師匠シリーズ110話 失踪(書籍版)

補足
この作品は師匠シリーズ5話 「失踪」のリメイク作品です。

2014年4月21日 20:11

師匠との話をこれから語っていくつもりだけれど、一晩で語り尽くせるものではない。長く、とても長くなるだろう。だから、先に一連の出来事の1つの結果である、師匠の失踪について書いておきたい。
かの聡明なシェヘラザートは、床をともにした女の首を夜明けに刎ねるという残酷な王に、美しく奇妙な物語を一夜一夜語り続けた。千夜を生き延びるため、続きはまた明日に、と添えて。
師匠との話は、そんな大それたものではないし、いつあなたが飽きてしまい、頁を閉じることでこのささやかな物語を終わりにしてしまうかもわからない。
そのとき、頁を閉じるあなたの手を止め、その耳を再び傾けさせるのは、この物語の向かう結末を知りたい、という渇望だろうか。
先に言ったように、彼の失踪は1つの結果に過ぎない。
本当に語りたいのは、彼がなにを愛し、なにに怒り、なにを夢想し、なにを嘆き、なにを笑い、なにに失望し、なにに焦がれ、なにに敗北したのか。そのすべてであり、それらを取り巻く人々のことなのだ。
この話は彼と出会った大学1回生の春から始まる。やがて舞台は追想の過去へと戻るはずだ。そしてその眩しく輝く時代の破滅と絶望を経て、時計の針は再び未来へと進み始めるだろう。
なんだか照れくさくなってきたのでこの辺にしておくけれど、1つ、追記したいことがある。
ここには、すべてではないけれど、幽霊やお化けにまつわる話がたくさん出てくる。
もし、あなたが夜寝る前に読んでしまい、どうしても怖くなってしまったなら、静かに目を閉じて欲しい。そしてある言葉を思い出して欲しいのだ――。

俺が大学3回生のとき、師匠はその大学の図書館司書の職についていた。
その年の夏ごろから師匠はかなり精神的に参っていて、よく「そこに女がいる!」などと言っては、なにもない空間に怯え、ビクビクしていた。
俺にはなにも感じられなかったが、師匠ほど霊感が強くないので見えないだけだと思って一緒にビビっていた。
秋のことだった。そのころ俺は師匠とはめったに会わなくなっていたが、あるときたまたま学食で一緒になって同じテーブルについた。
「後ろの席、何人見える?」

師匠が急にそんなことを言いだした。夜9時前で学食はガラガラ。後ろのテーブルにはだれも座っていなかった。
「なにか見えるんですか?」と訊くと、「いるだろう? 何人いる?」とガタガタ震えだした。
しかしなにも見えない。耳鳴りもないし、出るとき特有の悪寒もない。俺は困惑した。
俺は少し考えてから、「大丈夫です。なにもいませんよ」と言った。すると師匠は安心したような顔をして、「そうか。よかった」と言ったのだ。
そのとき、確信した。霊は後ろの席になどいない。師匠の頭に棲みついているのだと。
さっきの狼狽などなにもなかったかのように師匠は淡々と親子丼に箸を伸ばす。俺は、どうしようもない悲しい気持に襲われ、目の前の料理が喉を通りそうになかった。

その3日後に師匠は失踪した。職場である図書館になにも言わず、ただ辞職願いを残して。探すなという置手紙もあったそうだ。それを知っても俺は動けなかった。
自分でもなぜだったのかわからない。なぜだったのだろう。ふと思い返しても、探さない理由は思い浮かばない。
しかし、探し出していったいどうしようというか、それも思い浮かばなかった。結局、師弟関係はそのときもう終わっていたのだろう。
師匠の家庭は複雑だったらしく、叔母という人がアパートを整理しにきた。
凄く感じの悪い人で、親友だったと言ってもすぐ追い出された。普通、友人に失踪前の様子くらい訊くだろうに。結局アパートはあっという間に片付けられ、空になった。
そして予約でもしてあったのか、すぐに次の住人が入った。部屋から出てくるところを見たが、チャラついた格好の若者だった。師匠や俺の関わったようなものとは全く無縁の世界を生きているやつだろう。
そうして師匠のいた空間は、いつの間にか次々と別のもので埋まっていった。

