレイラインを形成しているのは、面白い。ぞくぞくするな」
 師匠は楽しそうだ。僕も嬉しくなってしまう。こんな話は大学の研究室の連中にはできない。こんな不健全で不真面目な面白さを共有できるのは、師匠だけだ。
 天狗神社や、戻り沼に興味を抱きつつも、岩倉へと向かって車は発進した。師匠はこの依頼が早く片付いたら、帰りに寄ろうと言ってくれた。
「じゃあ、いきましょう! 岩倉村へ」
「お、やる気が出たみたいだな。よし、BGMだ」
 新たな楽しみを秘めつつ、ボロ軽四は走る。稲川淳二の「やだな~、怖いな~」という声に包まれながら。

 しばらく人里のない山道を東へ東へ走り続けていると、道がふたまたになっている場所に出た。東へ向かう道と、南へ向かう道だった。
「東だな。この先に岩倉村がある」
 そう言って左にハンドルを切った師匠だったが、少し進むとアクセルを緩めた。
「道祖神だ」
 左の道ぶちに、大きな石が立っていた。道路わきに車を止め、降りて近くに行ってみると、がっしりとした台石の上に、1メートル以上ありそうな石碑が鎮座している。
 石には、向かい合う2人の像が彫られていて、文字の類はなかった。かなり古い石碑のようだ。苔むして、ところどころ欠けてしまっている。
「ふうん。双体道祖神だな」
 師匠は像の片方を指でなぞりながら言った。
「双体道祖神は、6地蔵なんかで使われる地蔵の2体彫りと、区別がつきにくいやつもあるんだけど。これははっきりと男女の2体になっているから、道祖神だ」
 なるほど。やってきた方向から奥、向かって右側にある像のほうが、頭に冠のようなものをつけている。男性ということなのだろう。左側の像は長い髪を垂らしている。どちらも地蔵のようにディフォルメされてはいるが、男女を表しているのはあきらかだった。
「このあたりが、村の境だったんでしょうね」
 僕は来た道と、行く道を見渡す。山が深く、見通しはよくない。道路も舗装はされているが、ボコボコしていて、あまり整備ができていない感じだ。
 師匠は楽しそうに、道祖神のまわりをぐるぐる回りはじめた。
「知ってると思うけど、道祖神ってのは、境の神だ。集落にとっては、サトとサトのソトを分ける境界を守る、重要な神だな。古くは、記紀に出てくる道反之大神(ちかえしのおおかみ)とか、塞坐黄泉戸大神(さやりますよみどのおおかみ)と呼ばれる神に由来している。黄泉の国の妻イザナミに会いに行ったイザナギが、腐った妻の姿を見てしまって逃げ帰るときに、桃の実を投げたり川を作ったりして、追いかけてくる妻を遮ろうとする。最後に黄泉比良坂(よもつひらさか)に、巨大な石を据えて、道を塞いだんだ。その石に神名が与えられ、生者の国と死者の国とを分かつ、境界の神が誕生した。それ以来、人が住まうサトと、異界であるソトの世界を分かつ道に、神が置かれた。遮り、塞ぐ神、『サヘノカミ』だな。道祖神ってのはわりと新しい言葉でな。元々、サヘノカミっていう音に道祖って文字を当てていて、それに神をくっつけて、道・祖・神という漢字三文字になり、それが音読みされて、ドウソジンになったって言われている。道祖神は道行く者を守る神であると同時に、サトへ、ソトの世界の悪霊や禍(わざわい)を招き寄せないために追い払う神でもある」
「師匠なんて、追い払われそうですけど」
 そんな軽口を叩いてみたら、「たしかにそうだな」と感心した様子で顎に指を当てている。
「道祖神の石碑には色々な形態があって、ただの石もあれば、男性器や女性器の形をしたものある。一番オーソドックスなのは、そのまんま『道祖神』って文字を書いてる石碑かな。双体道祖神も結構多い。男女2人の像が彫られていて、夫婦を表しているんだ。わざわいを遮る神としての役割よりも、縁結びとか子孫繁栄とかの、もっと庶民受けのする神の性質の方を強く持ってるんだな。道祖神の本場、長野県ではこの双体道祖神が多いんだけど、ちょっと面白くてな。そこに彫られている男女は、夫婦は夫婦なんだけど、兄・妹の兄妹とされているんだ」
「え」
「つまり近親である、兄妹婚の像なんだな。この兄妹相姦を道祖神祭祀起源説に持つ伝承は、長野県などの本州中央部と、中国地方中央部に多い。つまり、このあたりもその影響下にあるんだ。これがそうかは、わからないけど」
 ここを見てみろ、と師匠は向かい合う男女の像の中間を指差した。
「隙間がある。普通、双体道祖神は、仲睦まじくよりそっている。手をとりあったり、頬をくっつけあったり。チューしてるようなやつもある。でも、この岩倉の双体道祖神は、なんだか変だ。表情も微笑んでいない。どこかよそよそしい、無表情だ。この隙間をどう解釈するべきか」
 師匠はううむ、と唸っている。
 僕は、妙な符合を感じて戸惑っていた。この道の先にある岩倉村は、双子を忌む村だ。僕らの依頼人である羽根川里美は、双子の兄を探して欲しいと言った。村の外に捨てられた妹と、村に残った兄。向かい合う双体道祖神の間にある断絶ともとれる隙間……。
そういえば、右側にある男の像の先に、村がある。女の像の左側は、村の外側だ。ウチとソトの境界で、分かたれた2人。これは、どういう一致なのだろう。
「女の像のほうが、妙に足の先が大きいな」
 道祖神を観察していた師匠がボソリと言った。
 言われて見ると、たしかに女の像は、服の裾から覗いている足元が大きく彫られている。これもなにか意味があるのだろうか。
「ま、とりあえず、日が暮れる前に村に入らないとな」
 かがみこんでいた師匠が膝をポンと打って立ち上がった。僕も車の助手席に乗り込む。
 しばらく山道をくねくねと走っていると、道路の右手の谷側に川が現われた。小さな川だがそのまま村の方へ続いているようだった。その川に先導されて、車は走る。
「あ、ついたぞ」
 ようやく視界が開けた。山のなかにぽっかりと開いた、のどかな村の風景が飛び込んでくる。道沿いに電線が延びていて、それが道のそばにあるいくつかの家やその奥へと、枝葉を生やしていてる。
 手前に田んぼが広がっていて、青々とした稲が育っていた。
その横に、また石碑があった。
「道祖神だな。さっきのと同じだ。離れた双体道祖神」
 師匠は車をトロトロと走らせながら、観察した。さっきのものより石が少し小ぶりだったが、たしかに同じ形をしている。
「ええと、民宿は村に入ったらまっすぐですね」
 僕は、コピーしてきた大手地図会社の住宅地図を見ながら言った。
『たばこ』という看板のある家屋を目指して進み、明らかに寝ている店番のおばあさんの目の前を通り過ぎた。
 民宿『やまと屋』はそのすぐ隣にあった。
 出迎えてくれた女将は、滝野昭子という名前で、「しょうは昭和の昭ですよ。昭和生まれだから」と名乗った。
還暦まではまだひい、ふうあると言って笑っていた。永遠の○○歳というやつで、ずっとそう言っている可能性もあったが、大正の『正子』ではなく、昭和生まれの昭子ということなら、だいたいそんな歳なのだろう。
 日焼けして笑い皺がくっきり出ている人で、いかにも人当たりのよさそうな印象だった。
 里美さんが兄を探しに来たときに、村の人はとりつくしまがなかったと言っていたので、相当排他的な雰囲気を覚悟していたが、とりあえずファーストコンタクトとしては、すこぶる穏当だった。
「こっちの部屋と、そっちの部屋でいいかいね」
 やまと屋は民宿と言っても、ほとんど民家のような外観で、小さな看板が出てなかったらわからないような建物だった。僕と師匠にあてがわれたのは、2階のふた部屋だった。廊下を隔てて向かい合っている。どちらも4畳半ほどの畳敷きの殺風景な部屋で、足の低いテーブルが真んなかにあった。1階には、家族客用のもう少し大きい部屋が1つあるそうだ。
 とりあえず僕らは右手側の部屋に入り、腰を下ろす。車とはいえ、ずっと山道で尻が痛くなっていた。
テーブルの上のポットにはお湯が用意されていて、女将が急須でお茶をいれてくれた。
「お客さん、なんにしに来なすったの?」
 ふいにそう訊かれ、ドキッとした。ごく普通の会話なのだが、先入観のせいで思わず答えに窮する。
「大学の研究室で、庚申塔とか、道祖神とかの石碑を調べている学生なんですよ。県北には結構古いものが残っているので、フィールドワークで順に回っているんです」
 師匠がスラスラと答えた。
「さっそくこの集落の入り口にもありましたね。しかも珍しい形でした。いやあ、来てよかった」
「あら、そうですか。それはようございましたね。へえ、学生さん」
「ほかにもありますか」
「ええ、道祖神さんやったら、上岩倉の奥のほうにもありますし、南のほうへ行ったら、道端にどっさりありますねえ。庚申様でしたら、集会所のはたに大きなのがありますよ」
 なぜ来たのか、という質問に他意はなかったのか、女将はにこにこしている。
「あ、宿帳書いてくれますか」
と言って、相当古そうな帳面を出してきた。僕らの前に来た客が、3週間も前だ。遡っていっても、数週間に1回くらいのペースで、パラパラとしか客は来ていなかった。これでやっていけるのか、というよりも、やっていけるわけがないので、民宿は副業なのだろう。感覚的には、紹介されて農村の民家に泊まるイメージだ。そう言えば、やまと屋も入り口に農具が立てかけられていた。
「お部屋ふたつで良かったんですかいね?」
「はい。こいつは研究室の後輩ですけど、どうにもエロいんで」
「ちょ、ちょっとなに言ってるんですか」
 女2人で笑っている。僕は恥ずかしくて、自分の名前を走り書きした。もちろん小川調査事務所で使っている、偽名のほうだ。住所は小川調査事務所の住所にしておいた。
「この岩倉地区って、北の上岩倉(かみいわくら)と南の下岩倉(しもいわくら)に分かれてるんですね。ちょうど川で2つに分かれてるんですか」
 師匠がそう訊ねると、女将は、「ええ。中川(なかがわ)いう川ですがね」と言った。
「こっちが上岩倉ですよね。南の下岩倉にも民宿とかお店があるんですか」
 女将はそう訊かれ、「ないない」と笑って手を振った。
「元々、村役場がこっちにあったんですけどね。今はなくなって、森林組合の建物になってますが。昔の、人が多かった時分から、上岩倉が村の中心なんですよ。林業が花盛りだったころは、買い付けに来る人がよくうちにも泊まっていったらしいですけど」
「らしい?」
「ああ、ええ、私はよそから嫁に来たもので。……もう、17,8年になりますか」
 このやまと屋は、夫の滝野志郎が親からついだもので、お互い40歳を過ぎたところで、伴侶に死に別れ、それぞれに子どもを連れて再婚したのだそうだ。
 その子どもたちも、みんな県外に就職してしまって、家によりつかない、と言っていた。
「なんにもないところですけど、私にはそれがええんです」
 女将はころころと笑った。
 僕はなんだか、拍子抜けしてしまった。女将のウェルカムな雰囲気のおかげで、排他的なイメージが和らいだところだったのに、その女将自身、よそもの組だったわけだ。
「上岩倉が中心だっていうのは、やっぱり岩倉神社があるからですかね」
 師匠が訊ねる。
「ああ、いわくらさんね。本当に立派な神社ですよ。ぜひご覧になっていってください」
 僕はほのかに酸味のあるお茶を飲みながら訊いてみた。
「地元の人は、いわくらさん、と呼ばれるんですね。やっぱり、大きな石が祀られているんですか?」
「石、ですか? さあ」
 女将は怪訝な顔で首を振った。
 あれ? 師匠の推理は外れたのだろうか。岩倉という名前は、巨石信仰からきていると、自信満々に言っていたのに。
「御神体がそうなんでしょうかね。私は詳しくないですが。宮司さんにお訊きなさったらどうでしょう。とっても良いかたよ」
「そうしてみます」
 師匠はそう答えたが、解せない表情をしていた。たしかに変だ。御神体として社に隠されるていどの大きさの石が、はたして信仰の対象になるのだろうか。もしかして、形が珍しいとか。
 そう考えてみたが、頭に浮かぶのは男性器の形の石ばかりだった。
「あの、つかぬことを訊きますが」
「はいはい」
「民俗学の教授から聞いたんですけど、この岩倉で変わったかごめかごめの歌があるって。こんな歌ですけど」
 師匠はそう言って、僕をつっついた。また僕が歌うのかよ!
 しかたなく、もう暗記してしまった、テープの歌を披露する。
 女将は首を傾げながら、「聞いたことないですねぇ」と言った。
「もう子どもが、おらんなってますからねぇ。私がここへ来たときには、小学校があったんですけどね。この先の川のはたに。でももう廃校になってしもうて、今いる子はスクールバスで30キロ先の、岩倉の外の小学校まで行ってます。中学生も同じです。その子らも、小学生と中学生合わせても、もう3、4人しかいませんからねぇ」
 そんなに過疎が進んでいるのか。子どもが育てにくい環境だから、若い人が集落の外に出てしまう。年寄りばかり残っていても、人口は増えない。減っていく一方なのだ。
「さっきの歌で、『かたわれどき』という歌詞がありましたが、この言葉をご存じないですか」
 師匠が、何気ない調子でそう訊いた。それを聞いた僕は緊張した。この依頼の、肝の部分に通じる問いだったからだ。
「はあ。地元の人の言う、かたわれどきでしたら、夜の明けるころのことですね」
「やっぱり。その語源ってご存知ですか」
「さあ……。考えたこともなかったですねえ」
 女将の答え方に、はぐらかそうとしているような、おかしなところはなかった。
「などって、という言葉はどうですか」
「などって、ですか。聞いたことあるような気もしますけど。方言やったら、地元のお年寄りに聞いたらいいと思いますよ。お隣のタバコ屋のトモさんにでも」
「なるほど、ありがとうございます」
 師匠はそう言って、少し考えているそぶりを見せた。女将は地元の生まれではないので、あまりこの岩倉の伝統について詳しくないようだ。双子を忌む風習についても、知らないかも知れない。しかし、だからこそ訊ねやすいとも言える。
「もう1つ。この岩倉では、双子についてなにか伝わってはいませんか」
やっぱり、師匠ははっきりと訊いた。僕は緊張して、思わず自分の膝を強く掴んだ。
「ふたご、ですか」
 女将は首を横に振った。
「わかりません」
 そう言って、申し訳なさそうな顔をした。
 見逃さなかった。僕は、その女将の表情に、なにかを隠したような痕跡を見た。知っている。女将は、双子、という言葉になにか心当たりがあるのだ。
「お電話で伺っていたとおり、今日から2泊でよろしいですか。たいしたものはお出しできませんが、お夕食は6時から用意させてもらいます」
 急に女将は慌しくそう言うと、立ち上がった。
「お外に出るときは、お声かけてください」
 ごゆっくりと言って部屋を出て、階段を下りていく。僕と師匠は顔を見合わせた。
「反応アリ」
「そうですね」
「女将が地元出身じゃないのは本当だな。訛りが県北のものと違う。それでも、双子を忌む伝承について、聞きかじっているのかも知れない」
「17、8年前に嫁に来たって言ってましたね。里美さんがいま21歳ということは、生まれてすぐ戸籍をどうにかして、里子に出されたのが21年前。女将がこの岩倉にやってくるより、3年から4年くらい前の出来事ということですね」
「とりあえず女将はもう突っつかないほうがいいな。突っつくなら、羽根川さんの双子の兄のいどころを知っていそうな人をピンポイントでいかないと」
「田舎の情報網ハンパないですからね」
 僕らの、庚申塔などを研究しているフィールドワーク中の学生だという肩書きが、いつまで通用するのかわからなかった。
 岩倉の人々が隠していることを調べていることがわかってしまったら、相当やりづらくなるだろう。
「で、どうするんですか。そのピンポイントの心当たりを見つけるのは」
「そうだな。ま、とりあえず佐藤のじいさんが双子伝承について聞かされたっていう、岩倉神社の宮司は第一候補だな」
「でもあれ、何十年も前でしょう」
「代替わりしてるだろうけど、まだ宮司がいるのは、さっき女将が言ってたからな。良いかたよ、ってな」
 師匠は、テーブルに置いてあった、お茶請けの甘い干し梅を口に放り込む。
「ま、とりあえず羽根川さんの父親の本籍地を当たってみよう」
 早く片付けて帰ろうぜ。
 あぐらをかきながら、師匠は言った。

