師匠シリーズ130話 お祓い


『お祓い』1 石

 大学2回生の夏だった。
 俺はオカルト道の師匠に連れられて、ある神社に来ていた。西のK市にある山のなかの神社だ。
 師匠の軽四でノロノロと山道を登っていると、石垣が見えてきた。路肩の広いところに車を停めて、神社の敷地に入った。
 雑草を踏みながら進み、師匠の懐中電灯が狛犬を照らし出す。苔むしたそれは、片割れがいない。向かって左側の台座から、本体が失われていた。
そのとき、頬に雨粒が落ちてきた。そう思ったのもつかのま、パラパラと雨脚が強くなる。師匠と俺は、社殿に入り込む。扉は閉まっているが、軒があったのでそこで雨宿りができた。
「傘ありましたっけ」
「車に1本だけ積んでる」
 俺は周囲を見回す。目の前には、石段と狛犬、そしてその向こうの山道がある。その周囲は、黒々とした雑木が視界を覆っている。敷地の背後は真っ暗な山だ。
 ふいに懐中電灯の明かりが消えた。完全な暗闇がやってくる。
「電池ですか」
 少し焦って訊くと、「いや」と一言返ってきた。
 パタパタパタパタ……。
 神社の軒を打つ雨音が、だんだんと大きくなる。
「少し待とう」
 師匠が静かに言う。
 ここは以前、師匠が、師匠の師匠に教わった場所なのだそうだ。もちろん、なにかいわくのある神社なのだろう。なにも聞かされていない俺は、不安と恐れ、そして一滴の期待を胸に、じっと前を見ていた。雨に包まれた夜の山の、奥行きのある暗闇を。
「なにか話でもするか」
 師匠が軽い調子で持ちかけてきた。もっとも、そちらのほうには、黒い輪郭がうっすら感じられるだけだ。
「なんの話ですか」
 その黒いものに向かって返事をする。
「そうだな。神社だから、お祓いにまつわる怪談なんてどうかな。なにか、あるか?」
「お祓いですか……」
 俺は少し考えてから、「あります」と言った。これは、師匠にはまだ話したことがなかったはずだ。子どものころから、霊感が多少あったので、その手の話は豊富なほうだった。でも師匠とのつきあいのなかで、紹介していない話は、もうほとんど残っていなかった。
 いい話が残っていた。そう思って、俺は5年前のことを慎重に思い出しながら、話しはじめた。

