師匠シリーズ112話 握手


握手 前編

2014年12月22日 23:26

師匠から聞いた話だ。

大学1回生の春だった。
入学して2週間が経ち、戸惑うばかりだった大学生としての生活サイクルにもようやく慣れる兆しが見え始めたころ。
キャンパス内には文化系サークル、体育会系サークルの新入生勧誘看板が雨後のタケノコのように乱立し、さすがに当初にあった繁華街の客引きのような強引な勧誘はなりを潜めたものの、まだまだ新入生を取りっぱぐれまいという各サークルの熱気が、いたるところから感じられた。
そんな空気にいささか居心地の思いをしながら、平日の昼休みに学食のある大学会館のあたりを歩いていると、キジトラ柄の猫が一匹、うなーんと鳴きながら目の前を通り過ぎようとした。
すぐに近くにいた女子学生が取り囲み、かわいいかわいいと連呼し始める。これだけ学生がいればエサをやる人もいるのだろう。学内にはそんな野良猫が何匹かいるようだった。
いつもなにかに癇癪を起している大学生協の職員がおっぱらいに来る前に、立ち去ろうと爪先の向きを変えたときだ。
視線の端に、なにか黒いものが映った気がしてふとそちらを見た。
大学会館のすぐそばにあった学内保健センターが目に入る。黒いものはその建物の影にスッと消えたようだった。
ただの人影ならそんなに気にはならなかっただろう。けれど、僕のなかにあるこの世のものではないものを知覚する受容器が、かすかに反応しているのに気づいてしまった。
保健センターは平屋の小さな建物だった。そちらへそっと歩いていき、裏側へ回ってみたがそこにはだれもいなかった。立ち去っていく人もいない。黒い影は消えてしまっていた。
気のせい。
とは思えなかった。
実のところ、この大学に入って以来、そんな黒いものが視界の端を横切るのを何度も経験していたのだ。ただ、いつもそちらを向くと、建物の裏や扉のなかへ逃げるように消えてしまう。確実にそこになにかがいた、と確信するには頼りなく、錯覚と断定するには妙な存在感があった。
怖い、という感じはなかった。ただ、なにか不吉な感じは抱いていた。
猫を中心にした騒がしさのなか、たった1人でひとけのない保健センターの前にたたずんでいると、言いようのない疎外感が湧いてくる。
『あなたは、だれにも見えない不思議なものを見るのよ。これからもずっと。それはきっとあなたの人生を惑わせる。それでもどうか目を閉じないで』
いつかだれかに言われた言葉が、イバラのように体に絡みついて、僕の足を動かなくする。かつては温かみのあった言葉だったはずなのだけれど、今ではつらい。
それが僕を呪いのように縛りつけている。
その日の午後、4限目の授業が終わったところで僕は学部棟を出た。
駐輪場に向かいながら今日はサークルにでも寄ってみるか、と考えた。学科の同じコースでできた男の友人に誘われて、一緒に文芸サークルに入ったものの、その雰囲気がしっくりこなかったらしいそいつが、さっそく別のゆるそうなサークルに鞍替えするのを尻目に、僕はそれすらめんどくさくて惰性でその文芸サークルに所属していた。
適度に人との繋がりができて、かつ過度に個人的な時間に干渉しないという条件を満たしていれば、なんでもよかったのだろう。たとえ、それが「アリ観察部」だったとしても。
急ぐわけでもなく、自転車に乗らずに押して歩きながら、僕はサークル棟へ向かう道をのたのたと進んでいた。
そのあたりは、ラグビー部が走り回っている競技場があるせいでいつも埃っぽい。周囲には同じように授業上がりでサークルへ行こうとする人たちがいた。コンビニ袋をぶら下げている姿が多かった。
サークル棟の自販機は、カップが出てきて飲料水が注がれるタイプだったが、こいつが『コイン飲み』の常習犯で、100円玉を入れたのに、「押してください」のランプが点かず、返却ボタンを押しても反応しないということがよくあるのだった。たぶん生協だかに言えば返してくれるのだろうが、入れた証拠は? と言われれば困るし、なによりキャンパスの外れのサークル棟までやってきて、また大学会館まで戻るのかと思うと、100円くらいいいか、という心境になり、結局泣き寝入りをすることになるのだ。
それを学んでいる学生たちは、みんな飲み物はあらかじめ買ってくるのだった。
僕も小腹が空いているのに気づいて、コンビニへ行こうかと考えたときだった。
目の前に不思議なものを見た。
いや、目の前、というよりも上空、というべきか。道沿いに背の高い照明柱があるのだが、その柱の上にだれかが腰かけているのだ。
落ちたら大怪我か、へたしたら死んでしまいそうな高さだというのに、その人は平然としてどこか遠くを見ている。黒いシャツに黒い帽子、そしてホットパンツという格好の女性。
なんだあれ。
僕は思わず立ち止まって見上げた。
風があるので、着ているシャツがバタバタと揺れている。回りの人たちも気づいて、そちらを見ながらヒソヒソと話したり、指をさしたりしている。大学に入って、高校時代とは比べ物にならないくらい変な人が多いことには気づいていたが、こういう体を張った人はさすがに見ない。
前を歩いていた女の子2人組が柱の上に声をかけて、手を振った。すると最初は気づいていなかった柱の上の女性も、我に返ったように振り向いたかと思うとニコリと微笑み、手を振り返した。
2人組はキャーという歓声をあげて歩き去っていった。
器用に足を絡みつかせて柱に腰かけている女性は、風に目を細めながらまた遠くへ視線を移した。僕はそちらを気にしながら柱の横を通り過ぎる。
遠くを見ているその横顔はどこか近寄りがたい雰囲気で、僕はその顔をどこかで見たことがあるような気がした。
先を歩いている2人に追いつくと、「知り合いですか」と訊いてみた。
「ぜんぜん」
という答えが返ってくる。
変な人がいるのだな。
そう思いながらサークル棟に入ってからも、彼女のことが気になって仕方がなかった。
部室にいた先輩に身振り手振りで今見た人のことを訊いてみると、「ああ」と言って頷いた。
「妖精ね、妖精」
もう1人の先輩が相槌を打つ。どうやら彼女は大学でも有名な人のようだ。
キャンパス内で時おり、ああいう奇行を目撃されることがあるのだとか。それでついたあだ名が妖精。
「文学部の院生だって聞いたような」
「理学部でも見るよ」
「え、農学部じゃないの」
……どうもいたるところに出没しているらしい。
俄然その奇妙な人物に興味を持った僕は、キャンパスの妖精をもう一度見ようと部室を出た。部室は3階にあったので、いつも出入りに使っている屋外階段のテラスに出て、照明柱のほうを見下ろす。
しかし柱の上にはもう、その姿はなかった。