「ちょっと出てきます」
 そう言ってやまと屋を出たのは、午後の4時過ぎだった。まだまだ日は高いが、夕食の6時まで2時間もない。
 やまと屋の敷地にある駐車場にとめていた軽四に乗ってすぐ、師匠が「しまった」と言った。
「大ごもりについて訊くの忘れてた」
 僕も忘れていた。今もやっているのか知りたかったのに。今日は6月26日。昔から続く大ごもりの習慣が今も変わらずに続いているのなら、6月28日か6月29日のどちらかにあるはずなのだ。わざわざそこに合わせて日程を組んだというのに。さっき、もう突っつかないと決めた女将に訊くのはしんどい。
「まあいいや。だれかに訊こう」
「大丈夫ですかね」
「大丈夫だろう。庚申塔を調べてる学生なんだから、大ごもりっていう庚申講があるんですかって、無邪気に訊きゃあいいんだよ」
 そう言って師匠は地図を取り出した。
「地図では、と。このあたりだな。篠田って字(あざ)は」
 空白の多い住宅地図の道を表す細い線をたどって行くと、上岩倉の北東のほうに『篠田』という文字が見える。里美さんに教えてもらった、父親の本籍地は、『字篠田十一番一』という地番だった。車で行けそうなので、そこまで行ってみることにする。
 走り出すと、すぐにまた森深い山道に入った。民宿のあるあたりは、見通しがいい開けた場所だったが、さすがに山間の村だけある。
「しっかし、家がねぇな」
 師匠はハンドルを切りながら、ボソリと言う。窓の外を流れる景色は、緑ばかりだ。
 ところどころに古びた小屋のような建物や、朽ち果てた家屋が見えたが、それらが林業が盛んだったころの痕跡ということだろうか。
 最近ここを訪ねたという里美さんは、家が残っていなかったと言った。両親を亡くし、親類もいなかったので、父親は岩倉を出たのだと。
「このあたりなんだがな」
 師匠はアクセルを緩め、ゆっくりと軽四を走らせた。地図では、篠田七番という表示が、『山本』という家についている。その家は、道の山手側、つまり進行方向の右手側に見えてくるはずなのだが、なかなか姿を現さなかった。
 前に目を凝らしていると、ようやく家らしきものが見えてきた。
「あれは?」
 木々のなかに埋もれるように、苔むしてボロボロの建物があった。屋根が半分落ちている。明らかに人の気配はない。近づいてみたが、表札らしいものはなかった。
 そのすぐ左隣に、似たような建物があった。こちらはまだましだったが、板壁が剥がれ落ちていて、やはり人が住んでいるようには見えなかった。
「藤崎」
 師匠はかろうじて形を留めていたい表札を読んだ。地図では、藤崎という家は山本という家の少し先にあり、篠田十二番となっている。
「あれ。ということは」
 僕らは右隣の建物を見た。手前側の隣なのだから、こっちが篠田十一番ではないだろうか。地図にはないが、これが、羽根川里美の父親の本籍になっている家のはずだ。
「隣近所に聞き込みをしようにも、これじゃあな」
数キロ圏内に、この『藤崎』と『山本』しか、家がみあたらない地図を眺めて、師匠はため息をついた。一応、羽根川家跡を探索してみたが、屋根や壁がかなり崩れていて、倒壊していないのが不思議な有様だった。雨ざらしのせいで、雑草が生え放題。家具なども見当たらず、当時の生活の様子をうかがうこともできなかった。
 地図の先の道は途切れている。引き返すしかなかった。
「やっぱり手がかりなしですね」
「まあ、人がいるところで訊いてみるしかないだろうな」
 来た道を戻り、また山が開けた上岩倉の中心部へたどり着いた。
「あれが元小学校か」
 岩倉集落の中心部を絶つように東西に流れている、中川という緩やかな川がある。見通しの良いその川沿いに、木造の建物があった。平屋建てだが、民家よりもふた回りは大きい。横には雑草が生い茂った、校庭らしき敷地もあった。先ほどの廃屋とは異なり、屋根も壁も元の形を保っている。窓ガラスも嵌っていて、どうやらまだ使われているような様子だった。
「廃校になったあと、集会所として使ってるのかな」
 元小学校の前に車を止め、外に出ると、『閉校の碑』という小さな石碑があった。
「おい、これ見てみろよ」
 師匠は、その閉校の碑ではなく、そのそばにあった別の石碑を指さした。それは、閉校の碑よりも大きく、台座と合わせて2メートルはありそうな縦長の石碑だった。上部は、四角ではなく、まるで剣のように尖り、その下には6本の腕を持つ、夜叉のような像が彫られていた。
「庚申塔だ」
「デカいですね」
「立派なもんだ。青面金剛だな」
 かなり古いもののようで、顔のあたりは石が欠けてしまっているが、冠があり、一対の腕は胸の前で合掌し、残りの二対4本の腕は、剣と錫杖、矢と輪のようなものをそれぞれ持っていた。あきらかに地蔵ではない。そして足元には、なにか四つんばいになった動物のようなものが描かれている。
「踏みつけられているのは邪鬼だ。顔は欠けてしまっているけど、青面金剛は額に第三の目を持ち、憤怒の表情をして、悪鬼を滅ぼす恐ろしい神だ。庚申の日の夜には、人の悪行を天帝に告げ口しにいく三尸の虫を、封じる神でもある」
「これは猿ですか」
 踏みつけられた邪鬼の下には台のような線が描かれ、さらにその下には、3匹の猿が屈みこんでいる。
「三猿だよ。見ざる、言わざる、聞かざるのトリオだ。青面金剛とセットで描かれることが多い。これも三尸の虫封じに関わっている。三尸の虫に対して、人の悪行を『見ざる、言わざる、聞かざる』でいてくれ、という願いを表している。この三猿だけが彫られた庚申塔も結構多い」
 師匠はそう説明したあと、うん? と怪訝な顔をした。
「なんか変だな」
 そう言って、猿の像に顔を近づけている。どこが変なのだろう。猿はそれぞれ、左から目、口、耳を押さえている。よく見る構図だ。
「どこが変なんですか」
「左の猿だ。見ざるのはずなんだが、押さえている位置をよく見ろ」
 押さえている位置? 左の猿は両手で目を覆い隠している。
「見ざるでしょ。これで」
「いや、普通の見ざるは、こうだ」
 師匠はそう言って、左手で左目を、右手で右目を覆った。
 あ、そうか。僕はようやく気づく。この像の猿は、両方の手のひらをクロスするようにして、眉間の中央を覆っている。目を隠していることに違いはないが、たしかにちょっと構図が異なっている。
「あまり見たことがないな。私は初めてかもしれない。このタイプは。これじゃ、言わざると、絵面が被るだろ」
 言わざるが顔の下側で両手をクロスしているのに対し、見ざるは上側で両手をクロスしている格好だ。被っているといえば被っている。しかし、僕には大した問題には思えなかった。
「庚申塔がここにあるってことは、この小学校の校舎でも庚申講をやっているんでしょうか」
 話題を変えると、師匠は「どうだろうな」と言った。
「小学校をやっていたころはさすがに、自治体の建物だから地元住民が夜集まって庚申講をする、ってのは無理だろう。庚申塔があったのは、この建物が出来る前に、庚申講にまつわる場所だったからかも知れないな。今は集会所になってるっぽいから、ひょっとしてやってるかも」
「大ごもりって、講がいくつも集まって1ヵ所でやるって言ってましたね。佐藤さんが。この小学校の校舎なんて、大きくてうってつけじゃないですか」
「そうだなぁ」
 師匠は校舎の玄関らしき扉に手をかけた。開けようとしたが、びくともしなかった。鍵がかかっているようだ。当たり前か。
「あ」
 そんな僕らのやりとりを見ている視線に気がついた。同じ川沿いで、小学校の敷地から少し離れた場所に家があり、その垣根の上から覗き込むようにしてこちらを見ている人がいたのだ。
 そっちを見た瞬間、その人も気づいたのか、すぐに引っ込んでしまった。一瞬だったのではっきりとはわからなかったが、お年寄りのように見えた。
「見られてたな」
「泥棒じゃないかって通報されやしませんかね」
「まあ大丈夫だろ。しかし、人に全然出くわさないし、いても歓迎されない雰囲気だな、これは」
 師匠はあごを撫でた。
 小学校の敷地を出て、また車に乗り込む。
「橋があるな。向こうが南だから、下岩倉のほうだな」
 すぐ近くに川にかかる橋があった。あまり大きくはない。車が2台すれ違うのはしんどそうだ。もっとも、川幅も狭く、橋は短いので、譲り合って待てば、すれ違いは必要なさそうだ。
 橋のたもとに、双体道祖神があった。比較的新しいようだが、村の入り口にあったものと同じ構図だった。
「川も境だからな」と師匠が言った。
対向車も来ていないので、そのまま車で渡った。対岸の下岩倉は、川沿いに畑と田んぼが並んでいる。奥には山のなかにいくつか家が見える。上岩倉ほどの平らな場所は少なそうだ。山のほうに走っていると、小高い場所に大きな建物が見えた。木造の平屋建てで、先ほどの小学校ほどではないが、駐車場らしき場所もあり、敷地はなかなかに広い。
 くねくね曲がる坂を上り、近づいてみると『下岩倉集会所』という看板が出ていた。
「お、また庚申塔だ」
 集会所の駐車場の隅に、先ほどのものと似た形の石碑があった。ものはさらに古そうだ。青面金剛の顔だけでなく、手の一部や下の猿もかなり石が欠けてしまっている。
「こっちも年号はないな。でも相当古そうだ」
 師匠はしゃがみ込んで、猿の像を手でなぞった。
「同じだ。やっぱり、見ざるが手をクロスして目を覆っている。時代が違っても作り方が一定なんだ」
 ぶつぶつとそう言いながら、首を傾げている。
 そのとき、集会所の引き戸がカラカラと開いた。
「あれ。どなた?」
 50過ぎくらいの割烹着の女性が、座布団を持って玄関からこちらを見ている。
 駐車場に車がなかったから、人がいないと思いこんでいた。驚いたが、いいタイミングだった。
「やまと屋に泊まってるO大学の学生です。庚申塔とかの研究をしてるんです。すみません、勝手にお邪魔しちゃって」
 師匠がにこやかに話しかけた。女性はドアの外で座布団を叩いて埃を落としてから、玄関のなかに放りこんだ。
「あらあら。それはそれは。こんなところまで」
 ふくよかな体格のその女性は、割烹着のすそで手を拭いて、外に出てきた。人あたりの良さそうな印象だった。師匠がわざわざ大学の名前を言ったのは、腐っても国立大学だから、それで少しでも警戒心を解いてもらえないか、という下心からだろう。
「いやあ、立派な庚申塔ですねぇ。いまはこんなに古くて歴史があるものが少なくて。この猿なんか、実に味があって良いですね」
 猿でもなんでも、褒め倒そうという腹か。僕もそれに乗って、「この邪鬼の踏まれっぷりも最高」などと言って師匠に睨まれた。
「いまでも庚申講をされたりするんですか?」
 さらっと師匠が訊く。
「私らの子どもの時分は、やってるところもあったみたいですけど。いまはもうどこもやってないですねぇ」
「やってない?」
「はあ。いまじゃ拝むくらいですわ。庚申様を」
 そう言って、女性はパンパンと両手を顔の前で打ち、祈る真似をした。
「拝むだけで済むなら、手間がかからなくていいですね。ところで、こちらではその庚申講とは別に、なにかみなさんで集まって夜を明かすお祭りがあると、伺ったんですが」
 師匠の言葉に女性の顔が少し強張った。しかし、それも一瞬で、すぐに笑って返事をした。
「ああ、大ごもりというんです。昔からの伝統で」
 やっぱり。まだ続いていた。僕は思わず小さくガッツポーズをした。
「もしかして、その準備を?」
 師匠は、女性の割烹着姿を上から下まで見て、訊ねた。
「あ、ええ。掃除くらいですけど」
「うわあ。興味があるなあ。いつあるんですか、それ」
 知らない振りをして、いつあるのか、なんて訊ねているが、割烹着を見ただけで、その準備か? と訊いている時点で、わかってるのがバレバレだった。しかし女性は気づかないようだ。
「……明後日です」
 答えようか迷ったような気配があった。
「いいなあ。そういうの興味があるんですよぉ。なあ?」
「ええもう。田舎の奇祭好きで、僕ら」
 ははは、と笑いながら返したが、また師匠には睨まれる。
「当日、見学とかってできないですかね」
 スリスリと蝿が手をするように、師匠が割烹着の女性にお願いをする。しかし、女性は困った顔で、「それはちょっと」と言った。
「すみませんね。内輪の集まりなもので」
「最初のほうだけでも」
「あの、ごめんくださいね。掃除が途中で」
 女性はパタパタと走って、集会所の建物のなかに入ってしまった。
「うわあ」
 僕は師匠を非難してみた。
「いろいろ訊くチャンスだったのに」
「おまえが奇祭なんて言うからだ。それにまだわかんないぞ」
 師匠は集会所のドアに手をかけた。
「ちょ、ちょっと待ってください。しつこくすると、本格的に村から追い出されますよ」
 なんとか思いとどまらせた。
「しかし、でかい集会所だな。不釣合いなくらいに」
「2、30人くらい入るんですかね」
「もっとだろう。大ごもりのために、地域の住民がみんな入れるような集会所を構えているんだったりして」
「まさか」
 そう答えたものの、なんだかそんな気がしてくる。
「明後日か。28日だな。やっぱり法則どおりだ。時間はまだある。今日のところは引き上げるか」
「それにしても、やっぱりちょっと歓迎されない感じですね。里美さんが言ってたみたいに」
「大ごもりか。なんなんだろうな。庚申講がすたってきて、日付にこだわらず、代わりに年1回みんなで集まって夜更かしをする集まり、と考えればしっくりくるんだけど。なんであんなに部外者が近づくのを嫌がるのか……」
 師匠はブツブツと言いながら車に乗り込む。
「まだ6時まで少しありますけど」
「じゃあ神社に行ってみるか。岩倉神社に」
「そうですね」
 集会所を出て、来た道を引き返した。また橋を渡り、上岩倉に戻ると、地図を見ながら山側へ入り、その道をひたすら北へ北へ向かった。
 中川の支流らしい小さな川が、蛇行しながら道に並んでいる。川沿いに進むと、途中で民家がいくつかあったが、どれも雨戸まで閉まっていて、人が住んでいないような気配だった。
「すごい尖ってる山だな」
 前方に見える山は、師匠の感想のとおり天に向かって屹立していた。標高はそれほどなく、200メートルもないくらいだろう。木々が繁っている。頂上のあたりがはっきり見えるぶん、尖って見えるのだろう。
 その山の麓に、大きな鳥居があった。
 そばに車を停めるスペースがあったので、降りて歩く。鳥居の向こうは、神社の敷地だった。参道があって、その向こうに建物が見えている。
「これが岩倉神社ですね」
「200人の村にしては立派だな。道祖神やら庚申塔やら、信心深い土地柄なんだろうな」
 鳥居をくぐり、建物に近づいていくと、参道の横の繁みから山鳥が飛び出し、ケーンケーンと鳴きながら地面を駆けるように飛び去っていった。
「キジか」
 師匠は鳥が去った方を見て、「このあたりは野生のキジが多いんだな」と言った。「鳴き声は、キジのごとし、ってな」
 どこかで聞いたようなフレーズだった。あ、そうか。天狗伝説の村で、空から落ちてきた生き物を、そう呼んだ話だ。ここへ来る最中、その村が、ここから北西にある新城村だと聞いた。いま僕らがいる岩倉神社と、レイラインで結ばれている場所だ。
 僕は目に見えない透明な線が、空を横断して、はるか遠くへ伸びているのを想像した。
「社殿だ」
 大きく屋根が左右に張り出した建物が、敷地の奥にあった。建物の背後には、背の高い樹が繁っている。厳かな雰囲気だった。賽銭箱が据えられていたので、師匠と僕はそれぞれ小銭を投げ入れて手を合わせた。
 社殿の横には垣根が張り巡らされていて、右手側にたどっていくと、すぐそばに社務所があった。
「すみません」
 師匠が入り口から声をかけると、返事があった。しばらく待つと、なかから眼鏡をかけた男性が現れた。50歳くらいだろうか。袴姿で、皺の多い厳めしい表情をしている、
「はい」
 僕と師匠がなにものなのか、観察するような視線だった。
「私たち、O大学の学生で、庚申塔とか道祖神を見て回っているんです」
 今日何度目かの説明をした師匠に、男性は、「そうですか」と静かに返事をした。
「宮司の月本です」
「あ、どうも。こちらは岩倉神社という名前ですよね。かなり古い神社のようですが、いつごろからあるんでしょうか」
「安和(あんな)元年と伝えられていますが。もっとも、建物は何度か造りかえられているはずです」
「安和って、千年くらい前ですよね。平安時代だ。歴史があるんですね。岩倉というと、もしかしてこのあたりに大きな石があったんですか?」
「……いまはありません。昔は、といっても、それこそ当神社が開かれたころで、大昔の話ですが。磐座(いわくら)と言われる大きな石があったそうです。この天神山の麓に」
 宮司はそう言って、社殿の奥の山を指さした。師匠と僕も、そちらを見上げる。
「あの尖った山は天神山と言うんですね。やっぱり、巨石が岩倉神社や岩倉村の由来でしたか。でも、あった、と言うのはどういうことなんでしょう。どちらかに移したのですか?」
「いえ、それが不思議な話ですが、社伝によると、砕けたとされています」
「砕けた?」
「はい。千年ほど前に、天狗星がこの地に落ちたそうです。天狗星によって、磐座が砕かれ、天神山にも亀裂が入ったと伝えられています」
 宮司は表情を変えず、淡々と話している。よそ者に対する警戒心なのか、普段からこんな調子なのかはわからなかった。
「天狗星……」
 師匠とは僕は絶句した。レイラインで繋がっている、新城村と同じだ。隕石が落ちたという伝説が、ここにもあった。これは、偶然なのか?
「この岩倉神社は、そのあとにできた神社です。この地の神を慰め、天変地異の混乱から人心を救うためにできたのではないでしょうか」
「その、磐座があったという場所には行けますか?」
「いえ、申し訳ありませんが。今でも聖域ですので、立ち入りはできません」
「聖域、ですか。天神山には入れますか」
「いいえ。天神山も同じで、地元の者でも入れません」
「入会権(いりあいけん)ってやつですか」
 師匠は垣根の奥に広がる、山の裾野の木々を眺めながら口元をゆがめた。
「実は、私たちの恩師が以前、こちらの神社を訪ねたことがありまして。そのときに、宮司さんから、この岩倉村のある伝承について聞かされたそうです」
 師匠が、あっけらかんとした口調を改め、どこか挑むような声色で話し始めた。
 行った。攻め入った。僕はごくりと生唾を飲んだ。始まったからには、もう行くしかない。そんな気分だった。
「人は、すべて男児と女児の双子で生まれるという民間伝承です。片方は現世に、片方はあの世に生れ落ちる。その理が崩れ、現世に双子として生れ落ちたものは、どちらかが、あの世に生まれるはずだった、忌み子として扱われると」
 師匠は、宮司の顔を正面から見つめている。宮司は視線をそらさずに、「それを、だれから聞いたと?」と言った。
「30年ほど前に、この神社の宮司から聞いたそうです」
「それならば、私の父ですね」
「お父様はいま?」
「10年前に亡くなりました」
 ふう、とそこで息を吐いて、宮司は「どうぞ、上がってください」と社務所のなかへ僕らを案内した。
 畳敷きの部屋に通されて、僕らは向かい合って座った。宮司の背筋はピンと伸びていて、僕も思わず背筋を伸ばして正座をした。師匠は猫背で、挑発的に見上げている。
「勘違いされては困りますが、その伝承はもう昔の話です」
「では、双子を忌む慣習自体はあったんですね」
「ありましたが、いまでは私どもも、言い伝えを聞かされているだけです。男子と女子の双子が生まれたら、どちらかを里子に出していたと」
「里子、というのは村のなかでですか」
「……」
 宮司は目を閉じた。それを見て、師匠は畳みかける。
「村の外ですね。里子に出したのは。そうでなくては意味がない。古来より、人の住む『里(サト)』と、その外の世界には断絶があります。サトから一歩出れば、そこは異界です。地続きの異界。イザナギが行った黄泉の国は、黄泉比良坂で隔てられた、現世と地続きの異世界でした。だから、サトとその外の境には道祖神が置かれ、招かれざる禍(わざわい)を、悪霊を、塞ぐのです。この村の入り口にも、大きな道祖神がありました。サトとソトの概念を、村の人々が昔から意識していた証です。間違って現世に生まれたこどもは、あの世に返す必要がある。だから、里子に出すなら、村の外だ。サトという共同体のなかにいてはならない。そうですね」
「……古い話です。戦前には、そうしたこともあったと、聞いたことはあります」
「戦前って。だって、僕らが聞いたのは」
「ちょっと黙ってろ」
 依頼人のことを言いかけた僕を、師匠が瞬時に押しとどめた。
「古くは、間引きがあったのではないですか。あの世に返す、もっとも確実な方法ですから。近代化以後、それも難しくなって、やむをえず取った方法が、村の外への里子です。それも、養子縁組ではない方法がとられていた。この村には病院がないようですが、近隣に出身者がやっている医院があるのではないですか。そこで出産し、もし男女の双子が生まれれば、出生届は1人分しか出さず、里子に出す先の母親がもう1人を生んだとする出生証明を偽造する。そうまでして、養子縁組を避けるのはなぜか」
「なにをおっしゃってるんですか」という、制するような宮司の声に、被せるように師匠は続ける。
「たどられるのを防ぐためですよ。養子に出された子どもが、本当の父母やきょうだいを探してこの村にやってくることを、防いでいるんです。サトのソトというあの世、かくりよから、忌み子が戻ってくるのを止めるためです。禍の侵入を防ぐ道祖神のように。この村の入り口の道祖神は、双体道祖神でした。夫婦、もしくは兄・妹の兄妹を表す、男女の道祖神です。通常、双体道祖神は仲睦まじく体を寄せ合っています。しかしこの村のものは、体が離れています。この別離は実に象徴的じゃないですか。男女のきょうだいが、うつしよとかくりよに引き離されている、まさに象徴です」
「待ちなさい。まるで邪教のような物言いは見過ごせません。憶測でも、あなたの言葉は私たちへの侮辱ですよ」
 宮司の表情にあまり変化はないが、言葉は強烈だった。師匠も少し怯んだようだった。
「すみません。知り合いが、この村の出身かも知れないと相談を受けまして。恩師からそんな双子を忌む慣習のことを聞いていたもので、つい言葉が過ぎました」
「お知り合いとは?」
「羽根川里美さんという女性です。先年この村の出身だったお父様が亡くなられたのですが、その間際に、聞かされたそうです。この村から里子に出されたのだと」
 僕は、師匠とやりとりをする宮司の表情をじっと見ていた。怒っているような口調だが、やはり顔は変わらなかった。
「存じませんね。羽根川というと、昔、篠田のほうにそんな家がありましたが、外へ働きに行っていたのか、村ではお見かけした記憶がありません。当神社の氏子でもなかったと思います」
「里美さんはいま21歳ですが、お兄さんがいるのでは、ということでした。双子の」
「その里美さんという方は、ご養子ですか」
「いえ」
「では、思い込みでしょう。あなたがたの。そんな古い慣習に縛られて、いまでもそんな残酷な違法行為を行っているなど、無礼な憶測です」
 宮司の言葉には、これ以上の詰問は受け付けない壁を感じた。師匠も、どうしたものか、考えあぐねているようだった。
「あのー。この神社に祀られているのは、イザナギとアマテラスオオミカミだと聞いたんですけど、そうですか?」
 言葉の接ぎ穂に、そう訊いてみた。
「伊弉諾神(イザナギ)と、大日孁貴神(オオヒルメノムチノカミ)です。それがなにか」
 なんだか、言葉の端々にトゲを感じる。実に居心地が悪い。
師匠が口をはさんだ。
「大ごもり、という風習があるようですね。庚申講のように、一か所に集まって夜を明かす慣習で、毎年6月末にあるとか。今年は、あさっての28日にあると聞きました。祀るのは、この神社の祭神と同じ、イザナギとオオヒルメノムチだとか。会場の集会所には青面金剛の庚申塔がありましたが、大ごもりは、庚申講ではないんですね」
「……土地の人間はみな、この岩倉神社の氏子ですから。祀る神は自然とそうなったんでしょう。もとは庚申講だったのかも知れませんが、昔より人も減って、世話役の当番を回すのも難しくなってきましたから。庚申の日にこだわらず、年1回にして、田植えの終わった良い時期にやるようになったのではないでしょうか」
 宮司は人ごとのようにそう言った。僕の推測と同じだった。
昼間にも拘わらず薄暗い室内だった。窓が開け放たれていたが、風はあまり入ってこず、そのかわり扇風機が動いていた。
 沈黙を経て、師匠が言った。
「大ごもりの目的がはっきりしませんね。庚申講であれば、三尸の虫が身体から抜け出さないように寝ないで過ごす。庚申の日でなければ、寝ずに過ごす必要がない」
「古い習慣などそんなものでしょう。合理的な理由を求めるのは意味がない」
「庚申講をやめて年1回決まった時期に行うようになったのは、人が減り、世話役の当番を回すのが難しくなったからなのでしょう? 田植えの終わった時期にやることも含め、充分合理的な理由ですよ。寝ずに過ごすという部分が残ったことにも、きっと意味がある。大ごもりとは、いったいなんなのですか。もとが庚申講だと言うなら、本尊は、青面金剛のままでいいでしょう。この村には、とても歴史のある青面金剛の庚申塔がありましたよ。それが大ごもりになって、祀るのがイザナギとオオヒルメノムチになったというからには、そこにも絶対に理由がある。合理的な理由が。どちらも、きょうだいが、かくりよへ行った神です。双子のかたわれをサトのソトに。つまり、かくりよへ追放するこの村には、ふさわしい守り神ではないですか。うつしよの象徴として」
「研究者というのは、土地の人間の慣習に土足で踏み入っても、かまわないと思っているのですか」
 師匠の言葉を遮るように、厳しい言葉が飛んできた。
「O大学の学生とおっしゃいましたね。学生証を見せなさい」
 え。
 やばい。財布に入っているけど、出しても大丈夫なのだろうか。警察に通報されるとは思わないが、ちょっと嫌だ。しかも、やまと屋の宿帳に、偽名を書いてしまっている。いま本名の学生証を出して、やまと屋に確認をされたら、面倒なことにならないだろうか。
 頭のなかでそんなことがぐるぐる回る。すると、師匠が財布を取り出して、カードを宮司に渡した。
「浦井加奈子さん、ですか。たしかにO大学の学生ですね」
「考古学の寺島教授のゼミにいます。こいつはまだゼミ専攻前で、見習いです」
「あ、すみません、僕は学生証持ってきてないです」
 とっさにそう言ったが、それ以上追及されなかった。師匠の態度が堂々としていたからだろうか。考古学の寺島教授のゼミとは、師匠が出入りしている研究室の1つだ。完全なウソというわけでもない。それにしても、本名を名乗るとは。
「この岩倉の人々が昔から持っている、共同幻想があります。それを、あなたたちはほかの土地の人々には知られなくないと思っている。双子を忌むということを、恥じていることから生まれた禁忌の感情だと思いました。サトのソトへ子を捨てることを恥じているのだと。でも宮司さん。あなたとやりとりをしていて、思いました。双子を忌む理由のほうにこそ、大きな禁忌が含まれているような気がする。人はみな男女の双子で生じる、という共同幻想がなぜ生まれたのか。そこに鍵があるのでは。六部殺し(りくぶごろし)のように、共同体として持っている、原罪のような口をつぐむべき感情があるではないでしょうか」
 宮司は、顔色を変えなかった。しかし、立ち上がって、毅然とした言葉で告げた。
「お話しすることは、もうなにもない。お帰り下さい」
 さあ。そう言って、両手で追い立てるような仕草をする。
「この岩倉は、昔から双子が多く生まれる土地柄だったのですね。あなたたちは、そこに共同幻想を抱いた」
「立ち去りなさい!」
 大喝された。僕は思わず首をすくめる。師匠は、宮司を睨みつけるように見ていたが、やがて肩を落として、「わかりました」と言った。
 社務所の部屋の電気が消され、廊下の電気が消され、玄関の扉が背後で閉まった。慌ただしく追い立てられた僕らは、社務所の外で顔を見合わせる。
「手ごわいな。学生証見せろときたよ」
「よかったんですか。見せて。宿帳を確認されたら」
「大丈夫。こんなこともあろうかと、私は本名書いといたから」
「それ、逆に面倒なことになったら、偽名で逃げられないですよ」
「こんなことで警察沙汰なんかにはならないだろ。まして命までは取られないから、大丈夫だ」
 どうしてこんなに楽観的なのか。僕など、余計な心配をして胃が痛くなってきた。
 師匠は、腰に手をやって、神社の敷地を覆う垣根の奥の森を見つめている。その向こうには、天神山がそびえている。
「ちょっと、だめですよ」
「そうだな」
 師匠は視線をそらさずにそう答えた。
「まじでだめですよ。聖域だって言ってたでしょ。私有地か神社の土地かわかりませんけど、不法侵入ですよ」
 磐座がくだけたという天狗星の伝説に、挑みかねない雰囲気だったので、思わず必死でいいつのる。
「わかったわかった」
 そろそろ6時だから、宿に戻るか。と言って、師匠は参道を戻り始めた。
 車に乗ったところで、僕は疑問に思ったことを口にした、
「昔から双子が多く生まれる土地柄だった、って言ってましたけど。あれはどういう意味ですか」
「今回の依頼を聞いてから、双子について調べてみたんだよ。そしたら、ちょっと面白いことがわかってな」
 エンジンをかけながら師匠は続けた。
「双子には大きく2種類あって、一卵性双生児と二卵性双生児とがある」
「知ってますよ。一卵性のほうは同性で、遺伝的にもほぼそっくり。二卵性のほうは、男と女のペアもあるし、遺伝的に一卵性ほど似ていないんでしょ」
「いや、異性一卵性双生児ってのも稀にあるらしいぞ。それはともかく、面白いのは発生率なんだよ。双子の発生率は人種によって違って、黒人で50分の1くらい、白人で100分の1くらい。日本人だと150分の1くらいなんだと」
「日本人は低いんですね」
「一卵性双生児の発生率は、どの人種も一律でだいたい250分の1。約0.4%なんだってさ。ようするに、二卵性双生児の発生率が異なるんだな。遺伝的要因やら、食べ物なんかの環境的要因で、二卵性双生児が生まれやすい、生まれにくいってことが起こるんだ。さて、ここで算数の問題です。日本人の双子発生率が150分の1、そのうち一卵性双生児の発生率が250分の1だとすると、二卵性双生児の発生率は何分の1でしょうか?」
 う。急に数字を並べられても、暗算だと、とっさに答えがでない。チチチチチ……。と師匠が時計の音の真似をする。
「さあ、時間がないぞ。双子の誕生とかけて、双子の出生率と解く。その心は? チチチチチチ。はい残念。どちらも、あんざんが大事でしょう!」
 そんな妨害にもめげず、僕は答えを出した。
「375分の1」
「正解」
 すごいな僕。我ながら。
「その二卵性双生児のうち、男と女の発生率はだいたい同じです。では、二卵性の男女の双生児の発生率はいくつでしょう」
「それは簡単ですよ。2人目が1人目と同じ性別になる確率は2分の1です。だから、375かける2で、750分の1です」
「せいか~い」
 師匠はハンドルを離して拍手する。危ない。狭い田舎道なのに。
「一卵性双生児はほぼ100%同性だ。だから、日本人の男女の双子の発生率は、二卵性双生児の男女が生まれる確率と同じ、750分の1という計算になる。750人の妊婦からやっと1組生まれる計算だ。さて、この岩倉の人口は何人だった?」
「200人弱くらいでしたね」
「高齢化、過疎化が進んで、若者が少ない。生まれる子どもは、多くて年間1人2人だろう。小中学校の生徒が合わせて3,4人って言ってたしな。750分の1が発生するのに、いったい何十年かかるんだろうな。いや、何百年か」
 笑う師匠の言葉に、ゾクリとした。
 そうだ。男女の双子が生まれる確率を考えると、たしかにそうなる。この小さな過疎の地区で、男女の双子が生まれるのは、ほとんどありえないような確率だ。
「昭和30年の合併当時の人口は700人だったな。多めに見積もって、子どもが今の10倍、年間で仮に15人生まれていたとしても、50年に1回の確率だ。おかしいと思わないか。そんな、一生に一回お目にかかるか、かからないか、というできごとのために、『男女の双子は忌み子』だなんて伝承を後生大事に伝えてきたなんて」
「そうですね。禁忌にしては、起こらなすぎる」
「ああ。禁忌には、それを忌む教育的な理由がある。夜中に爪を切るな。夜中に口笛を吹くな。秋茄子は嫁に食わすな……。自分の健康を守り、地域に迷惑をかけない生き方をするためにだ。起こらないことを禁忌にするのは、意味がない。だから、考えたんだよ。この岩倉では、伝統的に双子が生まれやすいんじゃないかってな」
「でもそんなことあるんですか」
「言ったろ。二卵性双生児の発生率は、遺伝要因や環境要因で上下するんだ。昔、テレビの特番で、双子の村ってふれこみの村のロケを見たことがある。南米のどっかだったと思うけど、そこでは双子の発生率が10%だって言ってたよ。妊婦の10人に1人が双子を産むんだ。遺伝だよ。そういう遺伝子が脈々と伝わっている。地理的に隔絶していて、閉鎖的なメンタリティを持っている人々の住む場所では、外の世界と血が混ざりにくい。双子が生まれやすい血が、さらに濃くなることで、さらに双子が生まれやすくなる。そういうことが、起こりうるんじゃないかって、思うんだ」
「それが、さっき宮司さんに言ってた、共同幻想ってやつと関わりがあるんでしょうか」
「さあなあ。なんかもう今日は疲れたよ。超怒られたし。とっと宿に帰って飯食って寝よう」
 あくびをしながら、師匠は言った。
 もう少しで午後6時だった。6月の末というこの時期は、夕方の6時くらいでは、まだ日は落ちない。なのに、いま車の窓から見える景色は、どこか薄暗かった。
 四方を山に囲まれているからだ。平地だと、太陽が沈むのは水平線に近い角度だ。けれどこの山間の村では、沈む太陽が山の端にかかると、そこが日暮れになる。車が走っている道は、まだ太陽を見ることができるのでそれほどでもないが、東のほうの山の麓は、どこも森の緑が暗く沈んで見える。
「時間の流れが、違うんですね」
 ぼそりとつぶやいた。師匠が、「あ?」と訊き返してきたので、「いや、別に」と答えた。
 この山深い土地は、僕らが暮らしている市街地とは、異なる時間の流れのなかにあった。何百年も、何千年も、この早い日暮れの世界がここにあったはずだ。そう思うと、なんだか感傷的な気分になった。
 そこで暮らす人々のことを考えた。きっと僕らとは、どこか違う考え方を持っているだろう。その思いを、少しでも理解したい。その向こうに、師匠が言っていた、『共同幻想』の答えがあるような気がした。
師匠の運転する車のうしろから、山の影が夜をともなって迫りつつあった。