 俺が中学3年生のときのことだ。夏休みに、当時親しかった友人たちと、山でキャンプをすることになった。男ばかりの5人で。
 電車を降りたあと、数キロ歩いてたどり着いたのは、オンシーズンだというのに、俺たちのほかに数組しかいない寂れたキャンプサイトだった。昼のうちにテントを張り、近くの川で遊んだあと、夕方には、あらかじめ買っておいた食材でカレーを作った。ボーイスカウトをやっていたというやつが、自信ありげにひきうけた飯盒での飯炊きがみごとに失敗して、カレーというより、カレー味のリゾットみたいになりはしたものの、それなりに仲間での夕食を楽しんだ。
 夜も更けてきたところで、俺たちは示しあわせて、キャンプサイトを抜け出した。あらかじめ調べていた肝試しスポットに行くためだ。
 そこは、近くの山のなかにあるお堂で、かつてその山中で行き倒れた旅人の霊が、いまだにそこでさまよっているのだ、という話だった。昼間のうちに一度、みんなで下見をしてきたのだが、人の背丈ほどもない、古くて朽ちかけたお堂だった。
世話をしている人も、ほとんどいないのだろう。花を供える筒のようなものがそばにあったが、水が涸れていて、花らしきものもなかった。
俺たちはそのお堂の前に、川で拾った拳ほどの石を5つ、並べておいた。学校の先輩から聞いた話では、このお堂にとりついている霊が、石に乗り移ることで、それを持っていく人間についてくるのだという。
昼間にきた山道も、夜になると雰囲気がかなり違う。それぞれ手に持った懐中電灯で、足元を照らしながら目的の場所にやってきた。
お堂のある場所から、5分ほど下った場所にある稲荷神社だ。ここも、控えめな鳥居と拝殿があるだけの、物寂しい小さな神社だった。
俺たちは不安そうな顔を見合わせて、だれかが口を開くのを待った。キャンプといえば、肝試しだろう! という軽い気持ちではじめたものの、先輩たちからあそこはマジで出るぞ、と聞かされた言葉が、今さらながらよみがえってきたのだった。
「よっしゃ、チャッチャとやろうぜ」
 宮元という、そもそもの言いだしっぺが、パンパン、と手を叩いてようやく口火を切った。
 その宮元が、懐中電灯を持って鳥居から外に出ると、左手側に伸びている山道を登りはじめた。その先に、昼間に石を置いたお堂があるのだ。
残った4人はその背中を見送った。石を持ってくるのは1人ずつだ。俺は時計を見ていた。5分、10分。宮元はまだ帰ってこない。夜の山道を歩くのは、どうしても時間がかかるのだろう。俺たちは無言で待っていた。
結局15分ほどして、ようやく懐中電灯の明かりが近づいてきた。声が聞こえる。
「寒いか。もうちょっとだからなぁ。大丈夫だからな。食い物もあるからよぉ」
 宮元の声だ。まるでなにかに話しかけているようだが、ひとり分の影しかない。これもルールなのだ。お堂の霊を石に入らせ、神社まで持ってくるときには、ずっと話しかけ続けなければならない。そうしないと、途中で石から抜け出てしまうというのだ。
なんでもいいから、とにかく霊をだまして連れてきてしまう。それがこの肝試しだった。
宮元が、慎重に歩きながら鳥居をくぐる。体が完全に敷地に入ったとたん、「うわぁ」と言って、石を地面に放りだした。
「気持ち悪かったー。気持ち悪かったー」としきりに繰り返しながら、俺の肩を揺する。
「おいおい」と俺がその手を叩くと、宮元は、ほっとしたせいか、やけに高いテンションで言った。
「なんか入ったわ。本当に。石のなかに。あれヤバイわ。ヤバイ」
 俺たちはそれを聞いて、地面に転がった石を、気持ち悪そうに見る。
 一応あらかじめ聞いていた話では、鳥居をくぐると成功で、石からは霊が離れる。そのとき本人はもう神社の敷地のなかなので安全。そしてとりつくもののない霊は、ふたたびお堂に戻る。そういう筋書きだった。
 俺たちは顔を見合わせた。
「次だれ行く?」
 その言葉に、俺は真っ先に手を挙げた。みんな嫌がってジャンケンになりそうだったからだ。俺はしかし、これは先に行くべきだと思った。
「じゃあ、残りも決めとくか」と言いながら、ほかの連中も気づいたようだった。こわばった顔で俺をじろりと見ている。
「じゃあ、行ってくる」
 俺は懐中電灯を持って、鳥居から外に出た。すぐに山道に出て、左に曲がる。昼間通ったときとは雰囲気がまったく違う。
 ガサガサと、道のはたの雑草の山が揺れるたびにそちらに懐中電灯を向けてしまう。風なのか、小動物かなにかなのか。
道はわずかに上り坂になっている。ドキドキしながら歩いていると、懐中電灯の光の先に、俺の背丈よりも低い、小さなお堂の姿が現れた。
お堂には石の台座があり、前に出っ張った部分に、拳大の石が4つ並んでいる。
 俺は小さく息を吐いてから、あらかじめ聞いていた言葉を唱える。
「ついてきてください。ついてきてください」
 これだけだ。気の利いた言い回しではない分、なにか逃れようのない感じがして、薄気味が悪かった。
 背筋がゾクゾクとする。そっと右端の石を持ち上げた。
「この石に乗って、ついてきてください」
 その言葉を2回繰り返すと、ふいに石が重くなったような気がした。早くいかなきゃ。そう思って、俺はすぐに元きた道を振り返った。
 なぜか寒気がする。いま石のなかにいるなにかに、離れられては困る。そう感じた。さっき第一陣の宮元が、呼んできておいて、鳥居をくぐったとたんに突き放した。だましたのだ。その恨みがさらに石を重くしているような気がする。
「寒かったでしょう。寂しかったでしょう。どうぞついてきてください」
 俺は声に出して語りかけた。もし、石のなかから出てしまったら……。そう思うと無性に怖くなった。
 こんな肝試しに真剣になって……。そんな、恥ずかしいという思いはまったくなかった。とにかく必死だったのだ。
 集中しているせいか、視界が狭い。懐中電灯の照らす、細い砂利道だけが目の前にあった。その外は、なにもない空間だった。
「もうすぐですから。もうすぐあたたかい場所に行けますから」
 そう言いながら、俺は暗闇のなかにぽっかりと現れた古い鳥居をくぐった。
 オオー、という声が周囲にあがる。俺は手のなかの石を落とした。周りには友人たちの顔があった。
 着いた。
ほっと息を吐いて、俺はカラになった手のひらをこすり合わせる。いた。さっきまで、たしかに石のなかになにかいた。それが、まだ手にこびりついているような気がして、俺は懸命に手をこすった。
 俺の次は、沼河という男だった。沼河もおっかなびっくり出発すると、やはり15分ほどして戻ってきた。
「ひもじいですか。大丈夫ですか。もう着きますから」
 沼河も必死で手のなかの石に話しかけている。そして、鳥居をくぐると、うわぁ、と叫んで石を落っことした。
「重かった、重かった」
「な? な?」
 すぐに宮元が肩を叩く。
 鳥居をくぐれなかった霊が、もやもやしたものになって宙に浮かんでいるような気がして、俺はそちらを見られなかった。
 その次は、井沢というお調子者だ。いつになく神妙な顔で神社から出て行くと、10分もかからず戻ってきた。今までで一番早い。
「たいへんでしたねぇ。もうすぐみんないるところに着きますから。まだいてくださいよ。寒いですか」
 そんなことを言いながら、小走りに駆けてきた。そして最後はほとんどダッシュするようにして、鳥居をくぐった。
 井沢はすぐに石を鳥居の外に投げ捨ててから、ヤベーヤベーと繰り返した。
「これはいたわ。ぜったい。もう手のなかで、こうモヤモヤと……」
 大げさな手振りで、残る1人を脅かす。
 最後になった大月が、嫌そうな顔で震えている。すでに終わったやつらは気楽なものだ。俺も一緒になって、大月を脅かした。最後のやつは、一番やばいんじゃないか、と言って。
 そうしていると、しまいには大月が、「行かない」などと開き直りかけたので、なだめすかして、とにかく送り出した。
 暗い神社の敷地で待つこと20分。あんまり遅いので、ちょっと心配になって、様子を見に行こうかと相談していると、ようやく懐中電灯の明かりがチラチラと見えてきた。
 声が聞こえてくる。
「ゆるしてください。ゆるしてください」
 何度もそれを繰り返している。様子がおかしかった。石は持っているようだ。けれど、握りこんだ右手を、体からできるだけ離そうとして、つっぱっている。
 神社に近づくと、大月は小走りになり、「ひゃああ」と言って、鳥居に駆け込んできた。そして鳥居をくぐったとたん、石を山道の草むらのほうへ投げた。
 あっ、と思ったが、止める間もなかった。
「おいおい、なにしてんだよ」
 言いだしっぺの宮元が問い詰めようとしたが、大月はガタガタ震えていて、それどころではなかった。
「なにかあったのか」
 と、俺が訊ねると、「なにもない」と言って首を振る。
 そのとき、空から、ぼおーん、という不気味な音が聞こえてきた。巨大な風船が膨張して、それを叩いたような、鈍い音。
 ここも安全じゃない。そう直感するような音だった。最初に走り出したのはだれだったか。とにかく、それにつられて全員で逃げだした。夜の山道をキャンプ場まで走り続けて、そのあいだ、暗闇がまとわりついてくるような感覚に襲われた。
 テントのところまでたどりついたときには、何度か転んで服が泥まみれになっていて、ひどい有様だった。
 その夜はテントのなかで全員でくっついて、風の音にもおびえながら朝まで過ごした。

