師匠シリーズ47話 雨音

454 :雨音  ◆oJUBn2VTGE:2007/09/26(水) 20:16:46 ID:gAYKdkL30
大学2回生の秋の終わりだった。
その日は朝から雨が降り続いていて、濡れたアスファルトの表面はもやのように煙っている。
こんな日には憂鬱になる。気分が沈滞し、思考は深く沈んでいる。
右手には川があり、白いガードレールの向こうもかすかに煙って見える。
カッチカッチと車のハザードランプの音だけがやけに大きく響く。それだけが世界のリズムになる。
すべてがそのリズムで成り立っている。
俺はもう一度川を見た。
あのガードレールのこちら側に雨は降り、あちら側にも同じ雨が降りそそいでいる。
道に落ちる水と、川面に落ちる水。
見上げれば暗く低い空から、それでも数百メートルの高さをゆっくりと落ち、
地表においてわずか数センチの違いで運命が分かれている。
このイメージが妙に可笑しくて、運転席でハンドルに頬杖をついている人に伝えた。
すると彼はめんどくさそうに口を開く。
「此岸と彼岸の象徴か。確かにこの世とあの世なんて、たったそれだけの違いだよ。
 けど、地中に染み込んでも川を流れても、いずれは海にたどり着く」
海。
俺にオカルトを教えた師匠が言うその『海』は、きっと『虚無』と同義なのだろう。
彼は死後の世界を認めなかった。
ここでいう死後の世界とは、地獄とか天国とか、そういうこの地上以外の世界のことだ。
なぜか認めないのかはよくわからない。けれど、頑なにそう信じていたのは確かだった。
夕暮れにはまだ少し早い。
俺と師匠は路肩にとめた車の中でずっと待っていた。
先日、雨の降る日に、師匠はここでなにか面白いものを見たらしい。

455 :雨音  ◆oJUBn2VTGE:2007/09/26(水) 20:17:23 ID:gAYKdkL30
「いい雨が降っているぞ」
そう言って俺は呼び出され、そしてここにいる。
まるで刑事の張り込みだ。
そう思いながら、アンパンをひと齧りし、牛乳のパックを傾ける。
左手には空き地があり、草むらの中で誰かが置き去りにした一輪車が雨に打たれている。
誰も通らない。
ふいに師匠が口を開き、
「仮に、生まれた時から地下室で育てられた子供がいるとして、
 その子は地下室の外で自ら体験するまで、雨というものを知らないだろうか」
と、怖いことを言う。
「火よりも雨の歴史は古い。
 人間が猿だった頃から、いやそれ以前から、
 地表で生きるすべての生物に、雨の記憶が宿っているんじゃないかって思うんだ」
遺伝子の奥深くに……
そう言って、ガサガサとコンビニの袋を漁る。
もうアンパンしか残っていないのに、諦め悪くかき回している。自分がアンパンばかり買ったくせに。

雨の記憶か。
思考が再び、深く沈降していく。
動物は生得的に、自分にとって危険なものを見分ける力がある。捕食すべきものもまた。
それらに出くわした時、遺伝子に記憶された反応が起こる。
もっと原始的な生命にとっては、走光性や走水性がそれだろう。
同じように雨に対する反応も、生まれついてこの体の中に眠っているのだろうか。
気の遠くなるような過去から、連綿と受け継がれてきた記憶が。
はじめて雨を体験した時のことを思い出そうとする。

456 :雨音  ◆oJUBn2VTGE:2007/09/26(水) 20:19:05 ID:gAYKdkL30
当然、そんなことを今の俺は覚えてはいない。
すべての人に聞いてみたい。
『はじめての雨はどうでしたか』と。
きっと誰も答えられない。誰もが体験したはずなのに。なんだか愉快だ。
もう一度、自分の記憶を探ってみる。
雨の匂いはいつも懐かしい。その懐かしさはどこから来るのだろう。
とりとめもないことを考えていると、師匠の欠伸にふと現実に還る。

「来たぞ」
雨の筋に霞む道の先に人影が現れた。
師匠は曇ったフロントガラスを袖で拭く。俺は目を凝らして前方を見つめる。
赤い傘が見えた。
続いて、その傘の柄を持つ女性の姿が浮かび上がって来る。表情まではわからない。
30がらみだろうか。服の感じからそう思う。そしてなにか嫌な感じがした。
すぐにその嫌悪感の正体に気づく。
傘をさして歩く女性のすぐ後ろに、5,6歳の女の子がついて歩いている。桃色の靴。黄色い帽子。
雨さえ降っていなければ、ごく普通の母親とその子どもに見えただろう。
だが、今は異様な光景だった。
傘をさす女性。その1メートル後ろを、俯きながら歩く傘を持たない子ども。
傘の下、寄り添うように歩いていれば、なんの違和感もないはず。
たった1メートルで、まるで此岸と彼岸だ。

457 :雨音 ラスト  ◆oJUBn2VTGE:2007/09/26(水) 20:19:44 ID:gAYKdkL30
「雨のせいか、鼻が利かない」
師匠はそう言って、食い入るようにそのふたりを見つめている。
やがて車の横を通り過ぎて、ふたりは再び雨の中に煙るように消えていく。
「あれは、生きている人間だと思うか」
俺に聞いている。
わからなかった。師匠にもわからなかったらしい。
もう姿は見えない。
曇ったままのリアガラスを拭こうと、シートを倒して手を伸ばすけれど、その手は宙に惑うだけだった。
「母親も娘も生身。
 母親は生身、娘は霊。
 母親は霊、娘は生身。
 母親も娘も霊」
師匠があまり感情を交えずにそう呟いた。
どれも悲しい。
なぜかひどく悲しかった。
息が詰まり、助手席の窓ガラスを少し下げる。
ザーッというきめ細かい雨音が、車の中に入り込んで来た。
ハザードランプのカッチカッチという、時を刻む音が小さくなる。
音も、風景も、心も、何もかもが雨に降り込められている。
こういう世界になってしまったみたいだ。
はじめて体験する雨がいつかは止むなんて、その時知っていただろうか。
ふと、すべての人に聞いてみたくなった。