 また東西に延びる中川沿いの道に出た。村の入り口に近い西のほうにある、やまと屋へ向かってゆっくりと車を走らせる。
 左手の小学校を過ぎたところで、右手のほう、つまり山手側の道路沿いに、人がたむろしているのが見えた。2階建ての大きな建物があり、そこから出てきた人たちのようだった。
『岩倉森林組合』という看板が出ていた。女将が言っていた、元村役場だった建物だろう。
「いるじゃん、若者」
 師匠が車を道ぶちに寄せて停める。作業着姿の数人がこちらを見た。みんな男だった。建物の入り口の横に自動販売機があって、その周りに集まっているのだ。
「こんにちは」
 師匠と僕が声をかけると、彼らはじろじろとこちらを見てきた。
「なんだあんたら。見たことないな。観光客? だれかの親戚?」
 太った金髪の男が、初対面とは思えない横柄な態度で言った。手には缶コーヒーを持っている。
「こんなところに観光客がくるかよ」
 痩せた男が笑った。しゃがみこんでタバコを吸っている。この2人が年嵩のようだ。30歳手前くらいだろうか。
「いやあ。実は石碑の研究してるんですよ。庚申塔とか、道祖神とか」
「なんだそれ。そんなん見て面白いのかよ」
「みなさん地元の人ですか?」
「違うよ。俺はこれからかえーるー」
 痩せた男が運転をする真似をした。
「地元だけど俺もでーてーくー」
 金髪の男も真似をして笑っている。下品な笑いだった。なにが面白いのかわからない。実に感じが悪い。こいつらに話しかけたのはまずかったのでは。僕はそう思い始めていた。
「ああ、今日は金曜日でしたね。花金だ。お仕事が終わって、これから街に繰り出すんですか」
「オネエちゃんも一緒にくる?」
「いいねえ。行こうぜ」
 金髪のデブとガリが、言い寄ってきた。やっぱりだめだ、こいつら。まずかった。2人よりも若い他の同僚は、それをたしなめるでもなく、愛想笑いを浮かべている。
「いやあ、実は今日、全然若い人見てなくて。ここって林業が盛んだって聞きましたけど、やっぱり若い人はこの森林組合で働くんですか。私21歳なんですけど、同い年の人っていたりします?」
 今年で25歳になる師匠がサバを読みながら、なんとか重要な情報を聞き出そうとしている。依頼人の羽根川里美の生き別れの兄は、21歳のはずなのだ。
 しかし、彼らはふざけて答えようとしない。
「はい! ボク21歳」
「ボクも!」
 デブとガリがおどけて手を挙げる。彼らは明らかにずっと年上だ。
「なあ、行こうぜって」
 デブが師匠に近づいた。僕は思わず、そこに割って入る。
「なんだよ」
 デブが睨みつけてくる。ガンを飛ばすってやつだ。そういうのは、高校生で卒業しろよ!
 そこに、まあまあ、と師匠がさらに割って入る。
「なんか、明後日に大ごもりってのがあるって聞いたんですよ。寝ずのパーティみたいなやつだって。面白いんですか」
「はあ? 面白いわけねえだろ。あんな辛気くせえの」
「辛気くさい?」
「あんなのジジババの社交場だっつの。俺らみたい若者が行くわけないだろ」
 おまえらも行かねえだろ?
 同意を求めるデブに、同僚たちがおずおずと頷いた。
「くっだらねえから、今夜から出てくんだよ。おい。月曜の朝遅刻したら、頼むぞ」
「ボクも月曜帰りッスから。こっちこそ遅刻したらすんません」
 耳にピアスをした若者が返事をした。
 師匠がそのやりとりを見て、ハッとした表情を浮かべた。
「大ごもりは明後日、28日の日曜日の夜からですよね。参加したくないなら、それでいいと思うんですけど。どうしてわざわざその間地元から出て行くんですか」
「別にいいだろ。なにもねぇ村なんだ。出ていくしかねえだろうが」
 そう毒づいたデブだったが、その表情になにか奇妙な感情が浮かんだのを、僕は見逃さなかった。師匠も気づいたようだ。周囲を見ると、ほかの同僚たちの顔も強張って見える。
「いいから来いよネエちゃん。一緒によ」
 恐怖だ。これは、恐怖を隠している。
 強引に手を握ろうとしたデブに、師匠がそれを握り返して関節を極める。
「痛ッて。なにすんだよ」
「あっと、ごめんなさい。つい」
 すぐに離して飛びずさる。ガリが立ち上がった。まずい。
「この人、生き別れの双子のお兄さんを探してるんです!」
 僕はとっさに師匠を指さして、声を張り上げた。
「お願いします。この村にいるはずなんです。どんなことでもいいんで、教えてください」
「は、はあ? なんだよそれ」
 デブが手をさすりながら、悪態をつく。その声は、どこかうわずって聞こえた。
「21歳くらいの人なんです。知りませんか」
 ほかの同僚たちにも振ったが、彼らは一様に強張った顔のまま首を横に振った。
「おい。行こうぜ」
 デブがガリにアゴをしゃくって見せる。ほかの連中も、空き缶をダストボックスに投げ捨てながら、ゾロゾロと僕らの横を通り過ぎていった。裏手に駐車場があるようだ。そちらの方へ回り込んでいく。
「ちょっと待ってください」
 そう言って追いかけようとした僕を、師匠が止めた。
「失敗したな。これは見つけられないぞ」
「どうしてですか」
「あいつら、怖がってる」
 駐車場から次々と車が出てきて、僕と師匠に一瞥をくれながら去っていった。ほとんどが西のほうへ向かっていた。この岩倉村の出口のほうだ。
「ちょっとわかってきたぞ」
 師匠は左目の下を指で掻きながら、そう言った。
「まあ、とにかく腹減った。飯食いに帰ろう」
 パンパンと僕の肩を叩いた。僕はなんだかよくわからないまま頷いた。
 やまと屋に帰り着くと、ちょうど6時だった。
 女将が出てきて、一階の居間のようなところに僕らを案内した。
 丸い卓袱台が置いてあって、そこに料理が並んでいた。
「あんまり上等なものは用意できないですけど、ゆっくり食べていってください」
 山菜のたっぷり入った炊き込みご飯に、数種類のキノコの入ったお吸い物。それにチキンカツとキャベツの皿が添えられている。
「うまいうまい」
 師匠がガツガツとかき込む。温泉旅館の料理のような凝ったものではないが、地元の食卓を思わせる、素朴な味わいの夕飯だった。おそらく今夜の女将の家の晩御飯も同じメニューなのだろう。
「どちらに行かれてましたか」
「神社に行ってきましたよ。岩倉神社。宮司さんはいい方ですね」
 皮肉をこめた師匠の言葉に、女将はニコニコと同意した。
「あ、そうだ。今夜と明日の2泊をお願いしてましたけど、もう1泊延長できますか? まだわかりませんけど、お願いするかも知れません」
 師匠の提案に、女将が「えっ」と困った顔をする。
「それが、28日はちょっと、都合が……」
「なにかあるんですか」
「はあ。お祭りの日でして。その日はやってないんですよ」
「お祭りというと、大ごもり、ですか」
 師匠が茶碗を置きながら尋ねた。
「そうなんです。宮司さんからお聞きになりましたか。毎年大ごもりの日は、みんな集会所に集まって夜を明かす決まりになっているんですよ」
「そうなんですか。残念だなあ。私たちも参加することはできないでしょうかね」
「それはちょっと、どうでしょうか。よその方は参加されてるのを見たことがないですねえ」
「女将さんも参加されてるんですか」
「ええ」
「元は、よそからお嫁にいらっしゃったんでしょう? 別にこの村の生まれでなくてもかまわないってことじゃないですか」
「でも、私からはなんとも」
 そんな問答をしていると、外からジャリジャリという音がした。やまと屋の敷地に車が入ってくる音だった。
「あ、主人です。いま畑をやってまして」
 やまと屋の奥に、女将の住む滝野家の家があった。女将の夫は、その家に向かう前に僕らのところへ顔を出した。
「いらっしゃい」
 農作業で服が汚れている。それを気にしてか、玄関の方から顔だけを出して挨拶をした。
「どうも。お世話になっています」
 滝野氏は無骨そうな人で、無愛想に頭を下げると、そのまま去ろうとした。
「あの。大ごもりに私たちも参加させてもらいたんですけど、なんとかお願いできませんか」
 それを聞いた滝野氏の問いかける表情に、女将が「民俗学だかの学生さんだそうですよ」と言った。
「……申し訳ないが、内輪のお祭りでして。ご遠慮ください」
 滝野氏はきっぱりとそう答えた。
「一晩中じゃなくてもいいんです。最初だけでも。世話役の方に訊いてみてもらえませんか」
 師匠が粘ったが、滝野氏は首を振った。
「私も今年は役員の一人です。申し訳ないが、お断りします」
 滝野氏は低い声でそう言って、去って行った。
 残された女将はきまりが悪そうに、「おかわりもありますよ」と炊き込みご飯を勧めてきた。
「あ、僕もらいます」
 よそってもらう僕とは対照的に、師匠は黙り込んでしまった。それを見かねてか、女将が明るい声を出した。
「でも、大ごもりなんて大層な名前がついてますけど、たいしたお祭りじゃないですよ。最初に宮司さんがお祈りをして、あとはみんな、持ち込んだお料理を食べて、飲んでするだけですから」
「それだけですか?」
 僕が訊くと、女将は頷いた。
「それだけです。寝ないで一晩中おしゃべりして、朝になったら解散するんです」
 庚申講と同じだ。本当にそれだけなのか。
 女将はウソをついているようには見えなかった。それならば、なぜこんなに頑なに、よそものを排除するんだろう。
「女将。森林組合に、若い人が結構いましたね」
「ええ、はい。ここでは、若い人の仕事は山仕事くらいしかないですからねえ」
「私、今年で21歳なんですけど、同い年の人もいるんでしょうか」
「あら、21歳ですか。しっかりされているのね。同い年ねえ。だれかいたかしら。……森林組合だったら、ミノルくんがそのくらいじゃないかしらね。月本実(みのる)くん。宮司さんの息子さんですよ。あと、森林組合じゃないけど、藤崎さんの息子さんが去年成人式だって言ってたから、もう21歳じゃないかねえ」
「藤崎、というと、篠田地区の?」
「篠田? あの辺は家がないですよ。もともとあそこにいたのかって、さあ、私にはわかりませんねえ」
 女将は、藤崎さんの家を教えてくれた。少し北の山側に入るが、やまと屋からわりと近い場所にあった。
「ごちそうさまでした」
 食事が終わり、僕らは手を合わせた。
「お風呂、これから沸かしますね。狭いですけど、家族風呂なので一緒に入れますよ」
「いや、こいつはただの後輩ですから。順番で」
 きっぱりと師匠は言う。
「エロいので、覗かないように監視してください」
「そうでしたね。ああ、そうそう。いいものがありますよ」
 女将はそう言って、棒切れのようなものを持ってきた。農具の柄のようだ。
「寝るときはこれを」
「ありがとうございます」
 師匠はその棒を受け取って、僕をさげすんだ目で見た。バカな。夜這い対策の警棒なのか。まさかあんな棒で僕を?
 楽しい、お・と・ま・り、はどこに行ったんだ?
 打ちひしがれながら、僕らは部屋に引きあげた。
 なんだか疲れて、風呂が沸くまで部屋の畳のうえで寝転がっていた。
「先に入れ」
 風呂が沸いたところで、師匠がそう言うので、お言葉に甘えた。妥当な順番だろう。民家の普通の風呂より、ほんの少し大きい、という程度の風呂だった。ほのかに柑橘系の香りがした。お湯になにか入っているらしい。汗をかいていたので、さわやかな香りは、気持ちがよかった。
 僕に続いて師匠も風呂から上がり、用意されていた浴衣に着替えて出てくる。
「ごゆっくり」
 と言って、女将が棒を持つようなジェスチャーをして、僕らを見送った。
「さて、作戦会議といくかね」
 布団の敷かれた師匠の部屋で、畳のうえに向かい合って座った。
「なかなか、きびしいですね」
「ああ」
 最初の感想がそれだった。今回の依頼は、羽根川里美さんの双子の兄を探すことだった。しかし、戸籍上の証拠がないうえ、真実を知っている父親が他界。その身内ももういないという。年齢を頼りに探すことはできるが、どうも双子だということは、想像以上にこの村の人々にとって、タブーのようだった。
「あの森林組合のオールドヤンキーたちは、双子と聞いてビビったな。忌み子だからだ。あの世に生まれるはずが、間違って現に生まれた、忌まわしい子ども。生まれてすぐに外へ捨てて、戻ってこないように、戸籍をいじり、口をつぐむ。さらに道祖神で封印する念の入れようだ。大ごもりを辛気臭いって言って、参加しないヤンキーどもでさえ、戻ってきた忌み子が怖いんだ。小さいころからうみ付けられた、共同幻想だぜ、これは」
 師匠はどこか楽しそうにそう言った。
「どうやって探しますか」
「まあ、とりあえず教えてもらった2人。宮司の息子と、藤崎さんちの息子をあたってみるしかないな」
「でも、本人に訊いてもわかりますかね」
 非合法な方法で戸籍を偽造するほどの念の入れようだ。双子の兄に、わざわざおまえは双子だったなんて、親は告げるだろうか。
「それなんだがな。やっぱり本人には教えないと思うんだよ。するとどうなるか。みんな疑心暗鬼になるんじゃないかな。自分が本当は双子の片割れで、生き別れた妹か弟がいるんじゃないか? 忌み子として捨てられたそいつらは、自分を恨んでいるんじゃないか? いつか帰ってきて、恨みを晴らそうとするんじゃないか? ってな」
「なんだか本末転倒ですね。マッチポンプって言うか、忌み子だって、捨てておいて、恨まれて、やっぱり忌み子だったって。ひどい話ですよ」
「ただ、現にみんな双子を恐れている。女将は村の外の出身だから、それほど頓着してないみたいだけど、ほかの人の協力は得られそうにないな」
「どうするんですか」
「とにかく考えたってしょうがない。当たって砕けろだ。案外、親から教えられてなくても、感づいてるかもよ。狭い村だ。自分の噂はどうしたって耳に入るだろうさ」
 師匠は、開け放った窓のふちに肘を置いて、もたれかかった。
「あの宮司の子どもが、答えてくれますかね」
「さあなあ」
「名誉棄損で訴えられたりしたらいやですね」
「ありえるな」
「勘弁してください」