 ◆

「で、そのあとで、先輩に聞いたんですよ。前にそこで肝試しをしてから、おかしくなったやつがいて、お祓いしたんだって」
 闇のなかで、師匠らしき気配にそう語りかける。気配は、うっそりと頷いて、「ふうん」と言った。
「それで俺たちもしたほうがいいんじゃないか、って話になって、たしか宮元の親父のつてで、わりと大きな神社の神主さんにお祓いしてもらったんですよ」
「全員で?」
「全員です。でも……」
「でも?」
 俺はごくりと唾をのんでから続けた。
「そのすぐあとで、ひとり、足の骨を折る大怪我をしたんですよ」
「へえ」
「ああ、やっぱり呪われたんだって思って、本当に怖かったです。よくもあんなところ教えてくれたな、って先輩を恨みました」
 ザアザアと、雨音が激しくなっていく。師匠がぼそりとなにか言った。
「え? なんですか」
 体を寄せると、師匠らしい気配がこっちを向いた。
「だれが怪我したか、当ててやろうか」
「は?」
 今の話で、師匠にはわかるのだろうか。俺は挑発的な態度で、「当ててみてください」と言った。
 師匠は、ふん、と気分を害したような鼻息を出してから、「なんって言ったっけ、あいつだよ、あいつ」
 たぶん外れる。
俺はそう思っていた。しかし……。
「井沢、だったっけか、名前」
「最後の、大月じゃなくて?」
 俺は驚きながら一応確認したが、師匠は、「最後から2番目のやつだよ」と、雨音のなかを縫うように言った。
 俺はぞわっ、とした。当たっていたからだ。しかし、なぜ? 困惑すると同時に、なにかえたいの知れない不気味な感覚に襲われた。
「山のなかで行き倒れた旅人の霊が、お堂のあたりでさまよっているって話だったよね」
「はい」
「霊の情報はそれだけだろ」
「ええ」
「それを石にとりつかせて神社に連れてくるあいだ、話しかけてる内容は、みんな同じようなものだったろ」
「まあそうですね」
「寒い、寂しい、ひもじい。霊に語りかけた、その3つのキーワードのなかで、おかしいものがひとつある」
「えっ」
 なんだろう。わからなかった。
「行き倒れたというイメージから、寂しい、ひもじいはわかる。でも、寒いは、どこからきたんだ」
 ハッとした。そういえば、そうだ。
「夏のキャンプ場なんだ。そんな寒いイメージがなぜ浮かんだのか。お前たちは、石に向かって話していたけど、まるで示し合わせたかのように、ひとつの特定の人格に対して話しかけている。それはなぜなのか」
 手のなかで、石が重くなったあの感覚が、蘇ったような気がした。俺は思わず、なにかを振りほどこうとするように、手のひらを振った。
「でも、様子がおかしかったのは、最後の大月ってやつですよ」
「そうだな。もともと臆病なんだろう。ビビらせすぎだ」
「……どうして、井沢なんですか」
「大月は、ひたすら、許してください、って言ってたんだろ」
「はい」
「大月には、3つのキーワードは浮かんでない。つまり、いなかったんだよ。握った、石のなかに」
 師匠の言葉に、ゾクリとする。
「宿っていないんだ。大月の持っていた石のなかには。ひとつ前の、井沢のときに、失敗しているんだよ。鳥居をくぐっても、還ってないんだ。だから、井沢にずっとついてしまっていた。だいたい、神社がすぐ近くにあるのに、そんな逸話のある霊が、奉られてないってことからして、想像できるだろ。本来、神社の力があまり及ばない霊なんだよ。そのお堂にいたのは。お祓いをしても、効かなかったことからも明らかだ」
 俺の持ち出した怪談話だったのに、師匠は怖がるどころか、俺を怖がらせることに成功していた。
 今なら、見られるだろうか。井沢についてきていた、その霊の姿を。思わず、周囲を見回した。跳ねた雨粒が、顔をかすめる。その向こうに、細かな音と、闇が、のっぺりと横たわっていた。
「さて、次は僕の番だな。せっかくだから、お祓いにちなんだ話をしよう」
 師匠はしばらく沈黙したあと、ふう、と息を吐いて、話しはじめた。

『お祓い』2 防火水槽

 師匠から聞いた話だ。

 大学1回生の秋だった。
 僕の師匠は、大学院に在籍しながら、興信所の調査員という変わったバイトをこなしつつ、オカルト道をまい進するかたわら、地元の消防団に入っていた。実に忙しいことだ。
 さいごの消防団は、イメージにあるファイアマン、つまり消防署員と違って、機能別団員とやらだそうで、いわばイザ鎌倉という際だけの協力員のようなものだ。
 そんな彼女は、家でごろごろしていても、ひとたび召集のサイレンが鳴ると、家から飛び出していき、近くにあった消防屯所に飛び込んでいったものだった。
 師匠が、なぜそんなに地域防災に積極的に貢献していたのかはわからない。普段の訓練や、操法と呼ばれるポンプ車を扱う競技の練習などはサボっているのに、さあ本番、というときには、異常にイキイキと参加していた。
 単に火が好きだったのかも知れない。
 昼間の火災で、消防団員の集まりが悪かったときに、僕も無理やりつれていかれたことがあった。僕は所属してないし、保険も入ってないし、たぶんまずいんだけど、女ジャイアンなのでしかたない。
 そんなこともあり、消防団の活動については、いろいろ学ばされたのである。
 火災が起きた際に、消防活動でもっとも重要なのが水利である。いくらポンプ車が現場に集結しても、水がなければ消火のしようがない。住宅地では、たいてい消火栓が一定間隔で設置されていて、地下の水道管から水を引っ張ることができる。
余談だが、この消火栓から水を取ると、地域の水道に濁りが生じてしまうので、地域住民から怒られることがあるそうだ。燃えているのが自分の家でなければ、蛇口からの生活水のほうが大事だとでもいうのだろうか。
 消火栓よりも、近くに川やため池などがあればそれを使う。吸水用のポンプを運んで行って、近くに置き、それが吸い上げる水を、ホースで火元まで運んでいく。火元まで距離がある場合は、途中で複数のポンプを仲介し、圧力をかけながら、水を遠くまで運ぶのだ。
 土地柄で、近くに川がなく、消火栓もないような場所には、防火水槽というものが設置される。水利として使えるものがないので、しかたなく消火用の水をあらかじめ溜めておく施設だ。山間の集落などに多いようだ。
 住宅火災が鎮火できる程度の水は必要なので、たいてい40トンだか60トンだかの容量の大きな水槽が、地下に設置されているそうだ。
 僕も山のなかで、『防火水そう』と書かれた赤い標識を見たことがあった。

