このお話は、『読んだら呪われる』といういわくつきのお話です。神経質な方、苦手な方は読むのをお控えください。
私はすべて読んで呪われないことは確認済みなので、○○人に見せないと死ぬ。といった脅し文句が本文に入っていても実行しないでください。
自己責任系の作品はあくまで個人的に楽しむものです。
人に迷惑をかけちゃいけません。実行しないと不安になりそうな人はまだ読んだら呪われる系に立ち入るべきではありません。
トミノの地獄
トミノの地獄は「音読すると死ぬ」と言われている作品です。
実際に音読したけど生きてる!というネット上の書き込みは見かけますし、音読しただけで死ぬなどあり得ませんが、音読するメリットもありませんので実行しないください。
姉は血を吐く、妹(いもと)は火吐く、可愛いトミノは宝玉(たま)を吐く。
ひとり地獄に落ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き。
鞭(むち)で叩くはトミノの姉か、鞭の朱総(しゅぶさ)が気にかかる。
叩けや叩きやれ叩かずとても、無間(むげん)地獄はひとつみち。
暗い地獄へ案内(あない)をたのむ、金の羊に、鶯に。
皮の嚢(ふくろ)にやいくらほど入れよ、無間地獄の旅支度。
春が来て候(そろ)林に谿(たに)に、暗い地獄谷七曲り。
籠にや鶯、車にや羊、可愛いトミノの眼にや涙。
啼けよ、鶯、林の雨に妹恋しと声かぎり。
啼けば反響(こだま)が地獄にひびき、狐牡丹の花がさく。
地獄七山七谿めぐる、可愛いトミノのひとり旅。
地獄ござらばもて来てたもれ、針の御山(おやま)の留針(とめばり)を。
赤い留針だてにはささぬ、可愛いトミノのめじるしに。
トミノの地獄という作品について
ネットミームとして広がったと勘違いしている人のために、この作品についての説明と簡単な考察を記載する。
この作品は、ネット上の「だれか」が創作したものではなく、れっきとした詩集の一篇である。
詩集名は「砂金」。出版時期は1919年である。
作者は西城八十(さいじょう やそ)という人で、1892年生まれ1970年に没している。
西城は、詩に対する考え方として以下のように述べている。
「私が今日像現しようと努めているのも、この所謂「死」其物の姿に他ならぬ」
さて『トミノの地獄』は、トミノという名の主人公が、妹を探して地獄を旅をするというお話。
西城の詩に対する考え方と、時代背景を考えると一つの可能性が見えてくる。
実は、西城が詩を通じて「死」そのものの姿を表現したいと述べている通り、「死」というものを表現しようとしても、「死」とは結果であって、死に至る過程、死後の状態を表現することは可能でも、「死」そのものの姿を表現することは意外と難しい。
そこで、この詩は「尊厳としての死」を表現しようとしたのではないかと考えてみる。
※戦争を表しているといった解釈をする方もいらっしゃるようで、これはその意見を否定するわけでありません。あくまで解釈の一つと捉えていただければ幸いです。
以下、解説付きで本文を紹介します。
こうやって読んでみると、意味の分からない怖い文章から、興味深く味わい深い作品となりますよね。
※私はあまり詩に関しての造詣が深くないので、あくまで私の解釈としてお楽しみください。
トミノの地獄(解説付き)
姉は血を吐く、妹(いもと)は火吐く、可愛いトミノは宝玉(たま)を吐く。
ひとり地獄に落ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き。
妹の代わりに遊郭に売られたトミノは、自分の境遇に一片の光も見いだせずにいた。
鞭(むち)で叩くはトミノの姉か、鞭の朱総(しゅぶさ)が気にかかる。
時には、亡くなった姉のせいで自分がこんな目にあっていると姉を恨む。
鞭の……の解釈が難しくてわかりません(´;ω;`)
叩けや叩きやれ叩かずとても、無間(むげん)地獄はひとつみち。
遊郭で禿(かむろ。遊郭で遊女としてデビューする前の見習い期間)で雑用をこなしていても、いつかは遊女としてデビューしなければいけない。
暗い地獄へ案内(あない)をたのむ、金の羊に、鶯に。
金の羊とはキリスト教でいう、神への捧げもの。鶯はその鳴き声《ホーホケキョ:法華経》になぞらえて、仏教の事。
転じて、神でも仏でも、自分を無間地獄から少しでもましなところへ案内してほしい。
皮の嚢(ふくろ)にやいくらほど入れよ、無間地獄の旅支度。
三途の川も金次第。渡るのに必要と言われている6文銭だが、無間地獄からではいくら必要なのだろう。
春が来て候(そろ)林に谿(たに)に、暗い地獄谷七曲り。
春が来ては候は、直球で読むのであれば初潮を迎える。もしくは遊女としてのデビューを迎える。
籠にや鶯、車にや羊、可愛いトミノの眼にや涙。
籠にや鶯は籠の中の鳥。転じて不自由な身、車にや羊は羊車(ひつじぐるま)。仏教用語で、声聞乗のこと。本意とは少し解釈が違うが、自分の身を今後を考える。
転じて、まるで籠の中の鳥のような自分の将来を考え、トミノは悲しんだ。
啼けよ、鶯、林の雨に妹恋しと声かぎり。
男性と夜をともにするトミノ。妹の身を案じて自分を犠牲にしたトミノは、妹は今、元気にしているだろうか、同じ目にあっていないか。妹に一目会いたいと男性に抱かれながら考えていた。
啼けば反響(こだま)が地獄にひびき、狐牡丹の花がさく。
→遊女としてお客を取るたびに、トミノの心は地獄へと引きずり戻され、狐牡丹の花はいわゆる毒草。心が荒んでいく様を狐牡丹に例えていると思われる。
地獄七山七谿めぐる、可愛いトミノのひとり旅。
遊女として年月を重ねていっても、トミノの心はずっと孤独だった。
地獄ござらばもて来てたもれ、針の御山(おやま)の留針(とめばり)を。
→地獄ござらば(があるなら)もて来てたもれ(持ってきてください。)針の御山の留針を(針山の針を)
転じて、ここが地獄でないならば、本当の地獄から証拠として針山の針を持ってきてください。
赤い留針だてにはささぬ、可愛いトミノのめじるしに。
→持ってこれなければ、私が見せてあげましょう。赤く染まった地獄の針を。トミノという人間が存在していた証拠に。
あとがき
今回の解釈が正しいかどうかはわかりません。
というのも、実は作者の西城八十自身がこの詩について詩の解釈を明確にしていないため、本当のところ誰にもわからない。ということです。
とはいえ、私自身も初見で読んだときはまったく意味が分からず、意味の分からない怖い話という程度の認識でしたが、こうして文章の意味を紐解いていくと(あっているかどうかはともかく)なにやら悲しい詩だという印象を受けました。
とても西城八十が恨みを込めて作った。呪いを広めるために悪意を持って作成したようには思えません。
この機会にぜひ西城八十の詩集「砂金」も読んでみてください。
姉が亡くなり、家計が苦しい両親が妹を身売りするよう話すも、必死に抵抗している。見かねたトミノは妹の代わりに自分が行くと言い出す。