 外から気持ちの良い風が吹いている。その風に乗って、カエルの鳴き声が聞こえてくる。
 コリコリコリ、コリコリコリ…………。
 そう聞こえる。アマガエルの声も地方によって違うと聞いたことがあるが、僕の知っている鳴き声とはどこか違っていた。
「それにしても、この岩倉村にも、天狗星の伝説があったなんて驚きましたね」
「ああ。この県北レイラインは種ありかも知れない」
「種ありって、なんですか」
「茨城の鹿島神宮から、宮崎の高千穂神社へと日本列島を縦断するレイラインはな、富士山レイラインなんて言われたりするけど、実は中央構造線とかなりの部分重なるんだよ」
「え。中央構造線って、あの地震の?」
「そう。日本最大・最長の断層帯だ。活断層も含み、多くの地震を生んでいる断層ライン。当然火山活動とも関わりがある。この中央構造線は、富士山のあたりを避けるような形になっているけど、それ以外は、富士山レイラインとかなり重なっているんだ。宮崎から四国、そして伊勢神宮のあたりを通って、ここから少し北に逸れて、諏訪へ、そして鹿島へと抜ける」
 師匠は、ノートに簡単な日本地図を書いて説明する。そこに黒い線と、赤い線を引いた。
「黒いのがレイライン。赤いのが中央構造線」
 なるほど。黒は直線になっている。赤いほうは、富士山のあたりを避けるように北まわりになっているが、それ以外は重なって見える。
「この一致は、あながち偶然でもないかも知れないんだ。この中央構造線の南側は、7千万年くらい前に、イザナギプレートというプレートに乗って、はるか南からやってきた土地なんだ。それが北側、つまり中国大陸側の土地とぶつかってくっついた。そのつなぎ目が中央構造線ってわけだ。くっついた、っていっても動物の傷口みたいにぴったり癒着するわけはない。その断層帯は、いまも地震や火山活動を生む動脈だ。地下に莫大なエネルギーを蓄えた、日本の動脈。龍脈ってやつだよ。明治神宮や伊勢神宮、皇居とかっていうパワースポットがそのライン上にあるのは、卑弥呼に代表される、シャーマンの国だったこの日本では、ある意味必然だ。古代の日本人はプレートテクトニクスなんぞ知らなくても、龍脈がどこにあるのか知っていたんだ。それが霊力であれ、経験則であれ、だ。だから古来より、龍脈の上には、その活動を封じるための祭祀の場が必要だったんだ」
「それがレイラインの正体ってわけですか。お、オカルトですねぇ」
 僕の好物の話だ。真偽はともかくとして。師匠も楽しそうに語っている。
「意味のないはずの直線に、隠された意味があった。この県北の地域を南東から北西へ貫く、レイライン。天狗神社、戻り沼、岩倉神社と結ぶこのレイラインにも、意味があるのかも知れない」
「その種ありの、種って?」
「実はな。死んだ人が生き返るという戻り沼には、昔、天狗が宝物の珠を落として、その珠が沼の底に眠っている、という伝説があるんだ。その珠の力で、死人が還るんだと」
「天狗……」
 また天狗だ。僕は背筋にゾクゾクしたものが走った。
「落ちた天狗を捕らえたという、新城村の天狗神社。天狗が珠を落としたという、廿日美村の戻り沼。そして、天狗星が磐座を砕いたという岩倉神社。これは偶然か?」
 師匠はニヤリとして問いかけた。
「同じ現象なんですね、すべての原因は」
「千年前、空を赤く切り裂いて、天狗星がやってきた」
 師匠が立ち上がって、天井に向かって両手を広げた。
「高度を下げながら、県北を南東から北西へと飛行し、そこで落ちた。途中で割れた天狗星は、その軌道上の大地にも傷跡を残した」
「北西から南東に向かって落ちてきたのではなくて?」
「ああ。新城村の北には小さな隕石湖がある。その底は、北西が深く抉れた形状になっている。そこが終着地点だよ。北西に向かって飛来してきたんだ。その手前にバラバラといろんなものを落としている。この天狗星は」
「それが、県北レイラインの正体」
「ああ。そしてこのレイラインには、直線になっていること以外に、共通点がある。天狗神社には、食べると不老不死の力を得る、という天狗の肉の伝説が伝わっていた。戻り沼には、死者がよみがえる、という伝説が。そして、信仰していた巨石を天狗星に砕かれた岩倉地方では、あの世に生れ落ちるはずの忌み子が、双子としてこの世に生を受けて現われる。本来の750分の1という確率をはるかに超えて」
 立ったまま、オペラでも歌うように語る師匠の言葉に、背筋のゾクゾクが強くなる。恐ろしいような、心地良いような、不気味な感覚だった。
「この天狗星に関わる伝説は、どれも『生と死』に深く関わっている。それも、『死ぬべきもの』が、そうならないという、忌まわしい伝説だ。こいつは、いったいどういうことなのか。落ちたのははたして、本当にただの天狗星……隕石だったのか?」
 師匠はイタズラっぽく流し目をつくって、僕を見た。
「とまあ、オカルト好きにはたまらない謎があるわけだが、私たちの仕事は、依頼人の双子の兄を探すこと。あんまり余計な仕事は増やさないようにしないとな」
 そう言って、師匠は肩の力を抜いたように両手をぶらぶらとさせ、窓辺に近づいた。
「カエルさんが元気に鳴いてるぞ。明日も晴れそうだな。しっかし、真っ暗だな外は。街灯がイッコもないんじゃないか」
「深山幽谷みたいなところですからね」
「あれ? おい。あれ見てみろ」
 急に師匠が、窓の外を指差した。見てみると、道の向こうの川のあたりに、いくつも光が瞬いている、
「ホタル、ですか」
「人魂かもよ」
 師匠は「行ってみよう」と言って部屋を出た。ついていくと、1階で片付けをしていた女将に会った。
「川に光? ああ、ホタルですよ。お町の人には珍しいでしょう。あたしらは見慣れてるから、なんとも思わないですけど」
「やっぱりホタルだ」
「とにかく近くに行こう」
 僕と師匠は、やまと屋の外に出た。道路を渡って、その向こうの川に下りる。暗いから手探りだ。
「うわー。すごいな」
「綺麗ですね」
 僕らの周りに、無数の黄色い光が舞っている。闇のなかに瞬きながら浮かぶ、その淡い光はどこか儚げで、僕は郷愁のようなものを胸のなかに感じた。僕のふるさとにはない光景だったのに。
ああ、これがアタイズムというやつか。
大学の講義で、教授が言っていたことを思い出した。個人の記憶ではなく、民族として持っている共通の遺伝的記憶。見たことのないはずの景色を懐かしく思う感情。これを、間歇遺伝(かんけついでん)、アタイズムと言うのだと。
「水が澄んでいるんだな、ここは」
 師匠がしゃがんで、川の水を掬った。川の流れは穏やかだ。水の流れる静かな音が、夜の闇のなかに一定のリズムを刻んでいる。
僕には、この清流とホタルを懐かしく感じる、遺伝的記憶があるのだろう。かつての日本では、どこでも見ることができたこの景色の記憶が。しばらくその懐かしさのなかに身を浸し、師匠とふたりで、光の舞を眺めていた。
宿に戻ると、女将が「どうでしたか」と訊いてきた。
「よかったです。あれほどのホタルの群は、なかなか見られないですよね」
「これでも、昔よりは数が減ったらしいですけどねぇ」
「これ、ホタルの里とか銘打って、もっと観光のPRをしたらいいのに」
 師匠の提案に、女将は首を振った。
「知る人ぞ知る、っていうのがいいんじゃないでしょうかね。地元を離れた方とか、いまでもこのくらいの季節に、うちに泊まっていかれますよ。みなさんホタルを見て喜んで帰られます。うちももう半分以上道楽でやってるような宿ですけんど、そういうお客さんがいる限り、開けておこうということでやらしてもらってます」
 僕は2、3週間に1人しか客のいない宿帳を思い出した。
「もっと人を呼び込んだほうがいいですよ。環境保全だって、やりようはあるんじゃないですか」
「この時期は、やっぱりちょっとね……」
 女将はそう言って困った顔をした。師匠はそれを見て、なにか気がついたような表情をした。
「ホタルの季節は、6月から7月にかけてが最盛期でしょう。この岩倉の、1年に一度の大ごもりの時期と被る。それを、避けているんじゃないですか。その大ごもりの時期に、外から人がたくさんやってくるのを。だから、観光PRもできない」
「私は、わかりません」
 女将は頭を下げ、「もう家のほうに戻りますから、すみませんが、ここ、戸締りさせてもらいますんで」と言った。
 女将の態度は、それを肯定しているように思えた。
「わかりました」
 やまと屋の玄関が施錠され、僕らは2階の部屋に引っ込んだ。師匠の部屋に入ろうとすると、「もう寝よう。疲れた」と言って追い出された。
「はあ」
 僕は仕方なく自分の部屋に入って、布団のうえに寝転がる。今日一日で色々なことがあった。頭のなかで整理ができていない。そのひとつひとつを思い出しながら、天井を見ていた。
 明日、双子のお兄さんを当たってみるとして、本人が認めなかったり、知らなかったりしたら、どうすればいいんだろう。最終的には、DNA鑑定ってやつをしないといけないんじゃないだろうか。めんどうだな。まあ、師匠がなにか考えるか……。
 そんなことをぼんやり考えながら、うとうとしていると、いつの間にか寝てしまっていたらしい。夢うつつのなかで、ふいになにか聞こえた気がして、僕は目を開けた。
 なんだろう。外から?
 耳を澄ましても、もうなにも聞こえなかった。『夜中、かごめかごめの歌が聞こえる』という里美さんの話を思い出して、怖くなってしまった。
 起き上がり、そっと自分の部屋を出て、隣の師匠の部屋の引き戸に手をかける。
「師匠、起きてますか」
 そう言って開けようとした戸が、ビクリとも動かなかった。
「あれ?」
 力を入れてみるが、ガタガタと揺れるだけで開く気配がなかった。おかしいな。内鍵なんてなかったはずなのに。
 なにかがつっかえているような感じだった。そこではたと思い至った。
 あの棒か。師匠が女将に渡された棒。あれがつっかえ棒になっているのだ。そういうことだったのか。バカな。これではまるで、僕が夜這いをしようとして追い返される男のようではないか。
「師匠」
 戸に耳をつけてみると、かすかなイビキが聞こえてきた。かわいい。
 僕は肩を落とし、しかたなく自分の部屋に戻って布団を被った。聞いてない。妙な音なんて、なにも聞いてない。そう自分に言い聞かせながら。

双子 3/4

3 <6月27日> 月本実

 僕は師匠に頭を踏まれて目を覚ました。
 あれ? 寝過ごした?
 慌てて起き上がると、部屋の時計は7時を指していた。
「まだ7時じゃないですか」
「おまえの昼夜逆転クソ大学生活と一緒にするな。世間では朝飯を食う時間だ」
そういえば、朝ごはんは7時半に、って言ってたな。
しかたなく僕は起き上がり、のびをしながら欠伸をした。
「おい。昨日の夜、なにか起きなかったか?」
「つっかえ棒がしてありました」
「えっ。おまえマジで私を……?」
 師匠が自分の両肩を抱いて後ずさる。
 一瞬にして、頭がクリアになった。
「ち、違いますよ。夜中になにか聞こえた気がして、それで起きてるかなって」
 言い訳をする僕に、師匠は顔を寄せて小声で告げた。
「車が壊されてる」
「……本当ですか」
 びっくりしてしまった。
「エンジンがかからない。故障にしてはタイミングが良すぎる。たぶんだれかにやられた」
「だれかって?」
「わからん。私たちにこの村のことを探られたくない、だれかなのか、それとも……」
「それとも?」
 師匠は首を振って、「とにかく着替えろ。飯を食うぞ」と言った。
僕は着替えながら、心臓がドキドキしていた。そこまでやるの? これ、想像以上にやばい依頼なんじゃないか。だれが犯人なんだ。ここに僕らが泊まっていることを知っている人間……。
そう考えて、岩倉神社の宮司の顔が浮かんだ。次に、森林組合の若者たち。ここによそものが滞在するなら、やまと屋にいることは当然推測できる。旅館の駐車場に見慣れない車があるなら、僕らの乗ってきた車だということはすぐにわかる。生き別れの双子の片割れを探す僕らを、敵視しているだれかがやったのか。見つけ出すのを、阻止するために?
最後に、女将とその夫の顔も浮かんだ。夫はともかく、女将が、まさか。僕らともわりと普通にやりとりしてくれていた。さすがに女将が犯人だったら人間不信になりそうだ。
「パッと見でわかる壊れかたじゃない。故障の可能性があるくらいだ。車に詳しい人間の仕業だろう」
 階段を下りる前に、師匠が言った。
「ていうか、朝早く起きてどっかに行こうとしてたんですか」
 エンジンがかからないってことは、エンジンをかけようとしていたということだ。
「まあ、その辺をぶらっとな。かたわれどきってやつを見に」
「そんなに早く起きてたんですか。ていうか玄関勝手に開けたんですか。なにか見えましたか」
「空気が澄んでいて、深呼吸したら気持ちがよかったな。ここは山に囲まれているから、朝日が出るのが遅いんだ。遠くの山の稜線に、薄っすらとほのかな光が灯って、それがなかなか広がっていかない。空の下は暗くて、川から流れてきたもやで、視界が狭い。あのもやのなかで、だれかが向こうにいる気がする、って思えば、たしかにちょっと気味が悪いな」
 さっき部屋の窓から見た景色は、まだ完全に朝の明るさじゃなかった。夏の朝7時だというのに。ここでは、僕らが住む街と、時間の流れが違うのだ。
 階段を下りて、居間に向かうと女将が食卓を作っていた。
「おはようございます。よく寝られましたかね」
「ええ」
 朝ごはんは、焼き魚に卵焼き。そしてなめこの味噌汁に、ほうれん草のおひたしというメニューだった。
「え、車が?」
「はい。いまエンジンをかけようとしたら、かからなくて」
 師匠に車の件を聞かされた女将は、驚いていた。演技ではないように思えるが、どうなのだろうか。
「あら、困ったわね。お父さんに見てもらいましょうか」
 食事が終わったあと、女将は夫の滝野氏をつれてきた。畑に行く前なのか、昨日と同じ農作業着姿だった。ムスッとして、無愛想なのは昨夜と同じだったが、師匠の軽四のボンネットを開けてエンジンまわりを見てくれた。
「バッテリーがいかんな」
 バッテリーの交換が必要なようだった。車屋に見てもらったほうがいい、というので、一番近い自動車屋に電話してもらった。30分ほどして、自動車屋の車が来た。ヒゲ面の技師が、工具一式と新しいバッテリーでしばらくガチャガチャとやっていたが、こりゃだめだ、と言ってボンネットを閉じた。
 どうやらバッテリーだけでなく、エンジン自体もおかしくなっているようだった。技師は、少なくともヒューズが飛んでいると言っていた。
「漏電ですか。それとも、だれかが、意図的に電気を流したとか……」
 師匠の問いかけに、技師はさあなあ、と言っただけだった。
 結局、レッカー車で自動車屋まで持っていくことになってしまった。すぐに直ればいいが、それまで足がなくなってしまう。代車はないかと相談したが、いまはないと言われてしまった。
 すると、女将が、「自転車がある」と言って、家の納屋から2台出してきてくれた。昔子どもが乗っていた自転車を、大事に取っていたらしい。多少錆び付いていたが、十分乗れそうだった。
 お礼を言って、2台とも借りることにした。
 そのドタバタの最中に、やまと屋へ電話があり、僕らあてに伝言があったという。
「宮司の息子が?」
「ええ、実くんが、お昼の1時に会いたいって。神社のほうへ来て欲しいそうですよ」
 師匠と僕は顔を見合わせた。そして声を潜めて言った。
「こいつは、先制攻撃なのか」
「どうでしょうね」
 宮司の息子の月本実は、森林組合にいると言っていた。昨日の連中のなかにいたのだろうか。だったら、僕らがここに泊まっていることはすぐにわかっただろう。
 レッカー車が来て、師匠のボロ軽四を連れて行くのを見送ってから、僕らはようやく動き出した。女将が、お昼にお蕎麦を茹でるから、よかったら食べないかと誘ってくれたので、一度戻って来ることにした。
 女将に教えてもらった、もう1人の双子の兄候補のいる、藤崎家に向かう前に、民宿の隣のタバコ屋に寄った。
 おばあちゃんのトモさんが、昨日と同じ格好で店番をしていた。寝ているのか起きているのか、よくわからない顔で。
「おまえ吸うっけ?」
 と師匠が指を2本口元にもって行く仕草をしたので、「吸いませんよ。今ごろですか」と断固抗議した。
「私も禁煙してるからなぁ」
 と言って、師匠はタバコ屋でガムを買った。そのついで、というていでトモさんに話しかける。
 この歌知ってます? と言って僕にタクトを振る真似をする。はいはい。歌えばいいんでしょう。
 僕が『かごめかごめの歌』を歌い始めると、トモさんは知っていたようで、手で拍子をつけてくれた。
 そりゃ知ってるでしょうよ。日本人なら、かごめかごめくらい。そう思ったが、トモさんは、ムニャムニャとした口調で、懐かしい懐かしいと言っていた。
「この、いついつねやる、かたわれどきに、って歌を知ってるんですね」
 トモさんは頷いた。
「これは、大ごもりを表しているんですか?」
 また頷く。
「では、なぬか、などぉって、つぅべったはどうですか。なぬか、は7日間という意味でしょう。などぉって、はどういう意味ですか。などる、という言葉はなぞる、という意味の言葉ですが、7日間なぞる、というのはいまいち意味がわからない。ここの方言ではないかと思うのですが」
 師匠の問いかけに、半分眠りそうになりながら、トモさんは答えた。
「などう、いうのは、迷う、いう意味ですじゃ」
「迷う? なぬか、などって、という歌詞は、7日間迷って、という意味なのですか」
 トモさんは頷いた。
「7日間迷ってすべった。いや、このすべった、という部分は元歌でもあまり意味がないとされている部分だ。そこが変わってない以上、この岩倉の歌で意味を持っているのは、わざわざ変えてある部分。いついつねやる、かたわれどきに、なぬか、などって、の部分だけだな」
 師匠が自分に言い聞かせるようにぶつぶつと言っている。
「いつ寝るのか、かたわれどきに。そして7日間迷う。主体はなんだ? 起点は?」
ハッとして、師匠は顔を上げた。
「まてよ、7日間? まさか」
「え、なんですか」
 なにかに気づいたようだが、師匠は「確認することがある」と言って答えてくれなかった。かわりに、トモさんに向かって、はっきりと訊ねた。
「この歌は、なにを歌っているのですか」
 そう訊かれたトモさんは、手を合わせて、念仏を唱え始めた。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と。
 畏れだ。
 民俗学者の佐藤老人や、この村の人々の顔に浮かぶ、畏怖の感情。これ以上語ることを忌避する、なにものかへの畏れ。それが、目の前の老婆にもはっきりと現われていた。
「すみませんでした」
 師匠はトモさんに頭を下げ、タバコ屋をあとにした。
「あれはたぶん、おどし歌なんだ」
「え?」
「童歌の類型だよ。しょうもんばかりしてると、ぼうこんがくるぞって、去年出たホラー小説にあったろ。『リング』だったか。あれは、水遊びばかりしていると、おばけがくるぞ、って意味だったな。そんな風に、バツバツすると、マルマルするぞ、っていうのがおどし歌のパターンだけど、はっきりそう言わないものもある。共通しているのは、子どもをおどかして、なにかをさせる、あるいはさせない、そのための教育的な歌なんだ。大ごもりの夜に寝てはならない。そして、7日間迷うのはだれだ? 7日間迷うのが恐ろしいのか、あるいは、7日間迷うなにかが恐ろしいのか……。うしろの正面だあれ。うしろにいるのは、だれだ?」
 途中から、師匠の言葉はまた自問になっていた。
「あ、そうだ。ちょっと待ってろ。電話借りてくる」
 師匠は僕を残して、やまと屋に入っていった。すぐに出てきたが、どこにかけたのだろうか。
「大学の知り合いだよ。ちょっと調べ物を頼んだんだ」
 そう言って、はぐらかした。気になるが、こうなると師匠はある程度ものごとがはっきりしないと、答えてくれない。
「よし、藤崎家へゴー」
 自転車に乗って、教えてもらった藤崎さんの家に向かった。
 ちょうど岩倉の真んなかあたりにあるという元小学校から、北へ北へ入っていったところに、2階建ての家があった。
 藤崎という表札を確認して外から声をかけると、ジャージ姿の男が出てきた。若い男で、頭には寝癖が立っている。寝起きらしかった。
「なに、あんたら」
 やまと屋に紹介されてきた、民俗学を専攻している学生だと名乗り、男に名前を尋ねると、やはりこの家の息子のアキラだった。
 両親はいま農作業に出ているらしい。仕事を訊くと、親の手伝いをしているということをモゴモゴと言っていた。していないじゃないか。いまのいままで寝ておいて。ようするに、放蕩息子なのだろう。そんなことを思ったが、おくびにも出さず、会話を打ち切りたがっている男と、なんとか会話を繋いでいる師匠に合いの手を入れて応援した。
「双子? 知らねえよ。俺には妹なんていねえよ」
 そう言って、藤崎アキラはソッポを向いた。予想されたことだったが、全く情報を得られそうになかった。じっと彼の眼を見ていたが、浮かんでいる動揺が、ウソをついているからなのか、それとも怯えているからなのか、よくわからなかった。
「あのー。昨日の夜って、何時くらいに寝ました?」
「なんだよ、刑事の尋問かよ。関係ないだろ。もう帰れよ」
 藤崎アキラは強い態度に出て、家に戻ろうとした。
「あ、待って。そちらの藤崎って家は、元々篠田地区にあったんじゃないですか? 羽根川という家のことをご存じないですか」
「そんなの大昔だよ。篠田の藤崎の家って、あのボロボロの家だろ。戦前の家を放置してただけだ。うちはずっとここだよ。羽根川なんて家も知らねえ。もういいだろ」
最後に師匠が、その背中に声をかける。
「明日は大ごもりですね」
「それが、どうしたよ」
 そう言って、玄関のドアが乱暴に閉められた。師匠と僕は顔を見合わせて、首を振った。
「あれはどうなんでしょうね」
「怖がってるな。あいつも、怖いんだよ」
「双子のかたわれを?」
「だけど、昨日言ったみたいに、疑心暗鬼になっているだけかもしれない。自分の知らない双子のきょうだいが、どこかにいるのかも知れないってな」
 まだ夜の明けない、かたわれどきの暗闇のなかで、いつのまにか、うしろに……。そんな想像をして、僕まで怖くなってしまった。
「羽根川家も隣近所がなかったぽいですね。どうするんですか」
「わざわざ呼びつけてきた宮司の息子次第だな。こいつは、なにか重要な情報を持ってそうだ」
 師匠は、そう言って自転車にまたがった。
「よし、昼まで道祖神でも拝んでいこうぜ」
 自転車に乗って、僕らは南の下岩倉へ向かった。昨日の集会所に寄ってみたが、だれもいないようだった。鍵もかかっている。そこを通り過ぎて、さらに南に向かうと、女将が言っていたように、道祖神がいくつかあった。
 見通しが悪く舗装もされていない山道の途中に、大きな双体道祖神が突然現われるので、思わずビクリとしてしまう。昨日見た道祖神よりも、さらに古そうだったが、構図はよく似ていた。
 師匠が、その道祖神をなでながら言った。
「これだけ道祖神を配置しているのは、里への異物の侵入をよほど恐れていたってことだな。こうまでしてなお、なにかをまだ恐れている。一箇所に集まって、大ごもりなんてことをしている」
「外に捨てた双子が戻ってくるのを恐れているんでしょうか」
「それにしちゃあ、神頼みすぎないか。なにかもっとこう……」
 そう言いかけたところで、師匠が道祖神の足元を覗き込んだ。
「まただ」
「なんですか」
「見ろ、足元。また足が大きい」
 たしかに片方の像の足が、大きく見えた。
「彫りかけてやめたんじゃないですか」
「いや、そんな手を抜くか? これだけ道祖神にこだわっている村で」
 師匠は来た道を振り返った。
「まただ。岩倉の外のほうにある像だけ、足が大きい」
 道の手前側にある像が女の像。奥のほうにある像が男の像。その男のほうの足が大きかった。昨日の村の入り口にあった像は、女が外側、男が内側で、女のほうの足が大きかった。
「性別じゃない。村の、サトのソト側の像の足だけが大きいんだ。これはなんだ?」
 もっと見てみよう。師匠はそう言って、次の道祖神を探し始めた。道を変えて、しばらく自転車をこぐと、またすぐに見つかった。
 今度のはさらに古そうだった。南の奥に行くほど、古くなっている気がする。そのことに触れてみると、師匠がそれはそうだろう、と言った。
「聞いただろ。岩倉神社や村役場があった、北の上岩倉がここの中心だってな。北の集落のほうが金があるんだよ。だから、古くなった道祖神やら庚申塔やらを作り直せるんだ。それに対して、金のない南の集落の道祖神は、古いのが残ってるって寸法だ」
 師匠が今度の道祖神の足元を見て、「あ」と言った。
「どうしました」
 今度も同じように、道の奥側の像の足の先が大きかった。心なしか、さっきよりも横に出っ張っているような気がする。
「まさかこれは、意匠の退化?」
 師匠はそう呟いて口元を押さえた。
「なんですかそれ」
「デザインは、進化するばかりじゃないってことだ」
 意味のわからないことを言いながら、師匠は腕時計を見た。
「もう12時か。戻らないとな。またあとで調べよう」
 そう言って自転車に乗った。なんだかわからないまま、僕は師匠についていく。道が折れる手前で、なにげなく道祖神を振り返ったとき、僕の目は信じられないものを見た。
「うわっ」
 思わず叫んで自転車を止める。転がり落ちそうになった。
「なんだ、どうした」
「いや、なんか。……山爺みたいなのが、いた気がして」
「いないぞ」
 いなくなっている。目を擦ったが、忽然と消えていた。
「あの、奥の木の枝のあたりに、いたんですよ。こっちを見てた」
「今度は妖怪か。それにしても山爺って」
 師匠は信じてくれないようで、笑っていた。
「本当なんです。目が1つでなんか耳もなくて、毛むくじゃらで」
「ふうん。目が1つ、ね」
 師匠は道祖神のところまで戻って、そのうしろの森を見上げた。そのとき、その森の奥でガサガサと動く音が聞こえた。
「なんだあれ。猿かな」
「いや、僕が見たやつじゃないですか」
 異様に目のいい師匠が、顔を突き出して目を凝らしていたが、「ありゃあ猿だ」と言った。「猿を見間違えたんだろ」
「そんな。……そうですかね」
 自信がなくなってきた。
「目が1つ、ね」
 また師匠はそう呟いた。
「おっと、いかん。戻らないと」
 1時に神社で約束をしていた。急がないといけなかった。
 頑張って自転車をこいで、やまと屋に戻った。女将が用意してくれていた地元名産の蕎麦を啜って、また慌しく出発する。
 自転車は小回りが利くが、こう無駄に広い土地ではなかなかにしんどかった。
 東西の道の、元小学校から少し東に進んだところから、北に入る。天神山のとんがった姿を見上げながら、進んでいく。
 参道の入り口に着くと、一人の青年が鳥居のそばに立っていた。
「あれ。車じゃないんですか」
 僕らの自転車を見て、彼はそう言った。
「いやあ、天気がいいから借りたんですよ」
 師匠は車が壊れたことを言わずに、「あなたが、月本実さん?」と訊ねた。
「はい。お呼び立てしてすみません。父からあなたたちのことを聞いたもので」
 爽やかな笑顔だった。昨日会った森林組合の人たちのなかには見なかった顔だった。一目見て好青年だという印象を持った。
「あ、自転車は、そっちの木のうしろに隠してもらえますか」
「なんでですか?」
 僕が訊くとミノルは、「じつは、父には内緒なんです」と言った。
「用事で出ていまして、あと2時間くらいは戻ってこないんですけど、念のため」
「昨日、宮司のお父さんにはやっつけられましたよ。失礼なことを言ったこっちが悪いんですけど。お父さん、厳格なかたですね」
「堅物で困ってますよ」
 爽やかに笑うと、僕らを参道のなかへ案内した。昨日の社務所か、その奥にあった住居らしきところへ連れて行かれるのかと思った。しかしミノルは、社務所の横の通り道のようなところから、さらに奥へと進んだ。垣根の裏側へ回り込んだのだ。
「もしかして」
 師匠が言いかけると、ミノルは振り向いて言った。
「ええ。磐座のあった所へご案内します」
「いいんですか」
「大丈夫ですよ。うちの神社の土地ですし」
 そう言いながら、途中に張られた注連縄の結界をひょい、とくぐって、背の高い森のなかを進んでいく。
 父親とは真逆の軽いノリに驚きながらもついていくと、やがて森が開けた場所に出た。その先は岩場があって、かなりの傾斜が始まっている。天神山の本当の麓のあたりだった。
「ここが?」
 僕らの目の前に、注連縄が四方に張られている。注連縄のなかは、まわりの地面よりも一段低くなっていて、一面に草が蔓延っていた。直径で10メートルほどの空間だった。ところどころに、草のなかから尖った石の先が覗いている。
「磐座という大きな石があった場所です。うちの岩倉神社の名前の元になった石で、村の名前にもなったものです。古くから土地の人間の守り神として信仰の対象になっていました。それが、千年ほど前に、天狗星が落ちてきてぶつかって、砕けたと言われています」
「天狗星というと、隕石が?」
「ええ。石は地面の下に食い込んだ部分もあるようですが、多くは砕けて周囲に飛び散ったと思います。その辺に見えている石は、その残骸ですね。その先の岩場の石と同じような石質なので、隕石の残骸ではなく、磐座の残骸なのでしょうね」
 聖域と呼ばれていたが、いざ目の前にすると、さほど驚くような光景ではなかった。
「山の上には登れるんですか」
 師匠が訊くと、ミノルは残念そうに首を振った。
「すみません。この先はちょっとまずいんです。何年か前に、神事の一貫で特別に登ったことがあるんですが。切り立ってますけど、一応登れる道はあるんですよ。でも麓側で木が切れているところが結構あって、遠くからでも見えちゃうんです。登ってるところが。さすがに聖域の山に勝手に登ってるのがバレると、ヤバイんで」
 見上げると、たしかに木がはげている場所があった。
「立ち話もなんなので、ここに座りましょう」
 岩場のほうの平たい石の前で、ミノルが僕らを呼んだ。3人して石に腰掛け、あらためて自己紹介した。
「O大学なんですってね。凄いな。僕なんか高卒で働いてますよ」
 言葉とは裏腹に、あまり卑屈さを感じない爽やかさでミノルは笑った。昨日の森林組合の2人のような粗野な感じは全く受けない。丁寧な口調なので、こちらの居住まいを正さなくてならないような気になった。
「僕は午後から休みでしたけど、そちらは晩方に森林組合に寄ったんですってね。ガラの悪い人がいたでしょう。あんな人ばかりじゃないんですけどね」
「かわいいもんですよ。ところでミノルさんはお父さんが宮司ですよね。あとは継がれないんですか。それともほかにご兄弟が?」
 ちょっとドキッとする話題だった。師匠の問いかけに、ミノルは動揺も見せず答えた。
「僕はひとりっ子ですよ。父に言われて、神職の勉強は昔からしています。父が引退すれば、いずれはあとを継ぐことになるでしょうね。ただ、当面は生活をするために外に出て稼がないと。氏子の寄進だけで食べていけるような時代でもないですからね。でも山の仕事は好きですよ。昔は結構ひ弱だったんですけど、見てください」
 そう言って、シャツの腕をまくり、力こぶをつくって見せた。日焼けした肌に引き締まった筋肉が浮いていた。一見細めに見えるが、身体は案外頑健なようだった。
「それで……」
 師匠が本題に入ろうとしたところで、ミノルはわかってます、と言うように機先を制した。