 さて、その地域の火災発生時の水利を担う防火水槽であるが、ある日、僕はそれにまつわる不思議な話を聞いた。
「地鎮祭?」
「ああ、そうだ」
 師匠が言うには、とある消防団の班の担当区域にある防火水槽で、水が無くなるという事態が起きているのだそうだ。
「そこの防火水槽は地中に埋め込んであるタイプじゃなくて、地上にコンクリで作ってあるんだ。四角くてでかい石の箱みたいなもんだな。結構古いものらしい。それが最近、点検で蓋を開けたら、水がカラになってたんだと。どっかひび割れて、水が漏れてたんじゃないかと思って調べたけど、そんなに大きなひび割れは見つからなかったそうだ。で、また水を満タンまで溜めて、1週間後に様子を見に行ったら、またカラに近くなってたんだってさ」
「どっかから漏れてるんですね」
「古いものだからな。そりゃあ、小さなひび割れくらいあるだろうさ。でもそんなにあっという間に水が抜けるようなはずはないんだって。でも、現に水がカラになってるんじゃあ、いざ火事が起きたときに防火水槽の意味がない。で、地区の区長が、市の防災担当に直談判して、直すか、建て替えるかしてくれって、要望したんだ。でも、市は今年は予算がないからって渋ってたらしいんだけど、とにかく応急処置をしようってことになって、古田テントっていう業者に頼んだそうだ」
「土建会社じゃなくてですか」
「そこに頼む予算がないんだよ。なんでも、その古田テントってところは、テント生地を使って、そういう水槽の補修というか、補強をするのが得意なんだってさ。防火水槽だと、内側の全面に丈夫なテント生地を張って水を入れれば、水漏れの防止ができるってことだ。これなら本格的な補修工事と違って安く済むし、これまでも実績があるっていうから、さっそくやってもらったんだ」
「どうなったんですか」
「今度は少しもったけど、また1週間で半分水が抜けてたそうだ」
「底に穴があったら、そこに水圧がかかってテント生地でも破れるんですかね」
「わからんが、こりゃあ、なにか祟りでもあるんじゃないのか、って話になったらしい。なんでも、数十年前に防火水槽を建てるときに、祠だか地蔵だかがあったのをどけて、建てたらしいんだな。それをいまごろ地元の年寄り連中が持ち出して、騒いでるらしい」
「それで地鎮祭ですか」
「そう。結局、市が予備費で建設会社に修繕を頼んだらしい。内側のひびを埋めるだけの工事だけど、それプラス、テント生地の張り直しをするんだってさ。合わせ技だな。で、その工事の前に地鎮祭をするって話。面白そうだから、見に行こうかと思ってるんだ」
 そんな話を聞かされた翌週、僕は師匠に連れられて、市内でも一番北に位置する高輪地区に行くことになった。
 近くの小学校の跡地に軽四を停め、そこから歩いて現地に向かう。山間の地区なので、周囲に緑が豊かなのと、あと道が狭い。
 小さな公民館があり、そこにかなりの人がたむろしていた。そこから先に進むと、すぐに『防火水そう』という赤い標識が、道端に見えてくる。
 道から向かって右手側の狭い場所に住宅が固まっていて、そのなかに雑草が生えた雑種地がぽっかりとあった。そこに問題の防火水槽が鎮座している。左側は山の斜面になっている。
 なるほど、実際に見ると、やはりかなり大きい石の箱という印象だった。高さは3メートル近くあるだろうか。外側に簡易の鉄製の階段がつけられていて、そこから登ることができるようだ。
 防火水槽の周りには、関係者が集まっていた。神主さんがいて、祭壇をこしらえている。祭壇の周囲は、注連縄で囲まれていた。
 年配の男性が数人と、消防団の活動服を着た人が数人、神妙な面持ちで近くに立っている。建設会社のロゴが入った作業着を着た人と、古田テントというオレンジ色のロゴの作業着の人もいた。
 その周りを、離れた場所でたくさんの人が見守っていた。地元の人がほとんどのようだが、消防団の活動服の人間も多かった。
 知り合いを見つけたらしく、師匠は消防団員のところへ言って、しばらく話をしていた。
 準備が整って、地鎮祭がはじまるというころに、師匠が戻ってくる。
「あそこに黒いホースがあるだろ」
 指をさす先を見ると、黒いホースが左の山側から延びてきていて、それが防火水槽の上部に差し込まれている。そこに穴があるのだろう。
「この上のほうに谷があって、そこから山の水が自動的に流れ込むようになってるらしい。だから、使ったり、蒸発したりして水が減っても、自動補給されるんだな」
「その水が止まってたってことですか」
「いや、たまに取水側のほうで枯葉とかが詰まって水が止まることもあるらしいけど、定期的に取り除いてるから、問題ないらしい。今も水は流れ込んでるってよ。雨次第で多い少ないはもちろんあるだろうけど。問題は、やっぱりその溜まる先の水槽なんだよ」
 神主さんの挨拶がはじまると、ざわざわしていた声が自然とやんだ。やがて朗々とした、祓詞(はらえことば)がはじまる。
「このひもろぎに、しましがほどをぎまつりませまつる、
かけまくもかしこき、おおことぬしのおおかみはたこの、たかわのちくをうしはきませる、かけまくもかしこき、おおはたじんじゃにいわいまつる、おおかみたちのみまえに、かしこみかしこみもうさく……」
 地鎮祭が進んでいくなか、僕の隣で、師匠がもぞもぞしていた。しきりに上着をパタパタとして胸元に風を通している。
「やけに喉が渇くな」
 秋口とはいえ、今日はたしかに蒸し暑い。そう言われると、僕も喉が渇いている気がしてきて、だんだんとたまらなくなってきた。
 みんなが見守るなかで地鎮祭はとどこおりなく進み、無事に終了した。すぐに直会(なおらい)がはじまり、祭壇に供えられていたお神酒を、みんなで紙コップについで、回し飲みしだした。
 やがて近くの公民館から、割烹着姿の女性たちが次々とやってきて、麦茶や作り立てのお餅を、参列者に振る舞いはじめた。
 かなり量があったので、関係者ではない僕らも、なに食わぬ顔でいただいた。なかでも麦茶はあっという間に売り切れてしまい、すぐに追加が頼まれていた。
 僕らはそんな周囲の様子を伺っていたが、古田テントのロゴの服を着た若者が所在なさそうに遠くに立っていて、師匠がひょい、とそっちへ向かった。
 古田テントの社長らしい年配の人は、地鎮祭にも参列していて、今も如才なく関係者に挨拶して回っている。しかし、従業員らしい彼は、こういう場が苦手なのか、早く帰りたそうな顔をしていた。
「あ、こんにちは。私、消防団員なんですけどお」
 師匠はそう言って話しかけた。まあ、ウソは言っていない。
「あ、今回は、すみません」
 若者は、ぼそりと言って頭を下げた。
「ああ~、いやいや、大変でしたね。でもしっかりテント生地は張ってたんでしょ。しかたないですよ。破れたんなら、やっぱりヒビが大きかったんですね」
 師匠の言葉に、若者はぶすっとして、「いや、でも」というようなことを、小さく口のなかで転がしている。
「どうかしたんですか」
「……破れてないんすよ」
「え?」
 ニキビの浮いた顔を上げて、若者はふてくされたような口調で言った。
「オレ、生地を回収したあと、ちゃんと点検したんですよ。でも、やっぱりどこも破れてないんです。だから、俺たちの責任じゃないんすよ。でも社長が……黙って謝ってろって言うから……」
 最後は消えるような声だった。まずいと思ったのか、若者は「オレ、車に戻ってます」と言って足早に去っていった。
 その背中を見届けたあと、師匠は、「あはぁん」と言って面白そうな表情を浮かべた。