その夜、悪夢を見た僕はうなされて目を覚ました。
夜明け前の薄暗闇のなか、僕は息を深く吐いて布団から体を起こす。
思い出した。あの横顔。繁華街で、この世のものではないものたちを引き連れて歩いていた、あの青白い顔。話しかけた僕に、「うしろに並べ」と言って一瞥もくれずに通り過ぎていった、あの人だ。
もう一度会いたい。
薄明の滲み出すカーテンをじっと見ながら、強くそう思っている自分に気づいた。
どうしてなんだろう。
あの人にもう一度。

「だから、そう言ったじゃんよ」
もう1人にもたれかかるようにしながら、馴れ馴れしくそんなことを言って、同じ学科の友人が前を歩いている。
一般教養棟の長い廊下だった。僕は笑いながら、その場にふさわしい突っ込みを入れるために2人に近づこうとして、ふと足を止めた。視界の隅に、黒いものの影を見た気がしたからだ。
まただ。またあれだ。
僕は視線を走らせるが、黒いものは、開いていた教室の扉の向こうへ逃げ込むようにして消えた。
「どうした」
友人が振り返って訊いてくる。
「いや」
彼らの視線のなかに、異物を検見しているような微かな色があった。
また歩き出した僕は、こうして仲の良い学生を演じながら、自分は実際は前を行く2人と、どこか根本的な部分でまったく違う人間なのだ、ということを思い知らされた気持ちになった。
腹に重い鉛のようなものがゆっくりと沈殿していく。そうして日々の生活のなかで溜まっていく鉛が、いつか僕をズブズブと地面の底へと沈めてしまうのだろう。
教養棟を出たところで僕は、寄るところがあるから、と言って2人と別れた。古本屋にでも行こうかな、と思って駐輪場に向かったとき、ほんの目と鼻の先にある壁の出っ張った部分の向こうで、黒いものが動いたのを見た。
キッ、とそちらを睨む。
いい加減にしてくれ。そう心のなかで叫んだ。その叫びは頭のなかで余韻を残すこともなく消え去った。
目の前に黒い帽子の女性がいた。体のラインがわかるボーダーTシャツを着て、下はこの前と同じホットパンツ。
妖精だ。
僕は息を止めた。
妖精が、僕と向かい合うようにして、同じ場所を見ていた。なんでもない壁の一部を。黒いものはもう見えない。
「あの」
声をかけた僕に、彼女は静かに視線を向けた。睨むような鋭い目つきをして、タバコを咥えている。白い煙がゆっくりとたちのぼっている。
彼女は指先でそのタバコを摘み、「なんだ」と言った。
「今の、見えたんですか」
「……」
彼女はすぐに答えず、もう一度タバコを口元に引き寄せた。
一度、会いましたよね。夜の街で。
続けてそう訊ねようとしたとき、僕はふいに聞こえてきた雨音に思わず空を仰いだ。
サァサァ……。
あっという間に、小さな雨粒がヴェールのようにあたりを包む。
僕と彼女はその雨のなかで向かい合ったまま立っている。周囲の学生たちはそんな僕らを邪魔そうに避けながら、歩き去っていく。駆け足にもならず、空も見ないままで。
「これは、なんですか」
その問いかけを彼女にするべきなのか、考える前に口が動いていた。
雨は降っていなかった。いや。物質としての雨粒は落ちてきてはいなったというべきか。髪にも、額にも雨の粒は落ちてこず、降り続く雨のなか、体はまったく濡れることはなかった。体の前で手のひらを広げてもそれは同じだった。
周りの人々もだれ1人、その雨に気づいていない。
けれど細く流れる雨の筋は、僕の目に確かに映り、耳は繊細な雨の音を確かに拾っていた。
「これは私が見ている」
彼女が口を開いた。夜の街で僕に向かって、「うしろに並べ」と言った、あの冷たく突き放したような口調ではなかったが、どこか柔らかさのない声だった。
「調子が悪いんだ。少し、撒き散らしている」
彼女はそっと自分の左目の下に触れた。
「近寄らないほうがいい。お前みたいに、『見る』やつは」
そう言って壁に目配せをした。黒いものが消えた場所だった。
「これは雨の…… 幻なんですか」
「夢を見ているんだ」
タバコを口から離し、空を見上げた。その彼女の目元に、子どもが玩具を見るような輝きが浮かんだ気がした。
「キャンパスが。雨の夢を」
そう言って、彼女は歩き出した。僕から視線を外し、去って行こうとしていた。
僕は彼女に訊くことがある。
そのとき僕の脳裏に浮かんだのは、切迫したその気持ちだけだった。なにを訊こうかなんて思いついていない。ただ、彼女が僕の問いの答えを知っている、ということだけはわかった。
「待ってください」
追いかけようとした僕に彼女は振り向いて、「今のが見えたのか、と訊いたな」と言った。
壁の黒いもののことか。僕は頷く。
「お前はなにが見えた」
「黒いなにかが。すぐに消えましたけど」
彼女はタバコを挟んだ指を僕に向けて、挑発的な顔つきした。初めて見せた若者らしい表情だった。
「見えてないな。お前みたいなやつが一番危ない。気づいても、見ない振りをしてろ」
今度こそ突き放した口調でそう言い捨てると、僕の反応も見ずに歩き去って行った。
食い下がる気力はあったはずだった。この程度では。それでも僕の足は動かなくなった。
「見えてない」
去っていく彼女のうしろ姿を見送りながら、僕はつぶやいた。
いつも視界の端に映ったかと思うと、そちらを見てもすぐに逃げるように消えてしまう、黒いなにか。
気のせいではない。そしてこの世のものではないこともわかる。だれも気づかない。僕の、普通ではない目にだけ映る、その日常のなかの異物。
それを彼女は……。
「見えているんだ」
黒いなにか、ではなく。それがなにかわかっている。
学生たちの群れのなかに、その背中が消えても僕はずっと見つめていた。
行き止まりだと思っていた道に、その先があるのだろうか。
気がつくと、アスファルトを濡らすことなく、雨は止んでいた。