「羽根川さんという女性の双子のお兄さんを探しに来られたんですよね。21歳なんですってね、その人。残念ながら僕は23歳なんだ。君たちより年上だよ」
 年齢を言ったところで、急にくだけた調子になった。
「ごめん。方々で私、21歳って言ってるけど、本当は4歳サバ読んでるんだ」
「え、じゃあ25歳?」
 師匠は堂々と頷いた。もうバラしちゃうの? 僕は大丈夫なのか、と心配になった。
「まいったな。若く見えるけど。すみませんタメ口きいちゃって」
「あ、僕は今年でハタチになります」と僕も年を言った。
 師匠はミノルの若く見える、という言葉に気をよくしたようで、口の端が微かに上がっている。
「21歳って言ったら、いま岩倉にはたぶん藤崎のアキラしかいないんじゃないかな」
「今朝会ってきたよ」
「怒ったでしょう」
 ミノルはクスリと笑った。
「ああ。どうしてわかったんだ」
 師匠のほうは逆に、さっそくタメ口になっている。
「父も言っていたと思いますけど、昔からこの村では双子を忌む風習がありました。あとから生まれたほうを、村の外へ出すんです。ここでは生まれなかったことにして。そのことについて語るのはタブーなんですよ。だれだって、実は自分に双子のきょうだいがいて、生まれてすぐに捨てたって知ったらショックを受けるでしょう?」
「それ、宮司さんにこっちが指摘したんですけど、まともに答えてくれませんでしたよ」
 僕が言うと、ミノルは苦笑いをした。
「そうでしたか。父らしいですね」
「もとは私の恩師が、あなたのお祖父さんから聞いたんだけどね」
「祖父は僕が子どものころに亡くなりましたけど、父よりも開明的な人でしたよ。そうやってよその人に村のタブーのことを喋ったりして、それをあとで知った父はずいぶん怒ったものです」
「あなたは、お祖父さんイズムなんだ」
「そうですね。伝統は大事ですけど、いまを生きる人の指針となるようなものならともかく、生き方を縛られるだけのようなものからは、脱却していていくべきじゃないかって思います」
「大ごもりとはいったいなんなんだ? 聞いた地元の人は、みんな口をつぐむんだよ」
 師匠の問いに、ミノルはどう答えようか思案しているようだった。
「今年は6月28日にあるけど、年によっては29日にやるときもあるんだろう?」
「ええ」
「もしかして、その年の開催日は村の人々の都合で決まるんじゃなくて、必然的に決まってしまうんじゃないか」
 ミノルは師匠を見た。心なしか、驚いた顔だった。
「例えば、天体の動きみたいに、カッチリしたもので」
「まいったな。よくわかりましたね」
 ミノルはまいったな、が口癖のようだった。
 なんだかわからない僕は2人の顔を見比べていた。
「さっき、やまと屋で蕎麦食ったあと私、また電話借りたろ。あれ、頼みごとの返事を聞いたんだ。ドンピシャだったよ」
 師匠は僕にそう言うと、背負っていたリュックサックからバインダーとノートを取り出した。
「恩師が昔調べた、大ごもりが開かれた日付はこうだだ。
・1955年6月29日
・1956年6月28日
・1957年6月29日
・1958年6月29日
・1959年6月29日
・1960年6月28日
・1961年6月29日
・1962年6月29日
 これはどれも庚申の日じゃない。宮司は庚申講が廃れて、その代わりに始まったものだろうなんて言ってたけどな。大嘘だよ。大ごもりははるか昔からあったんだろう? ひょっとすると、庚申講よりも前から。むしろ、朝まで寝ずに起きている、という大ごもりのことを隠すために、よく似た習慣の庚申講を催していたのかも知れない。おい、歌えよ、あれを」
 師匠から促されて、僕は何度目かも忘れた『かごめかごめ』を歌った。
「だんだん上手くなってきたな。この、『いついつねやる、かたわれどきに』というのは大ごもりの習慣をさしている。そして、『なぬか、などって』という部分は、7日間迷って、という意味だ。頭韻を踏んでいるから、あまり意味のない拍子言葉かも知れないと思ったけどな。大ごもりの日付と7日間という数字を並べると、偶然とは思えない一致が出てくるんだよ。私も確認するまでは半信半疑だったけど」
 師匠はノートを広げて、そこにメモしていた数字を読み上げた。
「いいか。
・1955年6月22日
・1956年6月21日
・1957年6月22日
・1958年6月22日
・1959年6月22日
・1960年6月21日
・1961年6月22日
・1962年6月22日
 これは、さっきの大ごもりの日から7日を引いた日付だ。そしてこれは、その年の夏至の日付とぴったり一致するんだ」
 夏至?
 僕はそれを聞いてハッとした。そう言われてみれば、つい1週間くらい前に夏至の日があったばかりだ。ちょうどこの6月下旬の時期なのだ。夏至は。
「今年の夏至は、6月21日だった。そして、今年の大ごもりは、明日、6月28日。ちょうど夏至から7日後だ。これは偶然じゃないな。新暦に限った話じゃない。旧暦の時代でも、きっと大ごもりの日は夏至から7日後だったはずだ。夏至から、7日間迷った時点がその年の大ごもりだ。そうなんだろう?」
「……そうです」
 ミノルは空を見上げた。今日も快晴だった。天高く太陽が輝いている。
「父に、共同幻想、って言ったそうですね。双子を忌む、この村の伝承のことを。父は怒っていましたよ。無理もないです。この岩倉で生きている人間にとって、それは幻想なんていう生易しいものじゃない。切実なものなのです。見てください。あの太陽を。あれが元凶です。天狗星がこの地に落ちてから、この村の人々を恐怖に捕らえてきたものの、元凶なんです」
 そう言って、輝く太陽を指差した。夏至からまだ1週間も経っていない。太陽の角度が最も空高くにある時期だった。
「千年前に落ちた天狗星は、神の石である磐座を砕いただけではなく、天神山そのものに亀裂を残しました。あのあたりに、ちょっと岩肌が割れているところがあるでしょう」
 山を見上げると、頂上に近いところに木がはげている場所があった。岩の地肌がのぞいていて、それが大きく割れているようだった。
「あの亀裂は、その下の木が生えているあたりまで広がっています。とても深い割れ目です。上から覗くと、地の底まで見えるような」
 ミノルは左手の親指とそれ以外の指とで、わっかを作った。そして、そのわっかに、真上から右手の人差し指をつっこむ仕草をした。
「亀裂は垂直ではなく、南側から北側へ向かってわずかな傾斜がついています。春や、秋、冬の太陽は、高度が低いので中天に昇ったときでも、亀裂から入った光は、途中で山の土に吸収されます。たとえば冬至の南中高度は30度だそうです。ところが、夏至には78度に達する。どういう偶然なのか、これは、亀裂の角度と同じなんです。夏至の日の南中時に、太陽の光が、亀裂の奥底まで差し込んでいく。その光は、地の底の、黄泉の国にまで届くとされています」
 その言葉を聞いて、わけもわからないままゾワッとした。黄泉の国。なにかが繋がっていく。バラバラに見えていたものが、一本の線を引くことで、直線上に並んでいたことがわかったような。そんな感覚があった。まるで隠れたレイラインのような。
「この岩倉には、古い言い伝えがあります。人はすべて男女の双子で生ずると。一方はうつしよに、一方はかくりよに。母親の胎内は、人智を超えた場です。未だに人が造りだせない、生命が生じる空間なのですから。その胎内には、道が2つあります。1つは産道。うつしよへの道。もう2つは冥道。かくりよへの道です。人はみな手を繋いだ双子として生まれてきます。しかしそれぞれの道は1人しか通れません。誕生のとき、2人は繋いだ手を離し、うつしよから見て奥に生まれたほうが冥道へ、手前に生まれた子が、産道へ向かいます。現世に生まれた子が男の子なら、あの世に生まれた子は女の子です。人はみな、生まれながらに死に別れた、双子のきょうだいを持っているんです」
 ミノルの爽やかな笑顔に、影がさしている。声も低く、表情は哀しげだった。厳しい顔を崩さなかった父親とは違った。
「それで、実際に男女の双子が生まれれば、1人しか通れないはずの産道を、間違って2人で通ってきた忌み子ってワケか。あとから生まれるほうが忌み子だから、現代なら弟、または妹。古くは逆で、兄か姉のほうが忌み子扱いされたんだな」
「ええ。昔の日本では、あとから生まれたほうが、先に母親の胎内に入ったはずだから、兄、姉とされていたそうですね。今は生まれた順に年長者です。普通ならね」
「忌み子は間引きの対象になった。生まれるはずだったあの世に還すってな。近代以降、子殺しが強く忌避されるようになり、この岩倉では村の外に捨てるようになった。医者を抱きこんで戸籍をいじってまで。戻って来ないようにするためだ。忌み子を捨てたのは、里の外側、つまりかくりよだ。そして境に道祖神を置き、忌まわしい死人が戻ってくるのを防いでいるんだな」
「ひどいですよね」
 僕がぽろりと漏らした感想に、師匠が、「しかたがないだろ」と言った。「言い伝えを信じる限り、そうするしかないんだろう。だけど、私が興味があるのは、その言い伝えがどこから来たのか、ってところだ」
 師匠はミノルに向き直った。
「岩倉神社の祭神は、イザナギとオオヒルメノムチだってな。大ごもりの祭神も同じだ。それは、どちらも『かたわれ』が黄泉の国へ行った神だ」
 宮司の息子は頷いた。師匠は続ける。
「イザナギのかたわれは、妹であり、妻でもあるイザナミ。火の神を産むときに死んでしまい、黄泉の国へ行った神だ。そしてオオヒルメノムチのかたわれは、スサノオ。母であるイザナミを慕い、黄泉の国へ自ら赴いた神。と、思ったんだけどな。オオヒルメノムチのほうは違ったんだ。おい。おまえ、アマテラスって呼んでたな。オオヒルメノムチとの違いはわかるか」
 僕は急に話を振られて動揺したが、「アマテラスが古事記で、オオヒルメノムチが日本書紀の表記でしょ」と答えた。そこだけは調べたのだ。
「そうだ。古事記ってのは、日本書紀よりも前に編纂された古い歴史書とされてるけど、元々宮中に秘されていたものでな、広く知られるようになるのは江戸時代の本居宣長のころからだ。それまで、朝廷の正史と言えば日本書紀だった。カミの名前や伝承の内容が古事記と異なる部分が多くて、それは『一書(あるふみ)にいわく』っていうように、『日本旧記』だとか、『百済記』だとかの、元にした資料のどれを採ったかでも違いが出ているからだ。異説ありってやつだな。記紀ってのは神話そのものじゃなく、神話の解説書みたいなもんだ。だから、今でも、古事記由来の神名を使う神社もあれば、日本書紀由来の神名を使う神社もあって、どっちが正しいということもない。この岩倉では日本書紀由来を使っているというだけだ」
 師匠は指先を教鞭のように振って講義する。調子が出てきたようだ。
「ところで、日本の神話時代の双子を、だれか言えるか? だれでもいい」
「え、双子ですか。……海幸彦と山幸彦とか」
「お、そうだ。よく知ってるな。ほかにも大碓命(おおうすのみこと)と、小碓命(おうすのみこと)なんてのもいる」
「聞いたことないですね」
「小碓命はのちのヤマトタケルだ」
「え、双子だったんですか」
「小碓命、つまりヤマトタケルは、兄の大碓命を素手でくびり殺したヤンチャ坊主だったんだ。海幸彦と山幸彦は正確には三つ子で、ホスセリノミコトっていう次男がいる。これはなにもしない、典型的な数合わせの神、中空の神ってやつだな。実質的に双子といっていい海と山は、兄弟で争い、弟の山幸彦が兄の海幸彦を倒した。勝った山幸彦の孫がのちの神武天皇だ。こんなふうに、双子の神ってのはよく争っている。そりゃそうだ。親神のあとを継ぐのは1人だからな。双子で生まれるってことは争いの元なんだ。望ましいことじゃない。古事記で言うアマテラスとスサノオの間には、ツクヨミっていう神がいるだろ。この男なのか女なのかもはっきりしないツクヨミも、なにもしない中空構造の神だ。アマテラスとスサノオの対立を際立たせないための装置だよ。双子は忌まわしいんだ。正統を乱す存在だからだ。そういうことなんだろ?」
 師匠はミノルに問いかけた。
「まいったな。お詳しいんですね」
「日本書紀の本書では、イザナギとイザナミは大八州国(おおやしまのくに)や山川草木などを生んだあと、それらを統べる後継者としてオオヒルメノムチノカミを生んだ。その次に生まれたのが月神(ツキノカミ)、その次が蛭児(ヒルコ)だ。このヒルコは足腰の立たない不具の子だった。そのため、天磐櫲樟船(アメノイワクスブネ)に乗せられ、海に流された。追放されたんだな。追放されたヒルコが流れ着いたという伝説は日本各地にあって、エビスと呼んだりして敬い奉られている。追放された神が、ヒトに文明や福をもたらすという神話は世界中にある。これもその類型と言われていたりするがな。ここでも、ツキノカミは、古事記のツクヨミと同じく、中空構造の神だ。アマテラスと対立し、下界に追放されたスサノオの立ち位置が、このオオヒルメノムチに対するヒルコだ。神様の名前ってのは、ゴテゴテした装飾がついてるだろ。偉い神様ほどそうだ。ヒルコなんて潔いものだ。偉くないからな。さて、この着飾ったオオヒルメノムチノカミの名前から、装飾をとってみよう」
 師匠は偉そうに僕に語りかける。
「オオ、は言うまでもない、大きい、偉大だっていう意味の装飾だな。ノムチってのも、大国主の別名、クニツクリノオオナムチとかと同じく、貴(とおとい)って言葉をあてる、霊威を表す装飾だ。カミはいわずもがな! さあ、オオヒルメノムチノカミから、それらの装飾をとりはらった、本質を表す名前は、なんだ?」
 問いかけに、頭のなかで残った文字を並べ、一瞬ゾクリとした。
「ヒルメ、です」
 師匠がニヤリと笑う。
「ヒルメとヒルコだな」
 対の、カミ? ゾワゾワとしたものが首筋を走った。
「ヒルヒメとヒルヒコだ。日の女と日の子。つまりどちらも太陽を司る神だ。国生み、神生みのイザナギとイザナミが、そのあとを統べるに相応しい神として生んだ、双子の太陽神だよ。だけど、後継者の席に2人が座ることはできない。太陽が2つとないように。双子の神の片方、ヒルコは海のかなたへ追放される。海はかくりよだ。双子の片方が生まれてすぐに追い出される、この村の伝統と同じだ。日本書紀のこのヒルコにまつわる解釈を、受け継いでいるんだろう? だから、岩倉神社の祭神は、うつしよを司る神、イザナギとオオヒルメノムチなんだ」
 ミノルは目を見開いて、師匠を見た。その顔には、興奮の色が見て取れた。
「よくわかりましたね。隠している縁起なのに」
「恩師が、ちょっとヒントをくれたからな。スサノオじゃないって。よくわからないのは、その、夏至に天神山の亀裂から太陽の光が入るのが、なんだというんだ」
「……」
 ミノルは迷っている様子だったが、頭を振ると、さっぱりした表情で語り始めた。
「山は、死者が集まる場所です。この岩倉では、古代から天神山の麓にあった巨石が、その魂を沈める役割を果たしていました。でも、千年前に天狗星が落ちたとき、それがすべて崩れ去ったのです。石は砕け、天神山には亀裂が生まれました。地の底まで伸びる亀裂です。地の底は、死者の国。黄泉の国なのです。黄泉比良坂(よもつひらさか)で地上世界と繋がっていたように。この岩倉の地下にある黄泉の国は、亀裂で地上とつながってしまったんですよ。それ以来、僕らはこの村で、逃げようのない恐怖に捕らわれている……」
 宮司の息子は、顔を覆うように額に手をやった。声はかすかに震えている。
「死者が、這い出てくるってのか」
 師匠の言葉に、ミノルは小さく頷いた。
「黄泉の国は遠い世界です。亀裂で繋がっても、『彼ら』はこの地上へやってくる道をたどれない。たどりつけないはずなんです。道を示す光でもなければ」
「なるほど。それが、夏至の日に差し込む太陽光か」
「そうです。夏至の日には、太陽が地下世界の奥まで届きます。『彼ら』はその光をたどってやってくるのです。途中で光は消え、その方角だけをたよりに、迷いながら這い出てくる」
「それが、なぬか、などって。7日間迷って、か。地下世界から7日間かけてやってきたやつらは、どうなる?」
「地上で、探すんですよ。片割れを。かつて握っていた手を離した、双子のきょうだいを」
「そうか。黄泉には、双子のかたわれがいるんだ」
 僕はそう言って、ゾッとした。あの世に行ったはずの、もうひとりの自分が、這い出てくることを想像して。
「この岩倉の人はみんな、小さいころから、ある夢を見るんです。とても恐ろしい夢です。薄暗闇の向こうに、だれかがいる。そのだれかはこちらに手を伸ばしている。感情が伝わってきます。恨み、妬み、そして希望。寒く、暗い黄泉の世界に生まれ落ちたことへの怨念が、その手には込められている。なぜ自分だけが。なぜおまえは、暖かい世界で生きているのだ。同じ自分なのに。逆ならば良かったのだ。うつしよに生まれたのが自分だったなら。替われ。替われ。入れ替われ。……そう言いながら、『彼ら』は手を伸ばしてきます。生まれるときに、離したその手を」
 ミノルの顔が蒼白になっていく。この岩倉に来てから、何度も見てきた、人々の顔に浮かぶ畏れ。その畏怖の感情が、ミノルを押し包んでいるのがわかった。
「それは、ただの夢だろ」
「夢ですよ。そして、あなたが、共同幻想と呼んだものの正体です。でもこの岩倉で生まれた僕らには、幻と呼ぶにはあまりにも生々しい呪いなんです。よそから来た人にはわからない」
 突き放した言葉だった。彼の父親とは態度こそ違え、同じ思いが根底にあることがわかる。
「亀裂を塞げばいいんじゃないのか。地表部分だけでも」
「かつては何度も板や岩で塞いだそうです。そのたびに、雷や嵐がきて、砕けたとされています。さらに疫病が流行ったとも。呪いですよ。この岩倉が負った、逃れられない呪いです。いまでは聖域として立ち入ることも許されていません」
「そうか。じゃあ、大ごもりってのはその、夏至から7日目にかくりよから這い出てきた双子の片割れを、避けるためにあるんだな」
「ええ。大ごもりの夜には、死者が地上に蠢き、この世とあの世の境が曖昧になります。その夜に眠ってしまうと、夢のなかで、『彼ら』にあらがえなくなる。入れ替わられてしまうんです。この岩倉では、何度もそんなことがあったそうです。急に人が変わったようになって、言動がおかしくなる。まともに言葉が通じなくなるんです。そうなるともう、もとの人間には戻れない」
「恐怖で、気が触れたんじゃないのか」
「本当のところはわかりません。でも僕らには、入れ替わられたとしか思えないんですよ。あの夢をずっと見続けていた僕らには。この入れ替わりを恐れる僕らは、大ごもりの夜に集まり、お互いを監視して眠らないようにするんです。古来から続く習慣です。庚申講は、それをカモフラージュするために始まったんだと思います。あなたがたが、興味本位で知りたがったり、参加したがったりしても、この土地の人間には不快なだけです。錯覚だとか、幻想だとか、ただの風習だなんて思う人には、僕らの抱いている恐怖はわからない」
 そう言って視線を逸らしたミノルに、師匠はかける言葉を失ったようだった。僕らは、まさに興味本位で参加したがっていたのだから。
「よく、わかったよ」
 師匠はようやくそう言った。
「でも、この世に生まれた本当の双子のきょうだいは、死者じゃないだろ。おまえたちがそう見立てたとしても、血のかよっている、普通の人間だ。生まれてすぐに外へ捨てられて、ようやくルーツを探し当てて、この村に生き別れのきょうだいを求めてやってくる、そんな人間を追い返すのか。おまえはさっき言ってたよな。伝統は大事だけど、いまを生きる人の指針となるようなものじゃなく、生き方を縛られるだけのようなものは、脱却していくべきだって。そう思っているから、ここへ私たちを呼んだんだろ。違うか?」
 ミノルは師匠の目を正面から見据えた。
「はい。そう信じています。そんな悲しい連鎖を、いつまでも続けるべきじゃないって。岩倉で双子が生まれたら、両親は岩倉神社の宮司に知らせます。外の世界に送るときに、もう戻って来ないように、宮司が祝詞を捧げるのです。ほかにはだれにも知らせません。忌まわしい子を生んだことが知られるのを、恥じるからです。病院への手回しも、宮司がすべて取り仕切るんです。でも、父の代にはもうやっていないと思います。人が減って、生まれる子どもが極端に少なくなったから、双子が生まれること自体まずありません。21年前なら祖父の代ですね。ただ、受け継いできた記録があるはずです。双子の生まれた家と、送った先を記録してきた書物が。僕が小さいころに、祖父が漏らしたことを覚えています。いまも、僕の家のどこかに隠されているはずです」
「じゃ、じゃあ、それがあれば、わかるんですね。羽根川里美さんの双子のお兄さんがだれなのか」
 僕は身を乗り出した。師匠がそれに待ったをかける。
「でも、村の21歳の男って、藤崎アキラってやつだけなんだろ。そいつに決まってるんじゃないか?」
「いえ、いま村にいるのは、ってことです。幼稚園もないし、小学校、中学校も遠くまで通わないといけないこの村じゃあ、子どもを育てるのに合わせて、村を出て行く人が多いんですよ。この村で生まれて、いまはもう外に出ている人のなかに、双子のお兄さんがいるのかも知れない」
「なるほどな」
ミノルは続ける。
「記録は、父の書斎のどこかだと思いますが、いつもは鍵がかけられていて、勝手に探すことはできません。父はなかなか家をあけないし、用心深い人なんです。今日も、もうあと30分くらいで帰ってきますね」
 言われて、腕時計を見た。ここへ来て、もう1時間以上が経っていた。
「でも、明日、大ごもりの日に千載一遇のチャンスがあるんです」
「と、いうと?」と師匠が静かに訊ねた。
「その日、父は大ごもりの行われる集会所を順に回ります。はじめるときに、宮司が最初に祝詞を捧げる決まりになっているんです。それから、父はひとりで神社に戻って、社殿にこもります。そこで朝まで祈り続けるんです。黄泉から這い出てきた死者たちが、黄泉に還るようにと」
「なるほど。その間は、家の書斎を漁り放題ってわけだ。急な予定の変更もなし。なにより優先される確実な時間だ」
「そこへ僕たちを呼んでくれるんですか」
「はい」
 ミノルは決意した顔ではっきりと答えた。
「おまえは、大丈夫なのか? 集会所にこもらなくて。この辺だったら、元小学校にこもるんだろ?」
「おふたりを案内したら、すぐに戻りますよ。あ、それと小学校の建物は今は上岩倉の集会所になってますけど、大ごもりには使われません。死者の這い出る、天神山に近いからです。だから、上岩倉の人たちも、みんな川を渡った南の下岩倉の集会所に集まります」
「それで、あそこの集会所はあんなにでかいのか」
「ええ。その川からすぐのところにあるのだけじゃなくて、下岩倉にはいくつか集会所があります。村の全員が家を出て集まるんですから」
「昨日、森林組合のやつらが言ってたよ。その大ごもりの日は、村から出るって」
「そういう人も多いです。若い人は特に。普段から村の外へ出て遊ぶような人は、そもそも村にいる必要がないって思うんでしょうね。そうやって、みんなだんだん村から離れていきます。あの夢の恐怖から逃げたくて、去っていくんです。もう岩倉の人口は200人を切りました。いずれ、だれもいなくなってしまうでしょう」
 ミノルは岩の上にあった小石を拾って、草むらに投げた。
「そうそう。大ごもりの夜に、上岩倉から人がいなくなるのは、もう1つ理由があります。天神山の亀裂から、死者たちが這い出てくるときに、彼らは吼え声をあげるんです。大きくて、恐ろしい声です。それが、遠くまで聞こえてくる。その声をはっきりと聞いてしまうと、黄泉の国の住人になってしまうと言われています。だから、できるだけ離れるんです。少なくとも、上岩倉からは。僕も、一度だけかすかに聞いたことがあります。魂が、生きながら抜かれていくような感じがしました。あれは、恐ろしいものです」
「偉いな。宮司のお父さんは。1人で残って」
「それが岩倉神社の宮司の使命ですから。かつて砕けた磐座の力が、いまでも守ってくれる、と言っていました。だからここはいまでも聖域なんです」
 思わず、目の前の注連縄で囲われたくぼ地を見た。そう言われてみると、なんだか神々しい清浄な力が満ちているように感じる。調子に乗って、注連縄のなかに入らなくてよかった、と僕は安堵した。
「声、か」
 師匠は怪訝そうな顔をしていた。
「夢はいいんだけど、音は物質的な現象だ。なぜそんなことが、大ごもりの夜にだけ起こるんだろう」
 僕はその呟きを聞いて、ハラハラした。岩倉の人々の抱いてきた恐怖を、共同幻想と言ってしまったのと同じだ。死者が吼えるという声を、自然現象で説明しようとしている態度だったからだ。
 しかし、ミノルは気分を害した様子もなく、クスリと笑った。
「天神山のはるか地下に、地下水が溜まっている場所があるって説があります。その水が夏至の前後に亀裂から差し込んでくる太陽光で温められ、地下を流れるときに、冬の間に凍りついていた氷を含む土の層を溶かす、それが地下空間の圧力の変化を生んで、最終的に亀裂から気流となって吹き上がってくる、ってね。それがちょうど夏至から7日目なんだと。仮にこの現象が起こるのが5日目なら大ごもりは夏至から5日目。3日目なら、夏至から3日目になったんでしょうね」
 あっけらんかんとしたその言葉に、僕は唖然としてしまった。最初の軽いノリが戻ってきたようだった。
「ま、わかりません。本当のところは。ものごとの光と影は、表裏一体、2つで1つ。どちらから見て読み解くか、というだけの違いなんじゃないですかね」
「おもしろいやつだな」
 師匠がミノルの肩をはたいて笑っている。ちょっと嫉妬してしまう。
「じゃ、そろそろ戻らないと」
 ミノルが立ち上がった。
「すみませんが、明日の夜まで動かないでください。そうですね、明日の夜の11時にさっきの鳥居のところで待ち合わせしましょう。それまで目立たないようにしてください。今日のことはだれにも言わないようにお願いします」
「わかった」
 師匠がミノルに握手を求めた。僕もそれにならう。
「あのー。おふたりは付き合ってらっしゃるんですか」
 いきなりだったので思わず吹いてしまった。
「違う違う」
 と言って師匠は手を振った。
「そうですか。あなたは聡明なかたですね。長く一緒にいたら、好きになっちゃいそうですよ」
 そんなことを、この優男は真顔で言うのだ! 君ね。僕なんてどれだけ一緒にいると思ってるんだ。年季が違うんだよ。と、そういうことを、握手する握力に込めた。全力で。
 さすがにこの優男。山仕事で鍛えただけのことはある。僕らはお互いに、顔は笑顔で、その力強い握手をしばらく続けた。
 去り際に、師匠がふいに言った。
「そうだ。ついさっきなんだけど、こいつが、山父だか、山爺みたいなのを見たって言うんだよ。猿の見間違いじゃないかって言ったんだけどな。1つ目で、耳がない入道みたいな顔だったって」
「耳がない猿がまた出たんですか」
 ミノルがため息をついた。
「このあたりは人間よりも猿のほうが多くて、はばをきかせてるもんだから、かなり悪さをするんですよ。猿を駆除したら、笹川の町役場から1匹あたり1万円の報奨金が出るんです。猿の死体じゃなくて、両耳を切り取って持っていくんですよ。役場も死骸を持ち込まれても困りますからね。普通は捕まえた猿の耳を切ったら、死体は埋めるんですけど、祟りが怖いからって、耳を切っただけで殺さずに逃がす人がいるんです。駆除してないのにお金だけもらって。最近問題になってるんですよ。おかげで山のなかに耳のない猿がうろうろしている始末でして」
「猿1匹倒せば、1万円ももらえるのか」
 師匠の目がキラキラと輝いた。よけいなことを知ってしまった気がする。倒しに行きかねない。前科があるからな。ドキドキしてしまう。
「目もつぶされて、耳も切られて、かわいそうに」
 ミノルがそう言って、山のうえのほうを見上げた。
「いや、片目をつぶされた猿じゃなくて、1つ目だって言うんだよ。1つ目小僧みたいな。そうだろ?」
「はい」
「えっ。そんな」
 ミノルは驚いていた。驚きかたが、どこか変だった。そんなバカな、という表情じゃなかったからだ。師匠はその様子を見て、詰め寄った。
「やっぱり。集会所の庚申塔に三猿が彫られていたんだけど、そのなかの見ざるが変だったんだよ。普通は両方の手のひらで、左右の目をそれぞれ隠すデザインになってる。でもここのは、手のひらをこう、クロスするみたいにして顔の真ん中を覆っていた。それを見て思ったんだよ。1つ目だったら、こう隠すよなって。おい。1つ目の奇形の猿が、この村には出るんだな」
「……僕も、見たことがあります。昔から、神さまの使いだって言われてて、山で遭っても、手を出しちゃいけないって言われています。くそっ。だれが耳なんて切ったんだ。酷いことを」
「庚申塔はどちらも古いものだった。庚申塔に描かれるくらい、そんな昔から1つ目の奇形がずっと現われているのか」
 師匠は緊張した声でまくしたてた。
「この村は双子の発生率が高い。そうだろ? 普通は男女の双子の出産率は750分の1くらいだ。でもこの村は遥かに高いペースで生まれている。遺伝子に異常が発生しているんじゃないか? 猿の奇形もそうだ。天狗星だ。天狗星が落ちたここに、なにか異常が発生している。ガイガーカウンターで放射線量を調べたことは?」
「放射線? ちょっと待ってくださいよ」
 僕は思わず腰が引けた。注連縄のなかのくぼ地に、目が釘付けになる。まずいまずい。まずいよそれは。
「落ち着いてください。大昔の話ですよ。隕石の放射線なんてとっくに消えてますよ。本当に放射線量が高いなら、ガンとか白血病とかが多くなるんじゃないですか。別にそんなことないですから」
「放射線とは限らない。鉱物由来の毒が、山の地下水を経由して、井戸水や簡易水道に浸潤しているんじゃないか。あるいは、磁気の異常」
 ミノルは興奮して喋る師匠に反論せず、聞き終わってからひとことだけ言った。
「だとしても、僕らはここで生きてきたし、生きていくんです」
 沈黙がおりた。師匠も、僕もなにもいえなかった。
「悪かった」
 ぽつりそう言って、師匠は頭を下げた。
 それから僕らは磐座の痕跡に背を向けて、来た道を戻った。
 そのとき、僕は師匠に耳打ちをした。
「羽根川さんのお父さんは、急性白血病でしたね」
「ああ」と、師匠はそう答えただけだった。
僕らは森のなかを進み、社務所の横に出る。
「父はまだ帰ってないですね」
 急いで参道を抜けて、自転車を隠してあった鳥居の近くの木にたどりついた。
「ちょっと遠回りになりますけど、車が通れない道があるから、そっちから帰ってください。父の車と鉢合わせしないで済みます」
 僕らもそのほうがよかった。あの宮司に会ったら、なにしにきた、ということになって、最悪の場合、大ごもりの晩に書斎に忍び込む、という計画が露見しかねない。
 自転車を出してきて、僕らはミノルに手を振った。ミノルは手を振り返してニコリと笑うと、すぐに神社のほうへ戻って行った。
 僕らも出発したが、師匠がすぐに鳥居のほうを振り返って、じっとそちらを見ていた。
「どうしたんですか」
「いや、ちょっとな」
 僕はその師匠の様子が気になった。まさかあの優男が気になるんじゃないだろうな。たしかに頭は良さそうだし、神道とかの知識もあって、師匠と気が合いそうだ。
「ま、いい。とにかく戻ろうか」
「はい」
 もやもやする気持ちを抱えたまま、僕は師匠のうしろについて、自転車をこぎはじめた。