 その3日後の夜だ。
 僕と師匠は、また高輪地区に来ていた。もちろん、防火水槽目当てだ。月明かりが薄い雲にかかり、チラチラと周囲の明るさが変わるなかを、僕らは足音を忍ばせて歩く。
 この事件が、祟りだなんて言われたら、師匠のやる気がでてしまう。こうなることは想像できていたので、付き合わされる僕も淡々としたものだ。
 深夜2時。コンビニなどもない山間の土地柄なので、あたりは暗く、とても静かだった。
 寝静まった住宅が散在する狭い道を進むと。3日前に地鎮祭が行われた場所にたどりついた。
「……ほら、あれが区長の家なんだ」
 声をひそめて、師匠が指をさす。防火水槽のある雑種地から、細い道を隔てて2階建ての比較的大きな家のシルエットが見える。なるほど、目と鼻の先だ。
「で、この防火水槽の土地も、代々区長の家が持ってて、市は借地料を払っているらしい」
 師匠は、地元の消防団員からさらにいろいろと情報を仕入れたようだ。
 その敷地のはずれに、道との間に設けられた側溝があった。
「見ろ、涸れてるだろ」
「そうですね」
 溝には水がなかった。
「この溝には、普段山からの湧き水が流れ込んでるらしいんだけど、1ヶ月くらい前に、急に涸れたんだってさ」
「防火水槽から水がなくなった時期ですね」
「これが問題でな。もし、防火水槽のひび割れから水が漏れ出していたら、土地の地下に浸透することになる。かなりの量の水だ。区長たちは、その水が土を流して、地下で地盤沈下を起こしてるんじゃないかって、心配しているんだ」
「なるほど」
「地下の見えない場所で土壌に隙間ができて、そのせいで湧き水の流れごと、もっと地下に落ち込んでしまったんじゃないかってことだ」
 懐中電灯は持ってきていたけれど、つけると目立ってしまうので、僕らは月明かりだけを頼りに、防火水槽にたどりついた。
「ちょっと、待ってください。じゃあ、ここって、いつ陥没してもおかしくないんじゃないですか」
 言っていて、自分で怖くなった。目の前の巨大な黒い塊が、突然ズンッと地面に沈み、僕らもその沈下に巻き込まれるような想像をしてしまったのだ。まるで地獄の蓋が開いたかのようなイメージが浮かんで、身震いする。
「まあ、無事に工事も終わったらしいから、昨日の今日で、私たち2人分の体重がかかったくらい、問題ないだろ」
 師匠はそう言いながら、防火水槽の外についた鉄製の楔のような階段に、手を伸ばした。
「よっ」
 そして、するすると登っていく。仕方なく、僕もおっかなびっくり、それに続いた。階段は、地鎮祭で見たときには、錆だらけだったが、工事の際に直したのか、きれいに磨かれていた。
 防火水槽の上に立つと、視界が広くなる。山間の狭い土地のなかに、周辺の住宅が体を縮めて納まっているのが、かすかな月明かりに浮かび上がる。
「谷の水のホースはつながってるな」
 防火水槽の山側の端から下を覗き込むと、黒いホースが少したわみながら、水槽の上部から数十センチのところでなかに入り込んでいる。
 師匠は手を伸ばしてホースを触った。
「お、冷たい。流れてる流れてる」
 そして、僕らの立っている天井の、ちょうど中央のあたりに鉄製の蓋があった。マンホールのようなものだ。
「さて、謎の防火用水消失事件は、解決しているのでしょうか。それとも?」
 師匠がしゃがんで、その蓋に触ろうとした瞬間だった。
 急に、背筋がぞわりとした。
 師匠がその姿勢のまま、顔を上げて、僕と目があった。
「おい、これは」
「はい」
 僕は、喉を押さえた。だれかに喉を締められたような気がしたからだ。しかし、それは喉の奥の水分が失われて、舌の根っこが、喉の壁に貼りついたようになっていたからだった。
 異常な渇き。
 それがだんだんと増してくる。
「手伝え」
 師匠がしゃがれた声で短く言う。僕も近寄って、マンホールのような蓋の取っ手をつかんだ。
「せぇの」
 ガロン、という音がして蓋が外れた。そのまま水平に移動させて、足元に置いた。
 僕は息を止めて、開いた蓋から、なかを覗き込む。緊張して、唾を飲み込みたかったが、喉はカラカラで、一滴もでなかった。
 水は、あった。
 水面にあぶくが見えた。ゴボリ、ゴボリと大きな気泡が、水の底から浮かび上がってきている。
 月にかかる薄い雲が晴れて、淡い光が、僕らと水を照らし出している。
 丸い蓋の下にたゆたう水は真っ暗で、底はうかがい知れない。しかし、その黒い水の底から、なにかが細い手をこちらにむけて、もがいているような気がした。
 喉が渇く。
 水面の下に、落ち窪んだ黒い目が見えた。やせ細った手が、水を搔く。僕は恐ろしくてたまらなくなる。でも、目をそらせないでいる。あれはなんだ。手は、無数にある。気泡は、湧いて出てくる。水面が、低くなっていく気がする。不気味な顔がたくさん揺らめいている。
 そして、渇きが……。

 ガラン。
 その音に、僕は我に返った。
 見ると、師匠が倒れこむようにして、鉄製の蓋を1人で閉じていた。
「いくぞ」
 すぐさま立ち上がった師匠は、突っ立っていた僕の頬を軽く叩いた。そのまま2人で、階段にかきついて、防火水槽から降りた。
 そのまま立ち去るかと思ったら、師匠は降りたばかりの防火水槽の外壁に体をぴったりと寄せて、耳をつけた。
「ちょっと、なにしてるんですか」
 僕はかすれた声で言った。しゃべると、舌の奥が喉に張り付いて、えづきそうになった。
 師匠は壁に耳をつけて、微笑を浮かべている。
「防火水槽を建てる前に、ここには祠があったそうだ。大昔、日照りが続いて、ここいらの村の人間が死に絶えるほどの干害があったんだと。山の水も涸れ果てるようなその死骸を埋めた場所がここだそうだ。その上に、供養するための祠を建てていたんだ。でも、その祠が死者の、死してなお渇く怨念を慰めていたわけじゃない」
「やめてください……」
 僕はそう言いながらも、近づけなかった。
 師匠は壁の向こうにある水のなかの、恐ろしいなにかの声を聞いているようだ。
「地下水だよ。この土地の地下を流れる水脈が、死者の渇きを潤していていたんだ。その水が涸れた。地盤沈下なんて話が出たのは、ほかにも予兆があったのかも知れない。実際のところ、地下ではそういうことが起きているんだろう。だから、地下水の流れが変わって、水が涸れたんだ。逆だったんだよ」
「逆? 逆って、なんですか」
「防火水槽から水が漏れて、地盤沈下を起こして湧き水が涸れたんじゃない。地盤沈下が起きて、湧き水が涸れて、死者の渇きが、防火水槽から水を失わせたんだ」
 そんな、非科学的なこと……。
 などという思いは浮かばなかった。僕もまた見てしまったからだ。あの真っ黒い水のなかで、飲んでも飲んでも渇きがやまない、地獄の光景を。
「祠のかわりの地鎮祭じゃあ無理だ。水だ。水。水じゃきゃあ……」
 師匠は、目を輝かせている。
「いったい、どうしたらいいんですか」
 僕のといかけに、師匠はきょとんとして、ようやく防火水槽から離れた。
「それは私たちよそ者の知ったことじゃないよ。喉が渇いたから、そろそろ帰るか」
 謎にたどりついた師匠は、それだけで満足したのか、あっけらかんとそう言って、僕の肩を叩いた。

 その年の冬、高輪地区の防火水槽のある雑種地の片隅に、小さな地蔵が置かれた。そのそばには山の上の谷からの水が、水槽の分と枝分かれして引かれ、側溝へ流れ込むようになっていた。ちょうど、地蔵の頭に流れかかるようにして……。