握手 後編

2014年12月28日 20:56

それから数日、僕は大学の新入生としての日々を緊張気味に送りながら、ずっと考えていた。
キャンパスの妖精などというふざけたあだ名で呼ばれる、あの女性のことを。その彼女が見ているもののことを。
僕は今まで、周りの人々が気づかない、この世のものではないものをたくさん見てきた。そして嫌というほど叩き込まれてきたのだ。そういうものを見るということを、僕らの社会は受け入れてくれないという現実を。だから、見ても、見ない振りをしてきたし、そういうものに自分から近づいていくこともしなかった。
『それでも、どうか目を閉じないで』
頭の中で繰り返されるその呪いのような言葉に首を振りながら。
それなのに。
見えていないのは、僕のほうだった。
『妖精』が見ていたものは、僕には見えていなかった。なんだろう、この感じ。僕に見えないものを見ているという彼女を、気持ちの悪い異物として、ただ避けていくということは、僕を受け入れてくれなかった世界と同じではないか。
《妖精を見るには、妖精の目がいる》
昔読んだSF小説の一節が頭に浮かんだ。
妖精の目……。
僕の目は、いつかそんな目になるのだろうか。

僕は黒いものを探して歩いた。生活圏である、大学生協から一般教育棟、学部棟、図書館、そしてサークル棟の間だけではなく、これまで足を踏み入れなかった他学部の敷地にまで捜索の範囲を広げた。
いる。確かにいる。
視界の端に一瞬入ったかと思うと、次の瞬間にはもう消え去ってしまうものが。急に振り向いた僕に、驚いた顔を見せて、気持ち悪そうに眉をひそめる学生たち。
「どうかした?」と心配そうに話しかけてくれる人もいたけれど、黒いものを見なかったか、と訊ねると、ああそっち系のやつか、という顔をして、「さあねえ」とそそくさと去っていく。
そんなことを様々な場所で繰り返した。
僕なりに考えたことがある。あの黒いものは、見よう、見ようとするその気持ちを、見透かしているようだ。見ようとすると去っていく。そんなものをどうやって見ればいいのか。
……見ない。見ないで、近づく。目を閉じたままで。そのためには、どうしたらいい。
気配だ。気配を感じるしかない。目に頼らず。
僕は目を閉じて学内を歩いた。
10数分後、10人目の人とぶつかって平謝りしたあとで僕は、昼間は無理だと悟った。賢明ではあったが、やや遅きに逸した感があった。
その夜だ。
春とはいえ、夜はまだ肌寒い。ジャンパーを着てくればよかったと少し後悔しながら、僕は真っ暗なキャンパスのなかを歩いた。
ところどころに白色の光を放つ街灯があったけれど、深夜の大学構内はいつもの華やいだ雰囲気とは違う。自然と息をひそめてしまうような、静謐な感じがした。
学部棟のいくつかの窓には明かりが灯っていて、学生なのか、教員なのかはわからないけれど、こんな時間にも研究を続けているようだった。
大学生協の前の通りに出た。昼間は学生の往来のメッカで、立ち止まっているだけで、足を踏まれたり、ぶつかったりしてしまう場所だ。
今はだれもいない。目を閉じてみた。そのまま歩いてみる。
さっきまであったはずの道が、記憶のなかでどろどろと溶けて、自分がどこにいるのかわからなくなる。
目を開けた。5メートルも歩いていなかった。
これは怖いな。心霊的な怖さというというより、心理的な怖さだ。
もう一度目を閉じた。
静かだ。
自分の呼吸を感じる。
闇のなかに、別の呼吸を探す。
呼吸でなくてもいい。なにかがそこにいるという、痕跡。気配を。
しばらくそうしていて気づいた。
どこかに、どこかに、と思いながら、自分は前方にしか意識を向けていないことに。
なぜだろう。
ぐっと深く瞼を閉じる。だが、そうすればそうするほど、『面』を感じた。
自分の前にある大きなスクリーンが幕を閉じている感じ……。
眼球だ。
目を閉じていても、眼球の形状に意識が限定されてしまっている。闇は、全方位に広がっているはずなのに、前方の闇にしか意識が向かない。
この発見を面白く感じると同時に、やっかいさもわかってしまった。
闇は、左右にも、頭上にも、後方にも伸びている。
そうイメージしようとしても、なかなかうまくいかない。前だ。前だけ。目の前の景色を、塗りつぶしているだけだ。
期せずして、瞑想の訓練となってしまった。
目を閉じている自分自身を無にするイメージ。闇そのものをとらえるイメージ。
時間はたっぷりあった。だれにもぶつかることもなく。
どれほど経っただろうか。
なにかが、僕のそばを横切った。
黒いなにかが。
遠い。近づこうとして、足を動かした瞬間、その方向が斜め後ろであることに気づいた。そして同時に、自分が目を閉じたままだったことに。
あ。
そう思った瞬間、闇は『面』になった。戻ってしまった。
目を開けて斜め後ろを見たが、生協の外壁があるだけだった。
(くそっ)
悪態をついたが、収穫も感じていた。完全な闇のなかで、「黒いなにか」を幻視したのだ。見られないはずのものを。