 やまと屋に戻ると、女将が師匠に言った。
「車、直りそうって。明日の午前中には持って来てくれるって電話がありましたよ」
「そうですか。よかった」
 女将もホッとしたようだった。それもそうだろう。明日の晩は大ごもりがあって、僕らを泊めることができないのだ。明日直らなかったら、僕らは宿を追い出されて、なお帰ることもできないことになるところだった。
 もっとも、女将には内緒だが、明日の晩もこの岩倉にいることになっている。そのことを思うと、怖さもあるし、神社の秘密の記録を探しに忍び込むという、わくわくするようなスリルもあった。
「まだ4時にもなってないのか。もう少し村を探索しよう」
「ちょっと、まだやるんですか。もうじっとしていましょうよ。そう言われたでしょう」
 師匠がまだやる気なのを見て驚いた。さっきの月本ミノルとの話し合いは、とてもいい結果だった。いろいろ手詰まりになっていたところで、里美さんの双子の兄を見つけ出す光明が見えたし、この岩倉の伝承の謎がほとんど解けたのだから。こうなっては、ミノルの言うとおり、余計なことをせずにじっと待っていたほうがいい。なのに師匠は、「いいから」と言って、やまと屋を出た。しかたがないのでついていく。
「まさか猿をやっつけに行くんじゃないですよね」
「おいおい。なんだと思っているんだ私を。道祖神を調べるのが途中だっただろ」
「ああ、そうでしたね。でももういいんじゃないですか。いまさら」
「気になったことを放り出すなんて、研究者の姿勢じゃないな。新発見があったらどうするんだ。あと、猿は出たら倒す」
「まじですか」
そうして僕らはまた、南の下岩倉地区へ行った。見通しが悪く、アップダウンの多い山道を自転車で走り続ける。
森のなかで目を凝らしていたが、もう猿は見つからなかった。
「お、またあったぞ、道祖神」
 見つけた道祖神は、どれも双体道祖神だ。判で押したように同じ男女の姿で作られている。古さはどれも違っていて、石の形や材質、そして男女の服装なども微妙に違っている。けれど、本質が同じなのだ。向かい合っているけれど、お互いは離れている。
「こいつは、さっきのと同じだな」
 ぶつぶつ言いながら道祖神を撫でている師匠に、「そういえば」と言ってみた。「意匠の退化って言ってたのは、どういう意味ですか」
「ああ。古代の遺跡から出てきた石器や土器なんかはな、時代が下るごとにデザインが洗練されていくものばかりじゃない、ってことだ。例えば、こないだのぞいた大学の集中講義でやってたんだけど、古代ローマのコップの話なんて面白かった。飲み口のところにな、変な模様がついてるんだよ。その同じようなコップを時代ごとに遡っていくとな、その模様がくっきりしてくるんだ。逆に言うと新しいものほど、省略されていってるんだな。もっと遡っていくと、その模様がはっきり立体的になる。耳のような形をしている。最終的に、一番古いものたどりついたら、どうなったと思う?」
「さあ」
「柄(え)だよ。コップの持ち手だったんだ。元は。それが時代が下っていくと、いつのころからか柄が消えて、その痕跡だけになる。模様になり、どんどん省略されていく。発掘したものを並べて見ている現代の人間には、こっけいに映るけど、その時代、その時代の人間にとっては、デザインなんて親から子へ受け継がれるだけのものだ。コップにはこういう模様を入れるものだって習ったら、入れるさ。それが意味を成さないものでも。伝統だからな。この道祖神だってそうかも知れない。見ろ」
 師匠はまた道祖神の足元を指差した。
「この足の先が大きいのは、一見意味がないデザインだ。彫り残しかと思うような。でも、時代の違うどの道祖神にもあるんだ。これは意図的にやっている。でも、意図がわからない。きっと、意匠が退化しているんだ。どこかでその意味が失われた時点で、デザインが省略されている。一応、申し訳程度に先人に習っているだけだ。もとの形が知りたいと思わないか」
「はあ」
 こういうことへの師匠の執念は凄い。ひたすら道なき道を進み、自転車が入れそうにない獣道にも歩いて入った。
 ヘトヘトになり、もう日が暮れる、というころに、ようやく目当てのものを見つけ出した。
「あったぞ。今までで一番古い」
 そう言って、像を見た瞬間だった。師匠の顔が凍りついた。
「なんですか」
 正直もう興味はあまりなかったが、一応僕も覗き込む。額から流れる汗を拭いながら。
集落のある側の像が男。山の奥の側の像が女だった。苔むしていて、色の濃い石の風化具合が相当の年月を感じさせる。そして、その奥側の女の像のほうの足がやはり大きかった。いや、大きいというか、これは……。
寒気が走った。
「手だ」
 師匠がうめく。たしかに手だ。男と向かい合った女の足首のあたりを、うしろから伸びてきた手が掴んでいる。手は地面を這っていて、だれの手なのかわからない。手だけが描かれている。
 この『足首を掴んだ手』という構図が、やがて本質を喪失して、手と足首とが一体となり、時代が下っていくと、ただ足元を大きめに彫るだけのデザインになっていったのだ。そのことが一瞬で理解できた。
「サトのソトにいる側の像の足がつかまれている。これは、死人を呼び戻す、黄泉の国の手だ。こんな強烈な道祖神ははじめて見た」
「師匠」
 僕は、師匠の肩を叩いて、木々のあいだからのぞく山の端を指差した。もう日が落ちかけている。夕闇が迫りつつあった。
 早く帰らないと。
 僕は不安な気持が湧いてきて、たまらなくなっていた。
「死者を呼び戻す手。これはなんの暗示だ。いや、呪いか。かくりよからサトへやってくる死者への。なぜ上岩倉じゃなく、この下岩倉で?」
 師匠は青白い顔でしゃがみこみ、道祖神を凝視している。
 風が吹いて、ざわざわと木々を揺らした。夕闇が僕らの頭上から落ちてきていた。
「師匠!」
 大きな声で呼んだ。すると、ようやく僕の呼びかけに気づいたようで、「ああ。もう帰らないとな」と返事があった。
 ミノルの話を聞いたせいだろうか。師匠が共同幻想と呼んだことを、土地の人間にとっては生々しい呪いだと言っていた。不良を気取った金髪の若者まで怯えていたのだ。生者と入れ替わろうとうごめく死者たちを。その呼び声を。
 僕は周囲にたちこめる木々の影が怖くなった。早く帰らないと。その影が、人の形に変わっていきそうで。
「戻ろう」
 師匠も急いで自転車に乗った。単に山道で日暮れを迎えるという、物質的な危険から身を守ろうとしているだけではなかった。僕らのなかには、それを越えた恐怖心があったのは間違いがない。そんな雰囲気が、この岩倉という土地にはあった。
 なんとか人里にたどりつき、やまと屋に戻ったときにはすでに日が暮れていた。
「あらあら、大丈夫かね」
 汗だくで服も髪の毛も汚れた僕らを見て、女将がすぐに風呂を沸かしてくれた。
 風呂から上がって、一息ついてから夕飯だった。今日は肉じゃがだ。これも家庭の味で、本当に旨かった。
「じゃあ、明日は朝ごはん食べて、車が戻ってきたらおいとまします」
「おかまいできませんで、すみませんね」
「いやいや、すごくよかったです。女将の料理もおいしかったし」
「ホタルも見られましたね」
「研究の成果はありましたかね」
「ありましたよ。な?」
「ええ」
 僕らは女将に礼を言った。疲れ果てていたので、食事が終わると、今日はホタルも見ずに部屋に引き上げた。
 師匠の部屋でテレビをつけて、映りの悪いバラエティ番組をぼうっと見ながら、今日あったことを話し合った。昨日以上にいろいろあったような気がする。
「結局、車は故障だったんですかね」
「わからん。まあ、用心するに越したことはないだろう。今日もつっかえ棒をして寝よう」
「いや、それは」
「なんだ」
 明日ですべてが終わる。依頼人の双子の兄を探し出せるかは、明日次第だ。でもやれることはやった、という気がする。
 夜の10時ごろには僕も自分の部屋に引き上げて、布団に横になった。
 本当に疲れていたので、つっかえ棒に挑む元気もなく、そのまま寝てしまった。

双子 4/4

6月28日、日曜日の朝だった。
 夜明け前に目を覚ました僕は、隣の師匠の部屋につっかえ棒が下りたままなのを確認してから、足音を忍ばせて階段を下りた。1階では、女将がもう朝の食事の支度をしていた。
「あら、今日はお早いですね」
「ちょっと、散歩でもしてこようかと」
「まだ暗いですよ」
「ええ」
 玄関を開けてもらって、外に出た。闇はほのかに白かった。息を吸い込むと、湿気を含む冷たい空気が体のなかに入ってくる。
 民宿の玄関の明かりが遠ざかっていくと、暗闇が深くなっていく。目を凝らすと、遠くの山のかなたに薄っすらと朝の光が控えているのが見える。川沿いの道を歩いていると、師匠が言っていたように、もやがたちこめていた。
 この朝の薄暗闇の向こうに、だれかがいる。そんな想像をしてみる。すると、もやのなかに人影が見えた気がして、目を擦った。
 これがかたわれどきか。
 僕にも、双子の妹がいるのだろうか。この世ではないどこかに。そう思いながら歩き続けると、もやのなかの人影が、まるでこちらを呼んでいるように揺らめいていた。
 しばらく歩いて、明るくなりはじめたころに引き返した。宿に戻ったときには、体が冷え切っていた。
 師匠も起きてきて、一緒に朝ごはんを食べた。昨夜は、車が動かなくなったような異変は、特におこらなかったようだ。
 することがないので、自分の部屋で2度寝していると、耳慣れた師匠の軽四の音がした。自動車屋が直して持ってきてくれたのだ。
 師匠は自動車屋に手持ちの金を渡して、残りを調査事務所に請求してもらうように話をつけた。これでようやく足が戻ったのだ。
「田舎で車がないと本当に大変だよな」
 師匠はそう言いながら、愛車のボンネットに頬ずりをした。そのあと僕が、頬が汚れたのを指摘したら、ボンネットを殴った。
「じゃあ、これで」
「ありがとうございました」
 僕らは見送りの女将にお礼を言って、やまと屋をあとにした。ご主人の滝野氏は、朝早くから畑に行ってしまって、会えなかった。道に出て、手を振る女将を振り返りながら、僕は師匠に訊ねた。
「これからどうします。夜まで時間ありますけど。どっかに隠れてます?」
「いや、村の人に見つかると、計画に支障があるかも知れない。約束の時間までに戻ってくればいいんだから、一度外に出よう。廿日美村の戻り沼につれていってやるよ」
「え、本当ですか」
「お、テンションがあがったねぇ。じゃあBGMだ」
 またステレオから稲川淳二がノリノリで喋りはじめた。
 村の境の、最初に見たあの大きな道祖神の横を通り過ぎるとき、師匠が「さあ、ここから先はあの世だ」と冗談を言った。
 稲川淳二が、「おやあ、なにか変だなあ」と言っていた。