「結局、良い人エピソードじゃないですか」
 師匠の話を聞き終えた俺は、そう言った。
 夜の雨は続いていて、俺たちは神社の軒下から出られないままだ。
「いや、それが違うんだよ。結局、ひびの補修工事プラス、テント生地を張っても、防火水槽の水の消失はおさまらなかった。だから地元では、ますます祟りだ祟りだ、って話になったみたいでね。そこで僕の師匠は、仁科の婆さんのつてを使って、小川調査事務所に、地区のほうから依頼させたんだよ」
「うわ、そうきたか」
「で、お金もらって、対処したってわけ」
「ずるいなー」
 師匠は苦笑したあとで、ふっ、と息を吐いた。
「ま、そういう人だったから」
 それからしばし、沈黙して、俺たちは雨のしじまを眺めていた。湿った古い木造建築の、独特の匂いがあたりをつつんでいる。
「もうひとつ話そうか」
 師匠がぽつりと言った。
「これも、お祓いの話だ」
「ここまでは、お祓いが効かなかった、っていう話ばかりですけど」
 俺がそう言うと、師匠は笑った。
「そうだな。じゃあ、次の話は、お祓いが効いた話、ということにしようか」
 そうして、話しはじめた。

『お祓い』3 魔よけ

 師匠から聞いた話だ。

 大学2回生の春だった。
 そのころ僕は、小川調査事務所という興信所でバイトをしていた。普通の興信所の仕事ではない。その業界で、『オバケ』と呼ばれる不可解な依頼を専門に受けている師匠の、お手伝いのようなものだ。
 師匠もバイトの身だったが、そこそこいいバイト代をもらっているようだった。うらやましいが、当時の僕にとっては、バイト代の多い少ないよりも、師匠と一緒にそんな仕事に関わることができることが、なによりも楽しくて、価値のあることだった。だいいち、僕はあまり役に立っていたような覚えがなかった。
 その日、師匠への依頼人が来るというので、僕も呼び出されて、事務所のなかで待っていた。僕はもうそのころには、大学の授業そっちのけだった。4年間で卒業できないことは、なかば覚悟していた。
 今日は同じバイト仲間の服部さんがいなかったので、事務所のなかは、所長と師匠と僕の3人だった。その所長は、自分のデスクで腕を組んだまま上を向いて、居眠りをしている。
 師匠は、その所長の、上を向いて開いている口に、ピーナツをホールインワンさせようと、しきりに照準を合わせていた。真剣な表情だった。
「師匠」
「まて、もう少しなんだ」
「来ましたよ」
 事務所ビルの階段を上ってくる足音が止まり、ドアがガチャリと開いた。
「あいかわらず、辛気臭い事務所だねえ」
 開口一番、そう言ったのは、黄色い縁取りの大きなサングラスをした、年配の女性だった。
「あれ、仁科さんも来たんですか」
 師匠がそう言うと、盛り上がった紫色の髪の毛をゆっさゆっさと揺らしながら、その恰幅のいいおばさんが入ってくる。
 仁科さんは、この小川調査事務所に様々な『オバケ』事案を持ち込んでくる、世話好きの女性だった。地元の素封家で、交友関係が異常に広い。元々、占いや心霊現象などのオカルティックなことが好きらしく、師匠のことを気に入っているようだ。今ではなんだかんだで、彼女からの紹介が、この零細興信所への『オバケ案件』依頼の多くを占めている。小川調査事務所にとっては足を向けて寝られない、大恩人である。
「この子が恥ずかしがっちゃって、ついてきたのさ。ほら、挨拶しな」
 仁科さんのうしろから、おずおずと出てきたのは、若い女性だった。春物のニットカーディガンを着ている。
「あ、黒鳥八重(くろとりやえ)です」
 古風な名前だったが、本人は髪を明るい色に染めるなどして、今どきの若者、という印象だった。
「あんた、もう高校生だっけ」
 仁科さんに訊かれて、彼女は「2年生です」と小さな声で答えた。
「いやね。この子のおばあちゃんが、あたしの古い馴染みでね。祈祷師みたいなことをしてたのさ。昔、何度か世話になったことがあるのよ。あんた、ちっちゃいころ、あたしがお年玉あげたの覚えてる?」
 黒鳥八重は首を横に振った。
「そのおばあちゃんが先日亡くなってね。そのせいで、ちょっとした困りごとがあるみたいなんだ。まあ、とにかく、話を聞いてやっとくれ。あたしゃ、忙しいから、もう行くからね」
 仁科さんは、少女を置いて、せかせかと出て行こうとした。
「あ、ちょっと、仁科さん。依頼料金のこととかあるんで、高校生はちょっと」
 居眠りから起きたらしい小川所長が、モゴモゴと言う。
「ああ、そうそう。請求書はあたしに回しな。あたしゃ、お得意様だからね。変に上乗せするのはナシだよ」
 忙しい、忙しい、と言いながら、仁科さんはあっという間に去っていった。
 あいかわらずだ。残された僕らは顔を見合わせたあと、とにかく、少女の話を聞くことにした。
「私のおばあちゃんの家は、昔から霊能力があるとかで、その、霊媒師? みたいなことをしてたらしいんです」
「おばあちゃんの家って、おばあちゃんのお母さんも霊媒師ってこと?」
「たぶん」
 来客用のソファで僕らは向かい合っている。
「ふうん。そのおばあちゃんは、なにか動物みたいなものを使役……、使ってたりした?」
「わかりません」
 師匠は腕組みをして、唸った。
「憑き物筋だと、だいたい女系で受け継ぐからな。その可能性はあるな。元々の出身はどこ?」
「総座市です」
 総座市というと、僕らのいる県都のO市から見て西にある、歴史ある地域だ。
「ふうん。そのあたりにも憑き物筋の分布はあるっちゃあるけど、それだけじゃあな。まあとにかく、その困りごとってどんなこと?」
 少女は、なにか迷っているような顔をしたあと、「あの、ここは、オバケとか、出ないですよね」と訊ねた。