もう一度だ。
僕は繰り返した。目を閉じて、闇を『面』から『球』にし、『球』から『穴』にした。
場所を変えて何度も何度もその瞑想を繰り返したが、黒いものの気配を感じることはできなかった。
頭が疲れきってしまい、最後には微かな夜風を頬に感じながら、ただ歩いた。歩いた。
なにも考えず歩いていると、光るものが風に乗って流れてくるのを見た。
なんだろうと思って手を伸ばすと、それは手に触れることもなく、瞬くように消えてしまった。
幻覚か。疲れきった頭が、そんなものを見せているのか。
空を掻いた指先を見つめ、僕は思い出していた。いつか見た、列をなして歩く、死者の群を。
その列の先頭を行く人の、頬からこぼれる光を。
僕はハッとして周囲を見回した。
彼女がいる。
このどこかに。
目の前にグラウンドの高いフェンスの黒い影が見えた。歩き回っているあいだにサークル棟の近くまで来ていたらしい。
あそこにいるのか。
そんな気がして、街灯の明かりを頼りに、サークル棟への直線道に入った。
暗い。真っ暗だ。道中にあるはずの照明柱が点いていなかった。故障なのか。僕は足元に気をつけながら、そちらへ向かって歩く。
空は曇っている。月明かりもほとんど漏れていない。その空のなかに、明かりのない柱の先がうっすらと見えた。
いる。人影が。
柱の上に腰掛けて、どこか遠くを見ている。
僕はそっと柱の下まで近づいて、声をかけようかどうしようかと、迷った。こんな夜中に人が来るなんて思ってもいないだろう。驚かせてしまい、足が滑って落下するようなことになったら大変だ。そう思って。
僕は息を殺して、このまえ彼女が見ていた方向に目をやった。教育学部の建物が黒々とした影となっている。
なにを見ていたのだろう。
そう思った瞬間だった。
背筋を、ゾクリとしたものが走った。
繰り返した瞑想の影響なのか、いつもより鋭敏になっていた僕の感覚が、頭上の異様な気配をとらえていた。
あの人じゃない。
思わず柱から離れて、後ずさった。
柱の上の人影のようなものは動いていなかった。暗すぎてよく見えない。それでも、わかるのだ。あれは……
人じゃない。
ドキンドキンと打つ鼓動を悟られはしないか、という強迫観念に囚われながら、僕はゆっくりと後退を続けた。
柱が遠ざかっていく。暗闇のなかの後ずさりは怖い。躓きそうで。それでも、目を切れなかった。闇のなかに完全に照明柱が溶けてしまってから、僕は振り向いて足早にその場を去った。
歩きながら、自分の右目を触る。
怖い。怖い。
その素直な感情が渦巻いている。
こんな怖いものを見ないといけないのか。
僕はだれにぶつけていいのかわからない怒りが、湧いてくるのを感じていた。
教育学部の学部棟のほうを睨む。あっちだ。直感と、ほんの少しの推理で、僕は彼女の居場所を予測した。
彼女のうしろで列をなしていた死者の群を思い出す。夜の彼女は、死者にとって特別な存在なのだ、という想像。さっきのなにか得体の知れないものが、柱の上で見ていたものはなにか。
その先に彼女がいるのではないか。そう思ったのだ。
予感は、正しかった。
なじみのない教育学部のエリアの建物の下で、僕は頭上を見上げた。淡い幻のような光の粒子が微かに見える。
屋上だ。
無人の建物をぐるりと回り、玄関らしきところを見つけたが、分厚いガラス戸に鍵がかかっていて入れなかった。しかし、彼女はこのなかにいる。
僕は入学して早々に教えられた、自分の学部の学生向け侵入路のことを思い浮かべ、必ずそんな入り口があるはずだ、と思った。
建物の裏側に回り、講義室や研究室の窓ガラスをひとつひとつ揺さぶっていく。
あった。
小さな窓ガラスが1つ、施錠されていなかった。外から飛びついて、体をむりやりなかにねじ込んでいく。バランスを崩して腰からドサリと落ちた。
真っ暗だが、机と椅子が並んでいるのはわかった。講義室だろうか。起き上がって、手探りで進む。出入り口のドアは鍵が掛かっていなかった。
遠くに見える、緑色の非常口を示す明かりに、少しほっとさせられる。明かりがないのは本当に心細い。廊下の端に階段があった。手すりに掴まって静かに登っていく。
4階まで来たとき、階段の先にドアがあるのに気づいた。屋上だ。
そっとノブを握った。回る。鍵が掛かっていない。
ゆっくりと開けて、外に出た。
「よう」
彼女が、『妖精』が、屋上の端に腰掛けたままこちらを振り返った。
驚いた様子はない。僕に気づいていたのか。
「なにをしてるんですか」
「んー? 高鬼(たかおに)」
その口からでた子どもじみた遊びに、拍子抜けした。
なんだそれは。
このあいだと同じような格好をしているが、今日はタバコを咥えていなかった。
「春になるとな、ざわざわするんだよ。大学が。お前、新入生だろ」
「そうです」
「うちの大学、新入生だけで2千人以上いるからな。それだけの人が動くと、いろんなものが動くんだ」