 戻り沼にはなかなかたどりつけなかった。廿日美村の奥へ分け入って、山道をしばらく進んだあと、「このあたりから入るはずだ」と言って、路肩に車を停めた。そこからは道なき道をひたすら登り、「違った。こっちじゃないな」という師匠の言葉に不安になりつつ、元の場所に帰れるのか本気で心配しはじめたころに、鼻につく嫌な匂いに気がついた。
「あったあった」
 木々に囲まれた窪地に僕らは立っていた。眼前には葦やガマが生い茂る沼があった。嫌な匂いはそこから立ち上っている。
「沼気(しょうき)ってやつだな。沼底からメタンガスが出てるんだ」
 師匠が鼻をツイと摘みながらそう言った。
「もともとは綺麗な泉だったらしい。それがあるとき空を飛んでいた天狗が、宝物の珠を落としてしまった。珠は泉の底に沈み、珠から漏れ出る呪力で、美しかった水は汚泥と化して瘴気に満ちた沼になってしまったんだと。そんな言い伝えがあるそうだ」
「はあ」
 たしかにそんな言い伝えがあってもおかしくないような、不気味な気配が漂う場所だった。沼の周囲の木はどれも枯れていて、大きな根だけが、のたうつように地面を這っている。道中ずっとけたたましく響いていた山鳥の鳴き声が、ここでは聞こえなかった。
 師匠は、流行り病で妻に先立たれた男が、この沼で死のうとやってくる話をした。
 男が妻の形見の髪の毛の束を沼に投げ入れたところ、沼のなかほどから赤子のような悲鳴が聞こえ、沼面が沸き立ったという。それがおさまったとき、沼のなかに死んだはずの妻の顔が浮かんでいた。男は妻を沼から引きずり出した。しかし、姿かたちは生前の妻そのものだったが、問いかけに応えることもなく、まるで生き人形のようだったという。やがて笑みひとつ浮かべることなく、妻の形をしたものはモロモロと崩れ、男の目の前で泥になった。泥のなかには髪の毛の束が残っていた。
 男は死ぬことをやめ、山を下りて後妻を娶った。子はできなかったが、よく働く、気立てのよい女だった。数年が経ったある日、男は妻をつれて沼にやってきた。男は妻を沼に突き落とし、隠していた前妻の髪の毛を投げ入れた。すると泳ぎの上手かったはずの妻は、まるでだれかに足を掴まれたかのように、もがきながら沼の底に沈んでいった。沼は瘴気を撒き散らしながら沸き立ち、それがおさまったころ、女の顔が水のなかから浮かんできた。死んだ前妻の顔だった。男が沼から引きずり出すと、妻は今度は呼びかけに応えた。死人があの世から戻ったのだ。それから男は生き返った妻と幸せに暮らしたそうだ。それからこの沼は『戻り沼』と呼ばれるようになったという。
「それが天狗の珠の力だと?」
 僕の問いかけに、師匠は頷いた。
「天狗が天狗星の寓意だということは間違いないだろう。落とした珠というは、その欠片なのか。岩倉村に落ちたのは天狗星だって言ってたけど、本体は新城村に隕石湖を作ったほうのはずだ。岩倉村のものも、この廿日美村の戻り沼を作ったものも、どちらも天狗星が途中で砕けた破片ということになるな。そのどれもが、まるで人の死を覆すような逸話を伴っている」
 生い茂る葦を揺らせて風が吹き、静かな沼の水面に波紋を作っていった。
 ザワザワした気配に、僕は肌に鳥肌が立つような気持ち悪さを感じた。
「死んだ女房が生き返ったという男の話を噂で聞いた村の庄屋が、早死にした一人娘をあの世から呼び戻そうとして、同じことをしたんだと。髪の毛を投げ入れただけじゃなく、女中を騙して沼に沈めたのに、よみがえった娘には魂が宿っていなかったそうだ。そして土に還ってしまった。噂が代官のところにまで届き、また同じことをしたが、どうしても死者はよみがえらなかったそうだ」
「天狗の珠の力がなくなったということですか」
「いや、死者の体が復活するという奇跡は続いている。要は魂がどうやって宿るのかってことだ」
「魂ですか」
 昔テレビで見た、人形に魂を込めるという人形師のインタビューを思い出した。
 師匠はしゃがみこんで、ガマの花をいじりながら言った。
「ジェイムズ・フレージャーが分類した『類感呪術』ってやつは、類似した形状のものには空間を越えた繋がりがあるっていう考え方による。藁人形に釘を打つのはその典型だな。てるてる坊主なんかもそういう類の呪術だ。戻り沼で死者をよみがえらせる代償として差し出される人間は、『ヒト』という括りでは、類似性が弱いんだろうな」
「だったら、最初の男は庄屋たちとなにが違ったんですか」
「類似した形のものには、同じ魂が宿るんだ。妻をよみがえらせた男が、後妻に娶ったのは妻の双子の妹だった」
 僕はハッとした。双子という言葉に。ここにも双子が現われた。
「死んだ妻と、同じ姿かたちをした女を生贄にささげたから、妻の魂が宿ったって言うんですか」
「ああ。だけど、実はな、最初の男のほかに、死者をよみがえらせることに成功したという言い伝えがいくつか残っている。そんなに都合よく双子はいやしない。岩倉村じゃないんだ」
「じゃあ、ほかの人たちはどうやって?」
 師匠はしゃがんだまま、ちぎりとったガマの花を沼に投げ入れた。濁った水面は沸き立つこともなく、花はゆっくりと沈んでいった。
「人間にとって、類似した形のものは、肉体以外にもある。肉体以上にその人間の本質を表すもの。その類似性が魂の器として、等価交換に応じたんだよ」
「それは?」
 息をのんで訊ねた僕は、チリチリと産毛が焼けるような気がした。そのときの師匠の横顔が、いやにはっきりと脳裏に残っている。
 それは、岩倉村のできごととは別に、いつまでも僕のなかに残った。まるで墨を入れられたように。呪いの刻印のように。

 それから僕らは戻り沼をあとにして、山を下りた。
 廿日美村の山村センターというところで昼ごはんを食べ、笹川町の街なかで時間を潰した。
 ミノルとの約束の時間は夜の11時だった。10時ごろに笹川町を出て、岩倉に向かった。
「いよいよですね」
「ああ」
 窓の外を、暗い森が飛び去っていく。
「どうしたんですか。なんか元気がないですね」
 緊張しているのかと思った。しかし師匠は「なんでもない」と言ってはぐらかした。なにか気になることがあるのだろうか。
 僕も、天神山の聖域で師匠が指摘した、この村で起きている可能性のある遺伝子の異常のことが気にはなっていた。でも冷静になって考えると、1日2日いたくらいでそんなに影響はないだろう。たしかにミノルの言うとおり、そこで生まれた時から暮らしている人たちがいるのだから。
 山道なので、師匠はスピードを落として慎重に進んでいた。どれほどゆっくり走っても、追いついてくる車はなかった。対向車が何台か通っただけで、岩倉へ向かう車は僕らだけだった。普段からこんな交通量なのかも知れないが、なにしろ今夜は大ごもりの夜なのだ。わざわざ今ごろ岩倉に向かう地元の人もいないのだろう。
 来たときと同じ三叉路で左にハンドルを切った。ハイビームのライトに、大きな双体道祖神の石碑が浮かび上がる。
「夜に見ると、雰囲気がありますね」
 やけに不気味に見える巨大な像の横を通り過ぎて、僕らは岩倉に入った。
 カエルの鳴き声だけが聞こえている。人影はまったくない。やまと屋の前を通ったが、明かりはなかった。家がいくつかあったはずの場所を見ても、真っ暗だった。留守なのだろう。時間は夜11時少し前。いつもなら、そろそろ寝ようか、という時間かも知れないが、今夜ばかりはそういうわけにいかないのだ。大ごもりの夜なのだから。
 師匠が運転をしながら、かごめかごめの歌を口ずさんでいる。
「うしろのしょうめん、だあれ」
 その歌声を聴きながら、僕は少し怖くなってしまった。やっぱりこれは、師匠が言うように、おどし歌なのだろう。大ごもりの夜に、死者の国から這い出てきた双子のかたわれに出合う、という脅かしの歌。里美さんは、家にいるときにこの歌がどこからともなく聞こえてきた、と言って怯えていた。その恐ろしい縁起をはっきりとは知らないはずの彼女にも、岩倉で受け継がれてきた血の遺伝があったのだろうか。アタイズム。その知らないはずの景色への郷愁のように。
 車は人の気配のない上岩倉を走る。真っ暗闇だ。やがて北へ折れ、天神山へ向かう道に入る。空は曇っていて、星が見えない。岩倉を囲む北の山々も闇に溶けて見えなかった。
 鳥居の前に、男が立っていた。自転車が横に停まっている。僕らはジャリジャリと砂地の駐車スペースに車を停め、外に出た。
「遅かったですね。来ないかと思いましたよ」
「悪い。暗すぎて、ゆっくり走ってきたんだ」
 ミノルは持っていた懐中電灯を点けながら、「じゃあ、さっそく行きましょう」と言った。「父はもう、集会所回りが終わって、社殿に入ってます」
「もう大ごもりが始まっているんだな。この時間に上岩倉にいるのは私たちくらいか」
「ええ。怖いですか」
「どうかな」
 師匠は周囲を見回す真似をした。僕の霊感には、なにも映らなかった。師匠にはなにか見えているのだろうか。
 ミノルに先導され、足音を立てないように参道を静かに進む。
 宮司が祝詞を捧げているという社殿を通り過ぎて、社務所のほうへ進んだ。
「この裏が僕らの家なんです。母と祖母も、今夜は下岩倉の集会所です」
 ミノルは小声で言いながら、社務所の裏の住居へ僕らを案内した。
 電気がついて、廊下をそろそろと進む。広い日本家屋だった。その奥に、大きな書斎があった。骨董品と、本で埋まっている。
「父の書斎です。隣が父の寝室で、いつもは入れないんです。鍵のありかは知っていたので、さっき開けておきました。僕も双子に関する記録が、このどこにあるのか知りません。でもたぶんあると思います。祖父が言っていましたから。それを父が捨てるはずないです。もし、書斎になかったら、この奥に倉庫があります。そっちも調べてみてください。これ、見つけた鍵束です。引き出しがいくつかありますけど、どれかで開くと思います。動かしたものは元にもどしてくださいね。大ごもりは朝になったら、宮司がもう一度出向いて祝詞をあげ、それでお開きになります。朝7時から順次回り始めます。ギリギリまで社殿から出てこないはずですが、6時までにはここを引き上げるようにしてください。一度車で村の外に出て、三叉路を左に曲がったところで待っていてください。僕も大ごもりが解散になったらすぐに行きますから」
 ミノルは早口でそう言うと、焦った様子で、「じゃあ、僕はこれで集会所に戻ります」と頭を下げた。
「そんなに、怖いのか」
 師匠が挑発的に訊ねると、ミノルは「ええ」と素直に頷いた。
「12時を回ったら、いつ山から吼え声が聞こえてくるかわかりませんから」
「それが聞こえたら、死者が湧いて出てくるってわけか」
「岩倉の生まれじゃないから、大丈夫だと思いますけど、一応耳栓を渡しておきます」
 用意がいい。魂が抜かれるとかいう話を聞かされて、僕も怖かったので、感謝して受け取った。
「なにからなにまで、すまないな。どうしてそこまでしてくれるんだ」
「……どうしてでしょうね。僕にもわかりません。この神社を父から受け継ぐのは僕です。継ぐ前に、自分がなにものなのか、どうやってここで生きていきたいのか、確かめたいのかも知れません」
 ミノルは静かにそう言って、書斎を出て行った。最後にもう一度顔を出して、「あ、麦茶出しておきましたから、飲んでください。最後は流しに置いといてもらっていいですから」と言った。
 本当に気がきく。さっきからやけに蒸し暑くて、喉が渇いてしかたがなかった。半分は緊張のせいかもしれないが。
 ミノルが去ってから、僕は隣に立っている師匠に言った。
「あの人、本当は、自分に双子のきょうだいがいるんじゃないかって、疑っているのかも知れませんね」
 この村の人々は、みんな疑心暗鬼になっている。両親はけっしてなにも言わないからだ。だれもが、自分に忌み子と呼ばれ捨てられた双子のかたわれがいるのかも知れないと、心の奥底では思っている。ミノルは、そんな悲しい歴史を止めたいと思っているようだった。
「さあ、朝までに探さないといけないぞ」
 師匠は麦茶をがぶ飲みして、両手で自分の頬を叩いた。僕も真似をして、手分けして書類と本の束をかき分け始めた。
 どれくらい経っただろうか。
 暑さで頬に流れた汗を拭いたとき、ふいにくらりと眩暈がした。熱中症になったらいけない、と思ってまた麦茶のコップを手に取って飲み干した。
 眩暈が止まらなかった。おかしいな。そう思って額に手をやると、足が揺れた。膝の関節に力が入らない。次の瞬間、自分が猛烈な眠気に襲われているのに気がついた。
 な、なんだこれは。急にどうしたんだ。
 くらくらする頭で、師匠のほうを見ると、師匠も同じように頭を振っている。
「おい」
 師匠がこっちを見て、なにかを言った。
「やられた」
 そう言ったのか。なんだかわからない。もうだめだ。眠い。僕は自分の意識が暗い穴のなかに落ちていくのを感じていた。

「う」
 顔に、水がかけられて目が覚めた。
「うわっ」
 僕は自分の状況を認識して驚いた。足を投げ出す格好で、うしろ手に縛られ、柱に括りつけられている。
 目の前には、ミノルがいた。大きなヘッドホンを首からかけて、僕のまえにしゃがみ込んでいる。
「目が覚めましたか」
 そう言いながら、コップに入った水をもう一度僕の顔にかけた。
 ぶっ。
 一瞬、息が詰まった。なんだ。なんなんだ、いったい。
「睡眠薬だよ。麦茶に盛ってやがった」
 声のしたほうを振り向くと、師匠が僕と同じような格好で柱に括りつけられていた。顔と髪の毛が濡れている。僕と同様に水をかけられたようだ。
「なんで。なんでだよ」
 僕は喚いた。うしろ手に縛られた拘束を解こうともがいたが、ロープできつく結ばれているようだ。さらにそのロープをうしろの柱の基部にくくりつけられていて、その場を動くことができなかった。
「ここは、社殿か?」
 師匠がミノルを睨みつけながら詰問する。そう聞いて、僕は周囲を見渡した。天井に黄色い電灯がついている。その明かりに板張りの部屋が照らしだされていた。目に前に祭壇のようなものが見える。祭壇の前には大きな鏡が置かれていた。僕と師匠は、部屋の左右にある柱にそれぞれ括りつけられている。
「そうですよ」
 ミノルは立ち上がり、祭壇の前に立った。爽やかな笑顔のままで。
「宮司はどこに行ったんだ? ひと晩中、社殿で祈ってるんじゃなかったのか」
「あの父がですか? ハハハ。とっくに逃げてますよ」
 ミノルは古そうな鏡の、錆の浮かぶフチを指で弾いた。
「逃げた?」
「表向きは大ごもりの祝詞が終わったら、ひとりで社殿にこもって朝まで祈っているはずなんですけどね。地の底から這い出てきた死者たちを、地の底に還すために。実際にはだれも見ていないことをいいことに、祝詞が終わったら、そのまま村の外に車で脱出するんですよ。朝になったら戻ってきます。都合のいいことに、大ごもりのしまいをつけるのも宮司の仕事です。父が車で戻ってきてから何食わぬ顔で集会所を回るまで、だれも外を出歩かないから、バレないんですよ」
 ミノルは楽しそうに笑っている。昨日僕らと談笑したそのままの笑顔だ。けれど、僕らが拘束されているこの状況の前では、異常な態度だった。
「最近は、集会所にこもらずに外で泊まって、朝帰ってくる連中もいますけどね。そいつらが帰ってくるのは、仕事に間に合うギリギリですから。出くわすこともありません」
「……車を壊したのは、おまえだな」
 師匠が怒りを押し殺したような声で言った。
「証拠でもあるんですか」
「車が壊れされたあと、おまえに神社へ呼び出された。おまえの親父に内緒だからって言って、自転車を鳥居のそばの木のうしろに隠しただろ。車じゃないんですか、なんて、しれっと言いやがって。車で来てたら、隠せる場所なんてないじゃないか。おまえ、私たちが最初から車で来ないって知ってたんだな」
 ハッとした。そう言えば、昨日神社から帰るときに、師匠がやけに鳥居のほうを振り返っていた。
「気づいてたんですか」と僕は言ったが、師匠はいまいましそうに首を振った。
「確信は持ってなかった。昨日のヤンキーどもがイタズラでやったかも知れなかった。それを聞いていただけかも知れない。一応油断はしないようにと思ってたけど、まさかここまでやるとはな」
 ミノルはニコニコしている。師匠の刺すような視線にも動じていない。
「車を壊したのは、帰さないためだな。私たちを呼んで、この大ごもりの夜の計画を話し、誘い込んだ。完全に嵌められたよ」
「目的も感づいているみたいですね。聡明なあなたのことだから」
「いいからほどけよ、この野郎」
 僕は喚いた。そして板張りの床をカカトでガンガン蹴った。ムカつく。最初から気に食わなかったんだ。話しかたも。顔つきも。ふざけんな。
「うるさい。黙ってろ」
 師匠に怒られて、黙った。なんで僕が怒られるんだ。
「おまえだったんだな。羽根川里美の双子の兄は」
「えっ、えっ。どういうことですか」
「黙ってろって言ったろ。こいつもサバ読んでやがったんだ。逆サバを」
「その通りです。23歳って言いましたけど、本当は21歳です」
 ミノルは祭壇の奥の棚から、手帳のようなものを手に取った。
「あなたたちに探してもらってたのは、これですよ」
 僕は唖然とする。とっくに自分で持ってたんじゃないか。
「見つけたのは5年前です。父が大ごごもりのあいだ、社殿からいなくなることを知ってから、その夜は僕の、自由でそして個人的な空間でした。初めてこれを見たときは、驚きましたよ。僕に双子の妹がいたなんて。ずっと見ていた怖い夢の正体が、村の外にいたんです。あいつは、僕と入れ替わろうとしている。そして、いつか僕の前に現れることを恐れていました。あなたは、本当の双子のきょうだいは死者じゃない。血のかよっている普通の人間だって言ってましたね。あの夢を見たことがないから、そんなことを言えるんですよ。あれは人間じゃない。はるか昔から伝えられてきたとおり、黄泉の国へ生まれるはずだった忌み子だ。僕は、自分自身を守らなくてはならない。父からあなたたちのことを聞いたときは、心臓が止まりそうになりました。父も驚いたと思います。羽根川里美は自分の娘なんですから。あなたたちがだれを探しにきたのか、父は僕に説明しませんでした。妹のことは、僕も知らない。父と母だけの秘密ですからね。でも森林組合の同僚が昨日の夜、電話をかけてきました。21歳の双子の兄を探しにきたやつがいたぞって。おまえじゃないのか、って。笑って言っていました。僕ですよ、21歳の双子は。この記録にある、最後の双子です」
 古い手帳を掲げて、ミノルの笑顔が初めて歪んだ。声がかすかに震えている。
「21歳の男で、里美と近い誕生日の男を捜せば、いずれ僕にたどり着いてしまうと思いました。あなたたちがどんなに間抜けでも。だからこうするしかなかったんです」
「どうするってんだ」
「そうだ。どうするんだよ」
 自由を奪われたままで、僕は湧いてくる恐怖心と戦っていた。目の前の男は、狂っている。理知的な態度だったが、その根本にある精神が、僕らの知っている倫理観や死生観と異なっているのだ。話しているだけで、そのことがひしひしと伝わってくる。なにをするのか、予測できなかった。
「そうですね。里美に、双子の兄は死んでいた、とでも言ってもらいましょうか。それとも、藤崎アキラがそうだったとか。慎重に考えないとね。もう二度と僕に近づかないようにするために。そのためには、あなたたちの弱みを握らないといけないな。人に見られたら死にたくなるような、恥ずかしい写真なんてどうですか」
「ふざけんな。殺すぞ」
 僕は腹の底から怒鳴った。まだ少し残っていた眠気が、吹き飛んだ。
 そのとき、どこからともなく、地響きのような音が聞こえてきた。オオオオオオ、という低い音だった。思わず周囲を見たが、発生源はどうやら床の下のようだった。
 なんだいまの音は。かすかに床が揺れているような気がする。
「もう時間がきましたね」
 ミノルは手帳を棚に置いた。そして、首にかけていたヘッドホンを耳元に構えた。胸にウォークマンのようなものがのぞいている。
「この社殿の地下には、空洞があるんですよ。天神山の地下空間と繋がっています。大ごもりの夜に、山の亀裂から死者の咆哮が吹き出るときには、この下からも空気が漏れて、聞こえるんですよ。それを塞ぎ、その怨念を封じるためにこの社殿は建てられています。あの生真面目な父が、逃げたんですよ。どんなものか想像がつきますか。遠くで僕が一度聞いたときは、本当に魂が抜けていくような感じがしました。何百年、何千年と積み重なってきた死者の呼び声をまともに聞くと、どうなってしまうんでしょうね」
 床板の隙間から、気流が漏れてきている。僕は自分の足元を見て、「ひっ」と声をあげた。立ち上がろうともがいたが、柱の下に結ばれたロープのせいで、それすらできなかった。
「それじゃあ、耳も塞げませんねえ」
 ミノルは僕を見てニコリと笑った。
「じゃあ、僕は一度離れます。大丈夫。近くにいますよ。声がおさまったら戻ってきます。もしおふたりが無事なら、記念写真でも撮りましょうか。楽しいポーズで」
「集会所に戻らないのか。あれほど怖がっていたのに」
「もちろんウソですよ。僕のかたわれは、村の外にいるんです。この山の地下から這い出てくるのは、アカの他人の双子の死者たちなんです。怯える必要はないじゃないですか。大ごもりの夜、川のこっち側の上岩倉にいるのは僕だけです。父すらいない。僕だけの世界です。死者の無数の黒い影がうごめいている暗い夜に、僕だけが自由に歩いている」
 ミノルの顔に喜悦が浮かんでいる。
「狂ってる」
 師匠が吐き捨てるように言った。
「こんな夜には、ドヴォルザークの『新世界より』が合うんですよ。それじゃあ、さようなら」
 ミノルはウォークマンのスイッチを入れて、大きなヘッドホンで両耳を覆った。
「ま、待て」
僕らの叫びに手を振って応えると、両手をズボンのポケットに突っ込み、猫のように背中を曲げて静かに横を通り過ぎていった。
「待てこの野郎」
返事はない。うしろから、社殿の扉が軋みながら開き、そして閉まる音がした。本当に出て行ったのだ。
 床の下の振動は、だんだん大きくなっている。
 うそだろ。うそだろ。
 僕は混乱していた。なにかが来る。なにか恐ろしいものが。心臓がバクバクしている。なんでこんなことになってるんだ!
「師匠!」
「まて、いま考える」
「考えるもなにも、動けないんですよ」
 僕は苛立ちを師匠にぶつけた。とにかく2人ともうしろ手に縛られて、腰のあたりで柱にくくりつけられているのだ。足は動かせるが、それだけだ。足をあげようが、上半身を丸めようが、耳をふさぐことができない。ヨガの達人のように体が柔らかければ、どうにかなったかも知れないが。たとえ足の裏で耳を塞いだとしても、そのくらいで声を聞かなくて済むとは思えなかった。
 ゴゴゴゴゴ……。という地響きのような振動がさらに大きくなってきている。ヤバイ、ヤバイ。これは本当にヤバイ。
 恐怖で涙が出てきた。ミノルは、天神山の地下水が温められて気流がなんとかって言ってた気がするけど、全然そんなんじゃない。わかる。わかってしまう。全身の細胞が身震いしている。僕の霊感が全力で危険を告げている。
 そうだ、耳栓は? ミノルに渡さされたものが、ズボンのポケットに入っている。その膨らみを見下ろしながら、なにもできないことに気づく。両手を拘束されている以上、取り出すこともできないし、よしんばうまく転がり落とせたとしても、耳に嵌められない。
「師匠ォッ!」
 半泣きで叫んだ。そうだ。大声を出したらどうだろうか。ほかの音が聞こえないくらい。
「゛ああああああああああああああっっ」
「うるせぇ!」
 声を限りに吼えたが、しばらくして肺の空気がなくなり、むせた。だめだ。こんなものいつまでも続かない。しかもいまの師匠のうるせぇも聞こえてしまった。
 この状況で、音を聞かなくて済む方法はないのか。ないのか、ないのかないのかないのか。人間の耳はなんで口のように閉じることができないんだ。欠陥じゃないのか。だれの設計なんだ。混乱している。考えがまとまらない。だめだ。まとまらない。おもいつかない。ねる? ねるのはどうだ。寝るしかない。
 僕は目を閉じて深く呼吸をした。睡眠薬で強制的にやってきた眠気が、もうほとんど残っていない。心臓がドキドキする音がやけに大きく聞こえる。寝られるのか、この状況で。
「なんだ。静かになったな」
「話しかけないで下さい。寝られないから!」
「なんだよ。あの睡眠薬、結構強力なやつだったから、気でも失ったのかと思ったぞ」
「失いたいんですよ!」
 もう余裕がどこにもなくなっていた。座って柱に括りつけられているこの格好で、すぐに眠りに落ちないといけない。そんなプレッシャーがある時点で、絶対に無理だ。僕は目の前が真っ暗になるような恐怖に襲われた。
 UUU…………nn。
UUU…………nn。
 地の底カからなにかが聞こえる。湧き出てくる。絶望的なものが。それを聞いてしまったら、どうなってしまうのか。
 体がガタガタと震えた。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。
 心臓がバクバクする。呼吸が苦しい。
「そのまま強く短く呼吸しろ」
 師匠の声が聞こえた。
「過呼吸状態を続けろ。意識を失うまで」
 ハッハッハッ。
 過呼吸だって? 僕は激しく息をしながら、師匠のほうに顔を向ける。
「苦しくてもやれ。死ぬ気でやれ。気絶してもすぐに戻ってこないくらいに。死にはしない。たぶん」
 たぶん? 手の先が痺れてきた。
 僕はだんだん朦朧としはじめた頭で、師匠の言葉を聞いていた。なぜか映画のロッキーを思い出した。アポロクリードがハードなトレーニングをするロッキーに、ハッパをかけ続けて追い込む場面を。
「来るぞ。早く!」
 3だったか、4だったか。クラバー・ラング? イワン・ドラゴ? アポロはしんだんだっけ。いつしんだ。ミッキーはしんだな。
 ハッハッハッハッハッ……。
 世界が暗くなっていく。思考が分散して、幕が下りる。
 振動。
白い闇が。