「オバケ? 幽霊が出るかって? どうなんですか、師匠」
「まあ、大丈夫ですよ。昼間だし」
 師匠はまじめくさって答える。
すると彼女は、「ちょっと、待ってください」と言って、いきなり靴を脱ぎはじめた。コンバースの、ピンク色のスニーカーだった。
「これ、なんですけど」
 少女は、左右の靴を手に持って、僕と師匠の前に突き出した。小川所長も、自分のデスクでこちらの会話に聞き耳を立てつつ、書類を読んでいたが、そのときは、顔を上げた。
 靴の内側の底に、なにか見慣れない模様があった。左も右も、同じように。
「んん?」
 顔を近づけようとすると、横から師匠に、「おい、女の子だぞ」と制止された。
 そして師匠は、「ちょっと、いい?」と言って、右足用の靴を受け取り、しげしげと眺めた。
「なにか書いてあるな」
 僕も、そのうしろから覗き込む。黒い文字のようなものが書いてあるようだが、かすれていてよくわからない。
「ちょっと、待った。これはだれが書いたの?」
 師匠は、幾分緊張したような声で訊ねた。
「おばあちゃんです。おばあちゃんの血筋の女の人は、小さいときから、霊感が強いというか、お化けがすごく寄ってくるんだって、言ってました」
「霊媒体質ってことですか」
 僕が訊ねると、彼女は頷く。
「あなたも、そうだったの?」
 師匠が慎重な声で言った。
「はい。子どものころから、よく見ました。その、幽霊とか、そういうのを……」
 震えるその声は、語尾が消え入りそうだった。
「それで……、いつも、おばあちゃんが魔よけだって、これを靴に書いてくれたんです」
「魔よけ……」
 師匠はなにか難しそうな顔で、そうつぶやいた。
「昔から、夜に外を歩いていると、急に青白い顔だけが、いくつも、ヌーッて近寄ってきたりしたんです。魔よけのおまじないを書いてもらった靴を履いていると、それ以上のことはないですけど、私、怖くていつも走って家に逃げ帰りました」
 本当に心細い様子で、依頼人の少女は震えている。
「おばあちゃんが言うんです。うちの女に生まれたら、仕方がないんだって。おまえも、大きくなったら、ああいう恐ろしい連中を、打ち破る術(じゅつ)を練習するんだよって」
「おばあちゃんは、憑き物落としみたいなことをしてたんだね」
「私は、見せてもらったことはないですけど。大きくなって時期がくるまでは、秘密なんだって」
「ええと。そのおばあちゃんって、先日亡くなったって、仁科さんが言ってましたよね」
 僕が訊くと、彼女は頷いた。
「3ヶ月くらい前です。急に体調を崩して、そのまま…。私……、なにも習ってません」
 少女は顔を覆った。震えているその背中を、師匠がさする。そのまま、しばらくそうしていた。
 ようやく落ち着いて、少女は顔をあげた。
「中学生のときから、おばあちゃんとは離れて暮らしています。両親が、こっちに家を建てたから。でも、この靴のおまじないがないとだめだから、ときどき会いに行って、書き直してもらってたんです。すぐ、こすれて薄くなっちゃうから」
 少女は、もってきた鞄から、ビニール袋を取り出した。なかからは、もう一組、スニーカーが出てきた。こっちは黒っぽい色だ。
「おばあちゃんが死んじゃって、魔よけのおまじないが残ってるのは、この2つだけなんです。どっちも、もう消えそうになってて。私、どうしたらいいのか……」
 泣きそうな顔でそう言う。
 黒いほうの靴底を見ると、ピンクの靴と同じ模様が書いてあるようだったが、同じくらいに薄れている。
「なるほど、それで困っていると」
 師匠は頷いている。
「ちょっと確認したいんだけど、今でも幽霊とかを外で見るの?」
「……はい。夜に1人で歩いてると、首筋がぞわぞわして。そうなると、だいたいいつも、真っ黒いものとか、気持ちの悪い顔とか、そういうのが寄ってくるんです」
「それは、家にまでは来ないの?」
「家には出ないです。おばあちゃんが、魔よけの結界を張ってるって言ってました。お父さんが家を建てたときも、わざわざ来てくれて、おまじないをしてたみたいです」
「そのおまじないを教えてもらってないわけか。なにか祭文……、書き物で残してくれてないのかな」
「遺品は、見せてもらったんですけど、なんにも」
「ふうん。代々、口伝で受け継いでいたのかもな」
 少女は、怯えた顔のまま、すがるような目で師匠を見ている。
「どうするんですか」
 僕は師匠に小声で耳打ちをした。本格的な悪霊払いなんていう話になると、師匠にはできないはずだった。
「1日、この靴を預かっていいですか。どっちか1足でいいので」
 師匠はそう提案した。
「多少心得があるので、調べさせてもらったら、魔よけのおまじないは再現できるかも知れません。それに、仁科さんは、おばあさんの祈祷を受けたことがあるみたいだから、私から詳しく聞いてみますよ。私の知っている作法かも知れませんし」
 それを聞いて、少女は嬉しそうな顔をした。
「お願いします。じゃあ、こっちの靴を置いていきます」
 そう言って、黒いほうのシューズを差し出した。そして、いそいそと、ピンクのほうの靴を履いた。
 明日またここへ来てもらうことにして、会う時間を決めてから、少女は去っていった。
 僕らは、事務所の窓から、彼女の歩いていく姿を見下ろした。まだ日は沈んでいなかったが、おっかなびっくり、周囲をキョロキョロ見回しながら、ゆっくりと歩いていた。
「かわいそうにな」
 師匠がボソリと言った。
「大丈夫なんですか」
「ああ、たぶんな」
 師匠は、靴の底に書いてある模様を見つめた。
 その顔は、いつになく、険しかった。