彼女は、いろんな、という言葉を強調して言った。
「お前の言う、『黒いもの』もその1つだ。害のないものならいいけど、放っておくと危ないものもある」
なにを言っているんだ、この人は。
深夜の無人の校舎の屋上で、たった2人。現実感のない空間だった。
「高鬼って遊び、知らないか。鬼よりも高いところにいる人は、捕まえることができないってやつ」
このあいだよりも機嫌が良さそうだ。口調が明らかに滑らかだった。
「今日はしつこいしつこい」
笑ってそういう彼女に、僕はサークル棟の前で今体験したことを話した。柱の上にいたなにかのことを。高鬼、という言葉に反応して。
「ああ、雑魚は逃げるだろうな。そうやって。あれは洒落にならないから。私もこないだは危なかった。逃げ場がなくてな」
こないだ? 先日、彼女が柱の上に腰掛けていたときのことか。
『見えてないな』
彼女に言われた、辛らつな言葉が脳裏をよぎる。
彼女が逃げるような、なにか恐ろしいものがあの場所にうごめいていたというのか。
日常に、どろりとした膜がかかっているイメージ。そのなかを、人々が笑いながら歩いている。その膜が見えるものだけが、体を捕らえられてあがいている。
『それでも、目を閉じないで』
嫌だ。
なぜ自分だけがそんな目に遭わないといけないんだ。
やり場のない憤りが、言葉に乗った。
「そんな、そうやって、逃げて、なにが楽しいんですか」
笑っている彼女に、理不尽な怒りをぶつけた。
けれど彼女は驚きもせず、答えた。
「遊びだから、楽しいんだ」
高鬼なんて、真剣にやったことあるか?
彼女は屋上の縁で立ち上がって言った。
「鬼に捕まったらどうなると思う? 次はだれだれちゃんのオニーってやつだ。鬼がクラスのともだちだったら、ともだちになるだけだ。じゃあ、鬼がこの世ならざるものだったなら、捕ったらなんになる?」
彼女の言葉には、隠しきれない歓喜が込められていた。
「いいか、そんな遊びのなかにこそ……」
続けようとした言葉が止まった。
背後で、ドアが開くような金属の擦れる音がした。振り向くと、だれかがそこに立っていた。
「お前…… つけられたな」
彼女が切羽詰ったような口調で僕をなじった。
屋上のドアから出てきたそのだれかは、ぐわんぐわんと体が大きくなったり、小さくなったりしていた。
人じゃないことはわかった。そして、僕がこれまでに見てきたような、街角でひっそりと立っているだけの幽霊などとはまったく違う、寒気のするような悪意で充満した存在であることも。
僕が招き入れてしまった? 入ったときの窓ガラスは……開けっ放しだった気がする。
膝がガクガクする。
「遊びは終わり」
彼女がそう言って、屋上の手すりの縁に置いてあったなにかに手を伸ばそうとした瞬間、ドアのところにいたそいつの体が急に伸びた。一瞬だった。
「あ」
彼女の手からなにかを奪ったそいつが、屋上の外で宙に浮いていた。
「返せ」
彼女が叫ぶ。
そいつは、頭のあたりで人間の顔が風船のように膨らんだり、縮んだりしている。体は体で、手は手で、足は足で、別個にぐわんぐわんと揺れている。
そして彼女から奪った仮面のようなものを手にして、しげしげと眺めている。
「返せ」
もう一度叫んだが、まったく反応はない。そいつが浮かんでいる場所には、屋上から身を乗り出しても手が届きそうになかった。その向こうは、4階建ての高さの闇だ。
今まで不思議なものを散々見てきた僕にも、信じられないような光景だった。なにより、いつも『個人的な体験』だったはずの、そういう存在を、別の人と一緒に見ている、という不可解さに、頭痛がするようだった。
「うしろを向いて、目をつぶってろ」
「え?」
「いいから、目をつぶってろ」
彼女が、屋上の外に浮かぶそいつを凝視しながら言った。
「はやく」
有無を言わせぬ口調に、僕は急いでうしろを向いた。そのまま逃げ出してしまいたい気持ちになったが、なんとかこらえて目を閉じた。
目を閉じたが……。
なにも起きなかった。風が吹いて、顔を撫でた。彼女は、なにをしている? あの、恐ろしいやつは?
思い出して生唾をのんだ。恐怖がこみ上げてきて、目をつぶっていられなくなった。
目を開けて、すぐに振り返った。
いない――
屋上にはだれもいなかった。
うそだろ。
僕は慌てて周囲を見回したが、あの恐ろしいやつの姿もなければ、彼女もいなかった。屋上には隠れる場所もない。
幻覚でも見ていたかのようだった。
化け物はともかく、彼女が、なぜ?
ドアを見た。
自分だけ逃げた?
僕は周囲を警戒しながら、ドアのほうに向かって歩き出した。
階段を降りながら、下のほうに恐る恐る声をかけてみたが、なんの反応もなかった。入ってきたときと同じように、人の気配はまったくなかった。
3階、2階、1階と様子を伺いながら降りていった。最初の講義室へ戻り、その窓から外へ出た。
いない。
彼女は消えていた。逃げたのか。僕を囮にして?
1人残された僕は、闇のなかで立ち尽くしていた。