 …………………………
 …………………………………………………………
 争う音を聞いた。
 バタバタバタ。
「なっ、ぐっ」
 苦しそうな声。床を蹴りつける音。
 ズキッ、と頭に強い痛みが走った。目を強く閉じる。体に痺れがある。手や足の指、体の先端が。息苦しい。横になりたい。
「うおおおお」
 そんなうめき声がして、すぐにバタンと手足が床に落ちる音がした。
 僕は目を開ける。目の前には、祭壇がある。葉っぱと、鏡が飾ってある。神社だ。社殿。僕は手をうしろに回し、柱にくくりつけられている。頭が、記憶を再生し始める。
「師匠?」
 横を向くと、男が師匠の上に覆いかぶさっていた。ミノルだ。ミノルの背中が見える。師匠のシャツがたくし上げられているのがわかる。それを見た瞬間、ビクッとした。そして、混濁している頭に、鋭い刃物が差し込まれた。
「師匠!」
 しかしよく見ると、ミノルは師匠にもたれかかったまま、ピクリとも動かない。ミノルの首に、柱の前に腰を落としたままの師匠の両足が絡みついている。右足のふくらはぎが、首の左側に深くくいこんでいるのだ。ミノルの右手は、首と一緒に挟みこまれ、師匠の右胸の辺りを掴んでいた。師匠はうしろ手のまま反り返り、下からミノルを三角締めで落としていたのだった。
 師匠が力を振り絞っているのがわかる。上気した顔で、ふうっ、ふうっ、と息を吐いている。2人の2メートルくらい後ろに、ミノルのしていたヘッドホンが吹っ飛んでいた。
 しばらくその体勢で息を整えていた師匠が、一瞬足を軽く解き、振り上げた左足のカカトで、ミノルの背中を強く打った。
 ゴッ、という背骨に当たる鈍い音がして、ミノルがビクリと震えた。ついで、「うぉっ」という声。師匠はすぐさま両足を三角締めの形に固め、「動くな。何度でも落とすぞ」と言った。それでもミノルは暴れようとした。
「うおおおおおおっ」という吼える声。
 師匠は無言で、両足に力を込めた。僕は離れた場所で、見ていることしかできない。
 すぐにまたミノルは動かなくなる。
 師匠は呼吸を整えたあとで、もう一度左のカカトを振り下ろした。気がついたミノルに、師匠は押し殺した声で言った。
「次は殺す」
 ビクッと背中が跳ね、一瞬左右に振ろうとした動きのあと、観念したように、ミノルは脱力した。首を圧迫されて、くぐもった声を出しているが、よく聞こえない。
「左手を伸ばして、括った紐を解け」
 師匠はそう言うと、ぐっ、と足を体のほうに引き寄せた。体が前のめりになったミノルは、そのまま言われたとおり、左手を伸ばして師匠の腰の裏に手を回した。
「妙な動きをしたら、即締める」
 そう言われたミノルは、もう抵抗するつもりはないのか、左手だけを忙しげに動かしている。片手ではなかなか解けないようだったが、右手は肩ごと両足で挟んで殺している。それを自由にするわけにはいかなかった。
 かなりの時間が経ったが、ようやく、師匠の手が体の前に回った。
「痛ってぇ」
 そう言ってぶるぶると手を振ったあと、師匠はミノルの頭を両手で抱えながら、「ありがとう」と言った。
 次の瞬間には、もうミノルは落ちていた。
 師匠は覚醒させないように、慎重にミノルを裏返した。そして捲り上げられていたシャツを元に戻すと、さっきまで自分の手を縛っていたロープで、ミノルの手をうしろ手に縛る。立ち上がると、すぐに僕のほうへやってきて、ロープの拘束を解いてくれた。
「あ、ありがとうございます」
 師匠はまた転がっているミノルのところへ取って返し、僕のロープで今度は足を縛った。
「つっ、かれた~」
 師匠は大の字になって床のうえに寝転んだ。
「何回落としたんだ。4回? 5回? 1回でわかれよ、あの野郎。頼むから」
 そうぼやいている師匠を見て、僕が気絶から覚める前からあのバトルが続いていたことを知った。
「なにがどうなったんですか」
「落としたんだよ。三角で」
「それはわかりますけど」
「おまえ、本当に失神したんだな。過呼吸でそうなることがあるとは聞いてたけど。やってみるもんだな。あのあと、あいつがノコノコ様子見に戻ってきたから、死んだフリしてたんだ。油断して近寄ってきたところを、この足でズバッと!」
 自慢げにそう言っている師匠のホットパンツから伸びる足を見て、僕は心のなかにこの足要注意、という付箋を張った。さすがは、好きなレスラーで藤原喜明を一番にあげるだけのことはある。
 僕は長時間同じ格好でいたせいか、手足が痺れていた。それだけじゃなく、睡眠薬を盛られたあとで強制的な過呼吸で失神する、という無茶をしたばかりだった。頭は痛いわ、体は痺れるわ、今にも倒れそうだった。
 僕も師匠の隣で、並んで寝転んだ。
「ううっ」
 ミノルが気づいたようだ。ゴホゴホと咳き込んだあとで、両手足が縛られていることに気づき、もがいている。
「よう。大丈夫だったか。悪かったな。何度も落として」
 師匠をそう言ったあと、思い出したようにブラジャーがズレているのを直した。
「……」
 ミノルはなにも言わず、師匠を睨みつけていた。僕はカッとして、殴りかかりそうになった。こいつ、師匠になにをしようとしやがったんだ。その動きを察して、師匠が僕の肩を抑える。
 どうしてだ。
 僕は苛立った。
「まあ、これでおあいこだろ。月本ミノル、おまえ、やっぱり面白いやつだったよ。もう会いたくないけどな。悪いけど、羽根川里美に、おまえが兄だってことを教えるぞ。あとは知らない。身内同士でやってくれ」
 師匠は起き上がった。
「さあ、帰るか。ここは、この世とあの世の境界があいまいになっているんだ。長居はしたくない」
「こ、ここにいれば大丈夫じゃないですか」
 僕は外に出るのが怖くなった。夜があけるまで、までここにいればいいんじゃないかと思ったのだ。腕時計を見ると、4時半過ぎだった。もうそんなに経っていたのか、と驚いた。普段ならそろそろ空に薄い光が現れ始めるころだが、この山に囲まれた岩倉では、おそらくまだ真っ暗だ。
「そうも言ってられない。見ろ」
 師匠のそう言われ、社殿の入り口の扉を見た。大きな開き戸だったが、その向こうに真っ黒い影が見えた。まるでこちらをうかがっているようだった。それは、扉の外にいるはずなのに、木製の扉が透けているかのように、はっきりと見えた。
 僕は思わず口をおさえてあとずさる。
「境界の破れ目がある山の麓だからな。まだまだ増えてる。囲まれるぞ」
 扉の黒い影のうしろから、別の影がいくつも揺れていた。
 あれが入ってきたら。
 そう思うとおぞけがはしった。
「あれは、私たちの知っているものじゃない。死んだ人間じゃないんだ。最初から死者として生まれたんだから。することも、思考も、想像がつかない。あれが、この村の共同幻想の産物だとしてもだ。双子のかたわれはあの世に生まれ、自分たちだけがこの世に生まれたという、罪の意識が千年のあいだ積み重なっている。その闇から生まれた化け物たちだ」
 扉の黒い影が、こちらを手招いている。双子のかたわれを探しているのか。
「ここもやばいぞ。安全なら、こいつの親父も逃げないだろ」
 師匠は倒れているミノルに近づいて、見下ろした。
「じゃあ、私たちはもう帰る。縄は多少緩めにしといたから、なんとか自力でほどけるだろ。親父殿が戻って来るまえに、全部しまいをつけるんだな。おまえが双子のかたわれだって知ってしまってることとか、『新世界より』を聴きながら、化け物どもと自分しかいない世界を楽しんでいる、倒錯的な趣味を知られなくなかったら」
 ミノルは、もがきながら口を歪めた。
「い」
 なにか言おうとしている。
「いもうとには、いわないでくれ」
 搾り出すように、ようやく発した言葉がそれだった。
 そのとき、なにか動いた気がして祭壇のほうを見た。祀られている大きな鏡に、人のような黒いものが映っている。それがこっちを見ている。
 板張りの床が一瞬透けて見えた。目を擦ると、元に戻った。けれど、揺らめくように、また透けて見える。暗い穴がぽっかりと空いている。どこまで深いのか、想像のつかない穴が。その奥底からあの呼び声が響いてきたのだ。そう思うと、僕は、「うわっ」と言いながら、穴から跳び下がった。
「いよいよまずいな」
 師匠がミノルの縄を軽く引っ張り、「あとは自分でやれ」と言って顔をあげた。床に落ちていた、ミノルの懐中電灯を拾い上げて、「借りとくぞ」と言う。
 それから僕らは扉に向い、師匠が蹴り破るように開け放った。外はまだ暗かった。その闇に、黒いものがいる。人の形をしているものもいれば、していないものもいる。懐中電灯で照らすと、闇はうしろに下がったが、黒いものは黒いままだった。光が吸い込まれるようだった。異様な光景に体が縮こまるような寒気がした。
「走れ」
 ジャッ、と砂利を蹴って師匠が走り出す。僕も必死でそれに続いた。周囲に黒いものがいくつも動いていた。這いずっているものも多かった。ヒルコという言葉が浮かんだ。海の向こうという、かくりよに追放された不具の神。僕は恐怖に吐き気を覚え、口を押さえた。
 ミノルは自分の双子は村の外にいるから、こいつらには怯えなくていい、なんて言ってたが、とてもそんな気持ちになれるとは思えなかった。幽霊ですらないのだ。この世に生を受けたことのない存在。それを、僕には想像ができない。
 途中で僕は振り返った。空も曇っているのか真っ暗で、そびえているはずの天神山は見えない。しかし、異様な重力のようなものが、そちらの方角から伝わってくるような気がした。
「早く来い」
 黒いものに触れないように走って参道を抜け、鳥居にたどり着いた。師匠が車に飛び乗る。僕も遅れて助手席に滑り込んだ。
 すぐさまエンジンを吹かし、発進した。ハイビームのライトに黒いものが映る。舗装もされていない道を、無数のものたちが蠢いていた。師匠はそれを左右に激しくハンドルを切りながら避けていく。車内はガタガタと揺れ続け、歯がカチカチと鳴る。
「どれだけいるんだ」
 師匠がうめいた。どこまでも黒いものの群は続いていた。やがて、東西に流れる川のところに出た。ここからは舗装道だ。ハンドルを右に切り、川を左手に見ながら西に向かう。村の出口の方角だ。
 道の左右には、家の明かりもまったく見えない。無人の世界だ。元小学校の校舎が見えた。黒いものたちがたくさん校庭に立っている。なにをしているのかもわからない。僕は目を閉じたかった。けれど、閉じることのほうが恐ろしい気がした。
 南の下岩倉へ行くための橋の前を通り過ぎるとき、そのたもとに黒いかたまりがあった。道祖神があるあたりだ。橋の向こうには黒いものはいなかった。橋を通れないのだ。道祖神のせいなのだろうか。無数の黒いものたちがそこに佇んでいた。下岩倉で集会所にこもっている人々は、地獄の蓋の開いたようなこの上岩倉の光景を知っているのだろうか。
 その息を潜めている人々のことを思った。彼らは何百年もこうしてきたのだろうか。ここで生きることは、その恐怖とつきあっていくことなのだろうか。畏れの表情を浮かべた人々の顔を思い出す。
 うつしよに生まれた片割れを妬み、恨み、夢のなかでよびかける存在。この岩倉で生きる人間は、その夢をなにより恐れている。入れ替わろうと訴えかける声を。
 どこからともなく、子どもたちの歌が聞こえる。それは僕の頭が僕の意思とはかかわりなく再生していた。
『か~ごめ かごめ
 か~ごのな~かの と~り~は
 いついつねやる かたわれどきに
 なぬか などぉって つぅべった
 うしろのしょうめん だぁれ……』
 助手席で体を縮め、僕は耳を塞いだ。
「師匠は、聞いたんですか」
 耳を塞いだまま訊ねた。「社殿の地下からの声を」
 師匠は僕を過呼吸で失神するように誘導した。師匠自身はどうしたのだろうと思った。ミノルが戻って来たとき、師匠は死んだフリをしていたと言っていた。起きていたのだ。
 手のひらと耳の間で、海鳴りのような音が渦巻いている。そして海の底から聞こえてくるような師匠の声がする。

聞いたよ。
あれは、興味本位で聞くものじゃないな。
寿命が縮まったよ。
3回分くらい……。
 
 僕はそれを、耳を塞いだまま聞いている。
 車は明かりのない道を走る。道沿いのやまと屋も暗いままだ。やがて、開けた場所から森のなかに入る。3日間いた岩倉ともこれでお別れだ。僕は助手席のシートに深く沈み込み、天井を見上げていた。
 ふいに、車が減速した。
 どうしたんだろう、と思うまもなく、師匠は車を止めた。ドアを開ける音。
 えっ。本当にどうしたんだ?
 僕は驚いて体を起こした。師匠が車の外に出た。そして前方に向かって歩いていく。
 なにが起こったのか、わからなかったが、僕もそろそろとドアを開けて外に出た。
 車のライトに照らされて、デコボコした道路が浮かび上がっている。その先の右手側の道ぶちに、道祖神があった。三叉路を入ってすぐの入り口にあった、最初に見た大きな双体道祖神だ。その向こうに、人影があった。一瞬ドキッとしたが、さっきまでの得体の知れない黒いものではなかった。普通の生身の人間だった。
 しかし、それを見た瞬間、僕の全身を不気味な感覚が貫いた。今日何度も味わってきた恐怖とは、異なる感覚だった。それは違和感の延長上にあるものだった。
「えっ、なんで?」
 僕は思わずそう口にしていた。
 羽根川里美がそこに立っていた。
顔が青白い。そして師匠と僕を前にしても、表情がまったくなかった。服装は事務所で会ったときと同じような格好だったが、それがいっそう違和感を煽った。
「おかしいと、思ったんだよ」
 師匠が羽根川里美と向かい合って、静かに言った。
「童歌やら、庚申信仰の記事やら、そう簡単に見つからないだろ。岩倉のことを相当調べている。それだけやってるのに、なぜ岩倉へ来て調べないんだろうって」
 いや、里美さんは岩倉に行ったと言っていた。ただ人々が閉鎖的で、取りつくシマがなかったと。
 僕は目の前の光景が現実のものか疑った。しかし、たしかにそこに依頼人が立っている。車もなく、明かりもなく、ただひとりでそこに。
「お父さんの本籍地だった篠田地区に、家は残っていなかったと言ったよな。でもあったぞ。本籍地の篠田十一番一に、羽根川という表札の家が。ボロボロだったけど。市販の住宅地図には載ってなかったけどな。おまえは、その地図を見ただけだったんだろ。地図で見て、ないと思ったんだ。岩倉に入って、私たちもいろいろ話を聞いたけど、たしかに閉鎖的だった。特に双子の話はタブーだったよ。そんな場所で最近双子の兄を探しにきていたにしては、だれもあんたのことに触れなかったよ。同じようによそ者がきて、同じように双子の兄を探してたのに。民宿のこともそうだ。この小さな村では民宿は1軒しかない。なのに、宿帳を見てもおまえの名前はなかった。なぜなんだろうな。こんなところまできて、日帰りだったってのか。ずいぶん諦めがいいな。その程度の調べものだったのかよ。違うだろ。おまえは、岩倉に来てないんだ」
 師匠は淡々と指摘する。羽根川里美は一言も発せず、青白い顔のまま、表情を変えない。
「岩倉村の南半分の下岩倉に、古い道祖神があった。もちろん双体道祖神だ。その片方の像の足首を、手が伸びてきてつかんでいた。黄泉からの手だ。死者を引き戻す手だよ。サトとソトの境界に、そんな像があるんだ。これは忌み子として村の外に捨てられた子どもが、戻ってこないようにという呪いがけだ。この岩倉では、人はすべて男女の双子で生じるという言い伝えがある。一方はうつしよに、一方はかくりよに。そのかくりよに生まれたものたちが、生者と入れ替わろうと溢れ出てくるのが、大ごもりの夜だ。恐れるべきは、黄泉の国から這い出てくるその片割れたちなんだ。なのに、これほど強い呪いを、サトとソトの境界に置いている。黄泉からの手は時代が下るにしたがって省略されているが、痕跡は残っている。そこにある道祖神もそうだ。この村の道祖神はすべてだ。つまり、この岩倉の人々は、あの世に生まれた双子も、あやまってこの世に生まれた忌み子も、同じように恐れている。それはなぜだ。不合理で、前近代的な因習のはずなのに。おまえは、どうして岩倉に入らなかった。なぜ自分では入らずに、他人を使った。そして、どうして……」
 師匠は、無言で立っている羽根川里美の足元を指差した。
「その、道祖神の向こうにいるんだ」
 羽根川里美は、村の入り口の巨大な双体道祖神の手前に立っていた。村の外側にだ。僕らがやってくるまで、そこに立っていた。
 その意味を考えてゾッとする。
 そこに立っている人間は、まるで絵画のように、現実感がない。たしかにそこにいるはずなのに。
「宮司の息子の月本ミノルは、恐れていたよ。子どものころから、怖い夢を見るんだと。忌み子として捨てられた双子の妹が、夢に出てくるって。出てきて、入れ替わろうとするって」
「師匠」
 僕は思わず前に右手を伸ばした。止めようとしたけれど、遅かった。師匠は、羽根川里美の探していた双子の兄の名前を告げてしまった。背筋がゾクゾクする。あれほどあいつが恐れていたことを。
 ふいに、羽根川里美の体が揺らいだ。たわみながら、前後に大きく揺れている。厚さがない。本当に絵画のようだった。
 僕は思わずあとずさる。
 目の前の光景が恐ろしかった。
 羽根川里美だったものは、完全に厚みを失い、ペロリとめくれあがって空中で消失した。
 僕は絶句した。
 師匠はそれを見て笑っている。
 縛り付けられ、胸をまくられもしたあの男を、あっさり許したとき、妙に違和感があったのだ。師匠の苛烈な性格を知っている僕は、それがひっかかっていた。
 師匠は、こうなることを予感していたんじゃないだろうか。僕は恐ろしかった。この人を怒らせるということが、どういうことなのか、わかった気がした。
 ミノルがどうなったのか、考えたくもなかった。
「見ろよ」
 師匠がそう言って、東の空を指さした。岩倉村のある方角だ。村から離れたせいか、岩倉を囲む遠くの山が少し低く見える。
 そう、山が見えている。あれほど真っ暗だったのに、いまは薄っすらと山の稜線に、光の筋が走っていた。
「朝日だ」
 岩倉村の中心部では、山に遮られてまだ迎えていないはずの日の出が、ここからは見えはじめていた。

 6月29日、月曜日。
 小川調査事務所に戻った僕たちに所長が告げたのは、依頼人から調査費用が全額振り込まれたということだった。本人に連絡をしようとしたが、聞いていた電話番号は存在していない番号だったそうだ。聞いていた市内の住所もそうだった。
 紹介者のはずの仁科さんに確認すると、そんな子は知らないと言っていた。
「やっぱり、あとをつけたほうがよかったですね」
 服部さんがそう言った。
 師匠は、今度は英語で言い返さなかった。