 そこまで話して、師匠は深く息を吐いた。
 俺は続きが気になって、早く聞きたかった。しかし、師匠は、雨の音に耳を澄ますように、黙ってしまった。
 しかたなく、視線を師匠から戻すと、前方の止まない雨のなかに、淡く白い光が見えた気がした。師匠も、それを見ているのか。それは、神社の敷地に入るでもなく、遠方で揺らめいてるようだった。
 怪談話をしていると寄ってくる、と古来言われているが、そういうことはあるのだ。実際に。経験上知っていた俺は、それほど驚かなかった。それが、なにかこちらに悪意を持っているようにも感じなかったから、平常心でいられたのだ。
 やがて、それが、それ以上近寄って来ないのを確認したのか、師匠は話の続きを口にした。 
「次の日、待ち合わせの時間に、僕の師匠は、神職の服装でやってきた。どこで借りてきたのか、白い唐衣に、単、袴という正装だ。扇に、漫画で見る女王卑弥呼みたいな、釵子(サイシ)っていう、髪飾りまでつけてきていた。そして、依頼人の黒鳥八重に言ったんだ。おばあさんの作法がわかったので、もっと強い祈祷で、あなたの血にかかっている呪いごと、うち消してあげます、ってね」
 俺は驚いた。加奈子さんにそんな力があるのだろうか。初耳だった。いつもハッタリや、毒を持って毒を制するやりかたで、解決していたはずだった。たしかに、やろうと思えば、そんな正攻法でもやれそうな、底知れない印象はあったけれど。
「そんなこと、できたんですか」
「できないよ。でもやったんだ。依頼人の前で。みごとに祓ってみせたよ。彼女にかかった呪いを。結局、靴の魔よけのおまじないも必要なくなった。依頼人は半信半疑だったけど、もう大丈夫だっていう師匠の断言と、雰囲気に飲まれて、おまじないの靴を履かずに帰っていった。後日、あれからお化けが出なくなったっていう、お礼の連絡があったよ」
「本当にお祓いができたんですか。すごいですね」
 俺は素直にそう言った。しかし、師匠は首を横に振る。
「お祓いなんか、見よう見まねだよ。祓詞(はらえことば)も適当さ。あとで聞いたら、安産祈願かなにかのやつだったらしい」
「はあ? なんですかそれ」
「問題を解決するために、師匠のやったことはただひとつ。彼女に、魔よけの靴を履かせずに帰らせたことだ」
 師匠のその言葉に、なぜかゾクリとした。頭のなかにかすかに浮かんでいた疑念に、色がついたような気がしたのだ。
「靴に書いてあったのは、呪言道の厭魅法の術だったそうだ。簡単にいうと、『この者を脅かせ』って書いてあったんだ」
 俺は絶句した。おばあちゃんが書いていたのは、魔よけのおまじないじゃなかったのか。
「お化けが寄ってくるから、靴におまじないを書いたんじゃない。靴に呪いの言葉が書いてあったから、お化けが寄って来ていたんだよ。彼女が、子どものころからずっと。外に出るときは、必ず呪いの靴を履いていたからね。家に、魔よけの結界が張ってあったってのは、ウソじゃないかも知れない。でも、仮にそうじゃなかったとしても、彼女にとって、もともと家は安全地帯なんだよ。靴を、履いていないから」
「ひどすぎますよ、それは。ひどすぎます」
 思わず、声が震えた。どうしたら、怖がっている孫に、そんなひどいことができるのだろう。
「これは、僕の師匠の想像だけど、小さなころから呪いを受けて、悪霊の類に迫られ続けた子どもは、多かれ少なかれ、そういうものに対抗する力を身につけると思われたんじゃないかな。それは霊媒の能力を上げることになるわけだ。呪言道の蟲毒の発想だよ。そうやって生き残ったものを、後継にする。そうして、代を繋いできたのかも知れない。彼女の母系の一族は」
「ひどい、話ですね」
 俺はため息をついた。
「でも、これでその伝統も途絶えたわけですね」
 その言葉に、師匠は首を振った。雨に降り込められた暗闇のなかで、かすかな振動がそれを伝える。
「依頼人のほかに、女の孫は4人もいるそうだ。秘密を受け継いだ人間が、ほかにいても、おかしくはないんじゃないかな」
 不気味な……グロテスクな話だった。俺は陰鬱な気分になってしまった。
「最初に、お祓いが効いた話だって、言ったじゃないですか」
 俺の苦情に、師匠は静かに笑っている。
「ある意味効いたじゃないか。祖母の死後も彼女にまとわりつく呪いを、祓ったんだから」
「それは……」
 なにを言い返そうとしたのか、頭から飛んでしまった。
 目の前に、白いものがいたからだ。
 俺と師匠の数メートルの距離に、降り続く雨を透過して、それはたたずんでいる。さっきまで、神社の敷地の外で揺れていたものだ。いつの間に、こんな近くまでやってきたのか。
 緊張が走った。
「師匠」
「大丈夫だ」
 短い返答。俺は身構えていたが、その白いものはそれ以上近寄っては来なかった。こちらをじっと観察しているような気配。悪意のようなものは感じない。むしろ、悲しみのようなものが、漏れ出ているような気がした。
「昔、この土地に、逢引をする2人がいた。かねてから家同士の利害が対立していて、許されない恋だったらしい。戦時中の話だ」
 師匠は、静かに語りはじめる。
「夜毎に、だれにも見つからないこの神社で、許されないときを過ごした2人は、やがて引き裂かれる。男が戦争に取られて、前線で死んでしまったんだ。残された女は、他家へ嫁ぐように言いつけられたが、その直前に自ら命を絶ってしまう。そののち、戦争が終わり、世のなかが落ち着いてきたころに、妙な噂が立ちはじめた。この神社で、幽霊が出るというんだ。真夜中に、道の左右からそれぞれ白い霊魂がやってきて、この神社でひとつになるという。そんな噂だ。男女の逢引を、密かに知っていた人間が、あの2人の幽霊だ、という噂を広めたようだ。そんな破廉恥な噂を、両家は苦々しく思っていた。家の恥だからだ。やがて代がかわっても、そんな幽霊の噂は続いた。さらにひとつ代がかわったところで、女のほうの家のだれかが考えた。そんなふうに迷い出てくるものならば、この世から消してしまえと。その依頼は、どこをどうたどったのか、僕の師匠のもとへやってきた」
「加奈子さんのところに」
 俺の吐く息が、白いものを揺らすような気がする。雨音が、遠のいていくようだ。あたりが妙に静かになる。そんななかに、師匠の声が響く。
「師匠は、女の家からの依頼で、女のほうの霊を祓ったそうだ。どんなやりかたをしたのかは聞いていない。でも、なんらかの形で、確実に祓ったんだろう。さっきの、靴の彼女のときのように。依頼は達成され、そうして、逢引は止んだ。ただひとり、夜にさまよい、この神社にやってくる男の霊魂を残して」
 白いものは、やがて俺と師匠の前を離れ、揺らめきながら、神社の周りをさまよいはじめる。その姿からは、ただ、ただ、悲しみが伝わってくる。
「残酷だ」
 俺は吐き捨てるように言った。
「ああ、そうだな」
 師匠は淡々と応える。
「僕が、小川調査事務所でバイトをはじめる前。師匠が、まだ黒谷夏雄と組んでいたころの話だ。僕だったら、そんなやりかたはさせなかった。このことを聞かされて、実際にここへ来てみて、そう思った」
「なぜなんです」
 それは、俺のなかに作られていった、加奈子さんのイメージとは違う。師匠にとっても、きっとそうだろう。
師匠は静かに言った。
「僕は考えていた。あの師匠がなぜこんなやりかたをしたんだ? 金を出したほうだけ、望みをかなえて、もう片方をこんなふうに残す。なぜ? ここへ来るたびに、そう思っていた」
 白いものは、神社の敷地からふらり、ふらりと、ゆっくり出ていこうとしている。俺たちは、それをただ見つめている。
「この話は伝聞で成り立っている。2人が逢引していたという噂。そして、神社に現れる2人の幽霊。確実なことは、女のほうの家から、除霊して欲しいという依頼があったことと、今、ひとつの霊がまださまよい出ているということ。その霊は、なにかを捜し求めて、見つからず、悲しみに包まれている」
「ですから、それは、やるんならやるで、両方除霊してあげなかったから……」
「僕の師匠は、両方の霊を見ている。その上でやったことは、女のほうの霊だけを、この世から解放してあげたことだった。それを踏まえて、ここからは推測だ。夜毎のそれは、本当に逢引だったのか。なにか弱みにつけこんでの、一方的なものだったのではないか。もう他の人のもとにも嫁げないと思い込み、命を絶ってしまうような、そんなひどいものだったのではないか」
 師匠の言葉を聞いて、僕は絶句した。そんなことを、師匠は考えていたのか。
「もしそうだったなら、僕の師匠は許さない。この世に残し、永遠にさまよわせるような罰を、与えるかも知れない」
 小さな、人魂のような姿になり、それは、雨のかなたに消えようとしていた。
 雨の音が、だんだんと大きくなっていく。
「これは、僕の推測だ……。そして僕の、希望でもある」
 悲しみに包まれた、孤独な、儚い光を、師匠は希望とはかけ離れたような口調で、そう言い捨てていた。

〈『お祓い』 完〉