 ◆

握手 後編

2018年3月25日 14:19

真夜中の教育学部の学部棟の屋上で『妖精』と出会った、その次の日だ。
僕は昼間にその学部棟の下に立って、空を見上げていた。
昨日の夜、あの空中に、この世のものではないものが浮かんでいたのだ。人の体のツギハギでできたような不気味ななにかが、大きくなったり、小さくなったりしながら、あそこに。
ぞわっ、と首筋が寒くなる。
これまでに望まなくとも見てしまった幽霊たち。かぼそく、はかないそれらとは異質な、悪意を持った存在だった、あれは。
言われるままに目を閉じ、次に目を開いたときには、それも、彼女も、消えたようにいなくなっていた。あれは、いったいなんだったのか。
考えても答えは出ない。僕はため息をついて立ち去ろうとした。そのとき、すぐ近くで、学生たちが騒いでいるのが目に入った。
「これ見て」
そう言って芝生を指さしている。学部棟のすぐ下だ。
僕も近くに寄ってみると、血の跡のようなものが芝生についていた。バレーボールくらいの大きさだ。
「なにこれ、血?」
「キモッ」
そう言って笑ってから、彼らは去っていった。彼らが学部棟に入っていくのを見届けてから、僕はその芝生の前にしゃがみこんだ。
教育学部の学生が、いま気づいた。ということは、この血の跡のようなものは、新しくついたものだ。たとえば、昨日の夜に。
そっと触ると、芝からパラパラと赤黒い粉が落ちた。僕はしゃがんだまま、学部棟の屋上を見上げた。
昨日、僕はあそこにいた。
なにか、不吉な符合を感じて、僕は身震いをした。そしてその視界の端に、黒いものの影を見た。
またあれだ。立ち上がってそちらを見ると、もうなにもいない。
なんなのだ。僕は苛立って、芝生を強く踏みしめた。

さらにその次の日、僕は学食でトレイを持ってウロウロしていた。いつもながらやけに混んでいて嫌になる。ずっとこんな調子ではないと信じたい。まだ学食以外の昼食場所を見つけていない新入生が多いせいなのだろう。そしてきっと一部の学生はだんだん授業に出なくなり、ここもすいている日がくる。きっとそうだ。
まさか、自分が授業に出なくなる側になるとは思っていなかった僕は、まだ見ぬ未来に希望を抱きながら、あいている席を探していた。
すると、食事中の人々のなかに、見知った顔を発見した。
妖精だ。妖精が、黒い髑髏のスカジャンを着て、カレーを食べている。
僕はその前の席があいているのを見て、急いで近寄ってトレイをおろした。
「おとといはどうも」
妖精はカレーを食べながら文庫本を読んでいた。その本から視線をはずして、ちらりとこちらを見る。
「どこかで見たような幽霊だな」
「幽霊じゃないですよ。僕です、ほら、夜に教育学部の学部棟で」
「わかってる」
彼女は文庫本を置いた。新潮文庫の『ハムレット』だった。
「どうして逃げたんですか」
「逃げた?」
「僕を置いて逃げたじゃないですか」
「そりゃあ……」
彼女は鼻で笑うような仕草のあと、水を飲んでから言った。
「悪かったな」
「あれはなんなんですか」
「お化けだよ、お化け」
「あんなのが大学にいて、おかしいじゃないですか」
しげしげと彼女は僕の顔を見た。
「おまえ、なにをそんなに苛立ってんだ」
「い、苛立ってなんか」
「お前さあ、おとといの夜、なんで大学に来てたんだ」
「それは……」
「見に来てたんだろ。例の黒いお化けを。あの逃げるやつ」
図星だった。
「見たいのか、見たくないのか、どっちなんだよ」
僕は核心を突かれて、ハッとした。ずっと抱いていた葛藤を見透かされたのだ。
『目を閉じないで』
ゆらりと、記憶のかなたでそんな言葉が揺れる。僕は言葉を搾り出した。
「……あの、影みたいなのは、なんなんですか」
「さあな」
彼女ははぐらかすように笑う。
「かわりに、教えてやろうか」
「かわりって、なんですか」
「あの黒いやつを見る方法を」
「そんな、どうやって」
「ちょっと待て」
彼女は残ったカレーにスプーンを突っ込み、片付けた。ティッシュで口を拭いてから、僕に向き直る。
「あれはな、自分の背中みたいなもんだ。見ようとしても、その動きに反応して回り込んで逃げちまう。見ようとするその意識を、読まれるんだよ」
彼女はそう言って、自分の背中を見ようとするようにクルクルと首をめぐらせた。
「そんなもの、どうやって見るんですか」
「見ようとしなければいい」
「禅問答ですか」
「簡単なことだよ。電話してるときに、手元にペンと紙があったら、ついついラクガキしちゃうことあるだろ。無意識に。なにを書いたか、自分でも見返すまでわからなかったりする。もちろん実際には完全な無意識じゃない、意識の優先度が低いってことだ。そんなふうに、意識の階層化を図ればいい」
「階層化?」
「こうやって、本を読みながらカレーを食うだろ」
彼女はハムレットの文庫本を開いた。
「『ホレイショー、天と地の間にはお前の哲学などには思いもよらぬできごとがあるのだ』ってな。その分、カレーはほとんど無意識に食ってる。でもこれくらいじゃまだ足りない。服にカレーがつかないように、多少の意識は振り分けられてる。そこで、本の文字を目で追いながら、私はさらに頭のなかでポアンカレ予想のことを考える。位相幾何学と、ケーニヒスベルクの七つの橋の問題を考える。そうすると、どうなると思う。みごとカレーが服についてると。こういうわけだ」
そう言って彼女はおおげさにスカジャンの胸元をぬぐう真似をした。
「あとはお前しだいだ。じゃあな」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「私はしばらくのあいだ、夜に、大学の構内をうろついてるよ」
また会うにはどうしたらいいか、訊こうとした、その先まわりをされていた。
「おまえ、伊勢うどんとか、好きなのか」
そう言って妖精は、僕のトレイを指さして笑った。器のなかで、大盛りのうどんが汁を吸ってすっかりふやけていた。
彼女は黒い帽子を被り、席を立った。去っていくそのうしろ姿を見ながら、僕は彼女と少し打ち解けた会話ができたことに、不思議な喜びを抱いていた。