俺が大学に入ったころ、所属していたサークルでまことしやかに流れていた噂がある。師匠に関する噂だ。
「あいつは人を殺してる」
冗談めかして先輩たちが言っていた。たぶん真実ではないかと思う。
師匠は酔うとよく口にしていたことがある。
「結局のところ、死体をどこに埋めるか。それがすべてだ」
自分に関する噂に悪乗りして、わざわざサービスをしていたのは明らかだったが、そんな話をするときの目がやたら怖かったのを覚えている。
師匠の車でめぐった数々の心霊スポットのことが思い出される。
とある山にある、皆殺しの家という名所に行ったとき、彼はこんなことを言っていた。
「不特定多数の人間が深夜、人目を忍んで行動する。そして怪奇な噂。怨恨でなければ、個人は特定できない」
聞いたときはただ気持ちが悪いだけで、なにを言っているのかよく分らなかった。しかしたぶん師匠は「恨みもなにもなく、ただ殺した人間」の死体をどこに埋めるのがいいか、という話をしていたのだ。
心霊スポットに埋めるのがいい。そううそぶく彼は、助手席に乗る俺を露骨に怖がらせようとしていた。
深夜そんな心霊スポットを巡る日々に、ドロドロとした疑念と畏怖を加えたのだ。実に悪趣味だ。だが、それさえある種の隠れ蓑だったような気がする。

以前、俺は師匠に連れられて、車で北に1時間以上かかる山間の町に行った。そこには、『もどり沼』とれる奇怪な場所があった。かつて天狗が空から落ちてきたという伝説があるのだそうだ。
やがて神社にまつられるようになった天狗のグロテスクな話を道みち聞かされて、俺は気分が悪くなった。『もどり沼』というのも、空から落ちてきた天狗にまつわる場所らしい。
「散々探してやっと見つけたんだよ」
深夜だった。車を降り、山に分け入って道なき道を進んだ。頼りない懐中電灯の明かりが照らし出す前方に、ぼんやりとした光が見えた気がした。ついで、水の生臭い匂いが漂ってくる。
「これが?」
沼だった。小さな沼が、人けのない山中に月の光を反射していた。
「そうだ。もどり沼だ。地元の人でも、もう知る人が少ないという曰くつきの場所だ。天狗を祀った神社が少し離れた場所にあるんだが、そこに由来と逸話が古文書で伝えられている」

沼の底に、大昔天狗が落とした珠(たま)が眠っているという。
かつて美しい泉があったその土地は、漏れ出る珠の呪力で沼となり、瘴気に満ちた恐ろしい場所になってしまった。
村人も寄りつかなくなったその沼に、ある日、流行り病で妻に先立たれた男がやってきた。この世をはかなみ、あとを追って死のうと思ったのだ。
淵に来るだけで命を吸われるような禍々しい瘴気が充満する沼に、男は足を踏み入れようとする。その前に、妻の形見である髪の毛の房を沼へ投げ入れた。
するとどうだろう。沼の中央がぶすぶすと沸き立つように揺れ、赤子の悲鳴のような恐ろしい声が、どこからともなく聞こえてきた。男は驚き、そばにあった潅木の裏に身を隠した。
波立つ沼がやがて静かになったころ、平らかな水面にいつの間にか人の顔が浮かんでいた。妻の顔だった。そう気づいた男は水に飛び込み、妻を沼の中から引きずり出した。
天狗の落としたという珠の力であろう。死人となったはずの妻があの世から戻ったのだ。
だが、妻は男の呼びかけに応えなかった。姿かたちは妻そのものだったが、その中には魂が宿っていなかったのだった。やがてなにも言わぬまま、人の形をしたものはモロモロと崩れ、泥に還っていった。あとには髪の毛の房だけが残っていた。
あまりの恐ろしさに山を駆け下りて逃げ出した男は、死ぬことをやめた。そしていつしか新しい妻を娶ることになった。
その暮らしは、つつましいながらも満ち足りた日々だった。新しい妻は器量こそ悪かったが、よく働き、男を立て、舅、姑を敬う、よくできた女だった。
数年の月日が経ったある日のこと、男は新しい妻を誘ってあの沼にやって来た。そして、拾って隠していた亡き妻の髪の毛の房を沼に投げ入れ、ついで新しい妻を沼に突き落とした。
泳ぎの達者であったはずの新しい妻は、もがきながら沼の底へ沈んでいった。まるでだれかに足を掴まれ、引きずり込まれているかのようだった。いつかのように沼は沸き立って揺れ惑い、やがて静かになると昔の妻の顔が水面に現れた。
男が沼から引っ張り出すと、妻は呆然としていたが、しばらくすると呼びかけに応え始めた。確かに妻だった。死んだはずの。今度こそ死人があの世から戻ったのだ。
男は妻の身体を抱き、咽び泣いた。