それから3日後、僕は夜の大学構内を歩いていた。
暗すぎてもだめだ。街灯がついている場所を中心に練り歩く。心は穏やかだった。練習をしてきたからだ。
歩きながら、心のなかではくりかえし円周率を暗唱していた。60桁までしか覚えていなかったのを、100桁まで覚えなおしてこの日に備えたのだ。
3.14159265358979323846264338327950288……。
体のなかを数字のリズムで満たして、歩く。
そしてそのリズムがなかば無意識に生まれていくなかで、僕はルパン3世カリオストロの城の名場面を頭のなかで再生する。たとえば、ルパンと次元のスパゲッティバトルのやりとりを。
あの映画は死ぬほど観た。だが、頭のなかでは無声映画だ。円周率がバックグラウンドで続いていた。音を重ねるのは難しい。だが、映像の再現は可能だった。
伯爵の犬を見送ったあと、2人がミートボールスパゲッィティを取り合い、次元が見事に大半を巻き取ってしまう。そんなシーンを。
歩きながらでも、ここまではわりと簡単だ。僕はもう一段階深層意識を掘り下げた。円周率とカリオストロ、それと重なりながら重ならない、さらに『下』で、僕は小学校のころ、田舎の親戚のうちで過ごした夏を思い出していた。先生との日々のことを。いま僕がこうしてわけのわからないことをしている、その呪いを生み出した日々をだ。
音と、映像と、記憶のなかの思いと、それらを一つの体のなかに再生しながら、僕は歩いていた。
街灯に照らされる生協の白い建物のそばで、黒いなにかが視界の端に入っていることも、もうわかっている。
『それが視界に入ったら近づく』
意識はしない。ただ、はじめからそう決めていたから、ルールに従って足が自然に動く。
頭のなかは音と映像と思い出でいっぱいだ。
3.14159265358979……。
ルパンが花を差し出す。
黒いものは逃げない。
足が勝手に動く。
意識はしない。
先生、僕は。
それが今。
目前に。
いる。
「…………」
静かに呼吸をしながら、僕は表情を変えずに、その黒いものの前に立っていた。うしろには生協の建物の壁。
僕は視界に入ったもののことを考えない。
頭のなかの三重奏は続いている。
ただそこにある。
黒いものは平面だった。黒い影のなかに、顔のような絵が見える。まるで交通安全のために道端に置かれている、板できた男の子のようだ。
それが、ノイズのようなブブブというブレを伴いながら、僕のまえに立っている。
その古いブラウン管テレビのようなブレが収まっていき、厚みのない平面状の顔が、だんだんとはっきりしてくる。僕はそれをただ突っ立って、無関心に見ている。夜のキャンパスで、得体の知れないものと向かい合って。
意識の階層化の深度が、僕の危機意識を奪っていた。
ブブブブブ……。
黒いものが小刻みに揺れながら、その絵でできた顔を明かそうとしている。
ふいに、どこからかともなく声が聞こえた。
「お前、影みたいなの、って言ったな。そのとおりだよ」
妖精……彼女の声だ。
「影は、光源と対象物の延長線上にできる。自分の影を見つめているとき、光源はどこにある」
その言葉を聴いた瞬間、僕の心に恐怖心が突然よみがえった。 押さえ込まれていた冷たい汗が、額にどっと湧き出る。
ドッドッドッ……。
心臓が激しく脈打ちはじめる。
正面にはうっすらと顔のようなものが見えている。黒い板のなかのブラウン管の歪む走査線の奥に、僕に似た顔が。
僕は自分のまうしろに、背中の向こうに、なにかがいるのを感じている。それも、すぐそばに。
それと、僕の延長線上に、影を作っている、その本体が、うしろに、いる。
もう意識の階層化なんて吹っ飛んでいる。なのに、面前の黒いものは逃げない。僕に対する、児戯に似た悪意がにじみ出ていた。
やばい。
それでも、足が動かなかった。
が……。
ケェーッ。
突然、甲高い悲鳴のような音がした。その瞬間、僕の金縛りは解けた。
バンッ、と弾けるように、背後の気配と、目の前の黒いものが消えうせた。
「うわっ」
僕は飛び上がって思わず横に倒れこんだ。仰向けになって上半身を起こした僕の前に、白い仮面をつけた人間が立って、僕を見おろしている。数日前に屋上で見た仮面だ。
街頭の淡い明かりに浮かび上がるその仮面は、能面の『姫』の面だった。彼女は、冷たく、青ざめたその面を取った。
「お、やってるやってる、と思って遠くからじっと見てたんだけど。本当にあいつを捕まえるとは思わなかった」