「酷い話ですね」
俺の感想に師匠は頷かなかった。かわりに、「ただの古い言い伝えだ」と呟いた。そうして、今でも腐ったような臭気を放つ沼にゆっくりと近づいていった。
「言い伝えにはまだ続きがある。男の話を伝え聞いたこの地方の庄屋が、若くして死んだ1人娘をあの世から呼び戻そうとして、同じことをしたんだそうだ。しかしうまくいかなかった。
娘の姿かたちをしたものは現れたが、魂が宿っていなかった。そしてあっという間に泥に還ってしまった。
女中を騙して沼に沈めたが、やはり同じだった。土地の代官もその話を聞いて同じことをした。息子を生き返らせようとして。やはり駄目だった。何人沼に沈めても。しかし、最初の男のほかにも、死人を蘇らせることに成功した者もいた」
師匠は沼の淵にしゃがみ込んで、淡々と語る。
「何が違ったんですか。死んだ人間を蘇らせるのに成功した人と、失敗した人で」
疑問を口にした俺に、師匠は薄ら笑いを浮かべ、「人の魂がどこから来るのかって話だ」と言った。そしてまともに答えないまま、沈黙した。
風でガサガサと木々が揺れる音があたりに渦巻いていた。俺は沼から離れた場所で立ち尽くしている。師匠は沼に淵にしゃがんだままちらりと振り返り、「来ないのか」と言った。
俺は首を左右に振り、あとずさる。いったいなにを恐れたのだろう。死人が蘇るなどというこんな与太話を?
「さて、帰るか」
立ち上がり、師匠は変に明るい声を出した。しかしその眼の奥に渦巻く暗い光を見た気がして、俺はもう一度あとずさった。
師匠の車のトランクを一度こっそり開けたことがある。しかし袋に詰まった土くれがあっただけで、なにも面白いものは隠していなかった。そのときのことをどうしても思い出してしまった。
 
師匠には恋人がいたが、俺が大学3回生になるときに県外で就職が決まり、去っていってしまった。カンのいい人で、そのころ狂いつつあった師匠から逃げたのかも知れなかった。
しかし、同じように卒業して去っていった先輩たちのなかで、不思議なことに彼女だけはその後、音信不通になってしまった。携帯電話も番号が変わってしまったのか、通じなくなった。師匠も連絡が取れないと言って心配していた。その心配が本心であればいいが、人の心の中は覗けない。
夜をさまよい、心霊スポットを、人の死の色濃い場所を巡り続けた彼は、いったいなにを求めていたのか。失踪した先には、求めるものがあったのだろうか。今はもうわからない。

師匠の忘れられない言葉がある。
俺が初めて本格的な心霊スポットに連れていかれ、怯えきっているときに師匠がこう言った。

『こんな暗闇のどこが怖いんだ。目をつぶってみろ。それがこの世で最も深い闇だ』
 
眠れない夜に、今でもその言葉を思い出す。

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