妖精が左手で姫の面を顔の横に掲げたまま、言う。
「前に、お前みたいなやつが一番危ないって言ったけど、これでわかったろ。興味本位で追ってると、恐ろしいことになる。普段は害がなくても、突然変貌するやつもいるんだ」
「そ、その仮面は?」
僕はへたり込んだまま指さした。
「これ? 霊験あらたかな、由緒正しい、呪いの面だよ。持ち主が次々死んだっていういわくつきの」
あっけらかんと、そんなことを言う。
「もっとやばい、祟り神級の面も持ってんだけど、よっぽどのやつじゃない限り、これで十分だろ」
「あの、悲鳴は?」
「猿叫(えんきょう)だよ。この面はあれで呪いをかけるんだ」
「取り返したんですか」
「ああ、あのときか。高鬼のやつにふいうちで取られたから、あせったよ。でも取り返して、次の日にやっつけてやった」
彼女の口から聴く言葉は、信じられないことばかりだ。けれど、僕にはなぜかそれらが、すんなりと胸に落ちていくのだった。
この人は、僕の抱えている葛藤を、乗り越えた場所にいるのだ。いや、もしかして、はじめからそんな普通の人間などとは別の場所に生まれた存在なのかも知れない。
「でもまあ、お前、あんがい面白いやつだな。気に入ったよ。カンフーの師匠がわけのわからない特訓を言いつけても、文句言いながら真面目にやるタイプだな」
バカにしたような口調だったが、キャンパスではじめて会ったときのようなつっけんどんな態度ではなかった。仲間として認めてくれたような、そんな気がした。
『あなたは、だれにも見えない不思議なものを見るのよ。これからもずっと。それはきっとあなたの人生を惑わせる。それでもどうか目を閉じないで』
優しく、はかない声が、深層意識の奥底から再生される。
僕を縛り付けてきた呪いが、呪いではなくなる日がくるのだろうか。この人について行けば。
「僕も、この世のものではないなにかに、目を閉じないで暮らす。そんな生き方ができるでしょうか」
気がつくとそんな言葉が口から流れ出ていた。地面にへたりこんだままの僕に、彼女は「ふうん」と小首をかしげた。そして、
「To be,or not to be.That is the question」
そんなことを言って、僕に右手を差し出した。
「決めるのはお前だろ」
僕は差し出されたその手を握った。力強い握手だった。
そのままぐいっ、と引き起こされる。立ち上がった僕は、握ったままの手を離さず、彼女を見つめる。
じわり、と寒気がした。
いま聞いた言葉に覚えた違和感が、時間差でやってきた。
『トゥービー、オア、ノット・トゥービー。ザット、イズ、ザ、クエスチョン』
なすべきか、なさざるべきか。それが問題だ。
彼女が先日、生協の食堂で読んでいたハムレットの名台詞だ。
それをそらんじたのだと思った。けれど、僕の耳はたしかに、違和感を察知していた。妙に発音が変だと思った箇所があったのだ。その言葉の意味がわかった瞬間に、違和感は寒気のする畏怖に変わった。
『テーベー、オア、ノット・テーベー。ザット、イズ、ザ、クエスチョン』
彼女はそう言ったのだ。
僕は握った手のひらに汗をかいている。
テーベー。結核の、隠語。
なぜ、それを。
目の前の女性は、自分のしたイタズラをたしかめるような、そんな笑顔を僕に向けている。
『目を閉じないで』
声が聞こえた気がした。
けれどそれは、階層化された深層意識のかなたに、たゆたう幻のはずだった。
「浦井加奈子だ」
彼女は、手を握ったままそう言った。
僕も彼女に対する畏怖を抱いたまま、名前を名乗った。
そのとき、僕の大学生活の道筋が決まったのだ。いや、控えめに言って、人生の、それが。
彼女の手は暖かく、手のひら越しに鼓動が聞こえた気がした。
その握手の暖かさを、僕は、それからずっと覚えている。

気がつくと、雨が降っていた。霧雨のような細い雨が。夜のキャンパスに。
だがそれは僕らだけが見ている幻だった。僕は暗い空を見上げて、目を細める。この雨は夢のなかにある。
「また降ってますね」
「すぐにやむよ」
彼女のつれてきた不思議な世界に、僕は立っている。
「おろろ」
突然、彼女の手のなかで面が2つに割れて、地面に落ちた。握手をしたまま、僕らは見つめあう。
「さっきの黒いやつ、よっぽどのやつだったらしい」
こわばった顔でそう言った。
「危なかったな」
「な、なんですかそれ」
しばらく顔を見合わせたあとで僕らは、大きな声で笑った。

〈完〉