師匠シリーズ114話 見えない男


2015年7月10日 22:21

1回の秋だった。
「黒い手」の一件以来、ときどき覗いていた都市伝説などを語るサイト『ピーチロア』で、突発オフ会の参加者を募っているのを発見した。中高生が多く、大学生の自分には少々居心地が悪かった覚えがあるが、あまりに暇だったので行ってみることにした。
少し遅れて市内のファミレスに着くと、例によって目印の黒い帽子を被った一団が奥の席を占拠していた。
そのなかに、帽子だけではなく、全身黒いいでたちの少女がいた。忘れもしない、音響だ。この前はつけていなかった眼鏡をかけている。その眼鏡で、よりあざとさが増したような気がする。
みんなから、「どーも」という気の抜けた歓迎を受けた俺は、すでに会話の中心にいる音響を気にしつつも、テーブルの端に座った。
音響は黒い手を俺に押し付けたことなど忘れたかのように、こちらに視線を向けることもなく、同年代の男子たちのそわそわした態度に小悪魔的な微笑を浮かべていた。
俺は少々ムッとしながらも帽子に手をかけ、脱ぎながらふと浮かんだ疑問を口にする。
「そう言えば、どうして目印が黒い帽子なの」
「さあ? だいぶ前かららしいけど」
隣の女子が首を捻る。
「あ、オレ由来聞いたことある。なんか心霊スポット巡りしてたら、必ず黒い帽子の女に会うんだって。そいつが来る場所ってマジで出るらしい」
「そうそう。その女自身も幽霊だって聞いたことある」
何人かが相槌をうつ。どうやらそれも都市伝説の類らしい。
(黒い帽子か)
ふと、以前師匠の部屋で見つけた帽子のことを思い出した。
オフ会はドリンクバーだけで延々と続き、みんな取り留めのない噂話を嬉々として喋っていた。
「見えない男?」
くだらない噂ばかりのなかに、少々興味を引かれるものがあった。
「そう。たまに街なかにいるんだって」
透明人間の噂なんて、逆に新鮮だった。
「でも、見える人と見えない人がいて、なんかね。眼鏡かけてる人だけ見えないらしい」
「なにそれ」
笑った子に、周りの数人が「いや、マジでマジで」と説得するように連呼した。
あ。それを聞いて、俺も思い出していた。大学に入ったばかりのころ、サークルの友人と2人並んで街なかを歩いていて、前から男性が来たのでスッと避けたら、「えっ、どうした?」と友人が怪訝な顔をした。
「いや、人が来たから」と言ったら、友人は気味の悪そうな顔をして「だれもいないぞ」と言う。俺は振り向いてその男性の後ろ姿を指さして、「ホラ」と言った。友人はそちらを見ても「はあ?」と言ったきり、首を傾げていた。
そういえば、その友人も眼鏡をかけていた。
その体験を話すと、みんな「それだよ。間違いない」と言っていたが、俺は自分の眼鏡をわざとらしく指で軽く持ち上げた。
「あ、眼鏡」
そう。僕も眼鏡なのだ。だから、眼鏡をかけていると見えない、という条件に当てはまらない。
「じゃあ、それ違うね」
あっさりそう言われた。都合のいい情報だけ取り上げる、都市伝説らしいやりかただ。
「私も会ったな」
音響がポツリと言った。
「映画館のすぐ横の席でね。友だちにだけ見えてて、私には見えてなかった」
「やっぱり眼鏡だからだ!」
新顔らしい男子が嬉しそうにそう言うと、「でも普段はかけてないよね」と周囲の子が確認するように訊ねる。
「うん。今日はコンタクトが割れちゃって。また作らないと」
「えーっ、大丈夫?」
みんなの心配をよそに、俺はふと考えた。最近、大学で『交絡因子』という言葉を習った。
一見因果関係が成立しているように見える事柄の外に隠れた、真の原因のことだ。例えば「朝はバナナだけを食べている」人が、「太っている」確率が高かったとしよう。では朝バナナが肥満の原因だと言えるだろうか。いや、むしろダイエット法としてよく耳にするくらいだ。
しかし、この手の「○○だけダイエット」に手を出している時点で、肥満で悩んでいる人である可能性が高い。つまり、『ダイエット中の人』が、この例での隠れた交絡因子ということになる。
では、この『見えない男』という噂で、眼鏡をかけている人には見えない、という因果関係が同時に語られるが、音響の映画館のケースでは眼鏡をかけていなかった。これをイレギュラーとして弾く前に、交絡因子の存在を考慮してみるとどうだろうか。
コンタクトが割れて、今日は眼鏡。つまり、音響は視力が悪い。そして、普段眼鏡をかけている人も、もちろん視力が悪い。
つまり、『見えない男』の交絡因子は、『近視』だということではないだろうか。
その考えを披露してみると、思いのほか食いつきが悪かった。
高校生らしい男子が言った。
「2人とも眼鏡で目が悪いのに、自分だけそいつが見えたんですよね? それ実は伊達眼鏡とか」
「いや、度が合わなくなってきてるんで、もう換えるつもりだけど、それでもこんな」
そう言って目の前の男子に眼鏡を渡すと、かけた直後に、「うわ」と言って顔をしかめた。そうだろう、そうだろう。近眼には自信があるのだ。
「じゃあ近視だと見えない、ってわけじゃないじゃん」
「それは……」
当然の突っ込みに反論できなかった。
そもそも都市伝説に理屈など求めてはいけない気がするが。
「その見えない男ってどんな人?」と訊かれて、俺は「普通の人」と答えた。あまり印象に残っていない。中肉中背で、顔も普通だった気がする。
音響も「友だちが見たけど、地味だったって」と答えた。
まさか幽霊ではないだろう。そんな感じではなかった。なのに、なぜか人によっては見ることができない男……
こうして都市伝説じみた噂になるくらいなので、遭遇例が多いのだろう。しかし、街なかを歩いていたり、映画を観ていたり、普通の市民っぽい行動をしているようだ。襲われたり、祟られたりといった怖い噂になっていないのが、むしろリアリティを増している。
というより、単にものすごく印象に残らないというだけの、かわいそうな人のような気がする。
その後、話題は別の都市伝説に移り、音響が、「あ、もう帰んなきゃ」と言い出したところで、オフ会は解散となった。
俺はそのかわいらしいだけではない、『こっち側』の気配を漂わせている音響という少女と、もっと話したかったけれど、向こうがこちらに対して興味を示さない以上、こちらからアプローチするのははばかられた。音響が周りの好意むき出しの男子たちをあしらっているのを見て、その仲間に加わるのだけは、俺のささやかなプライドが許さなかった。

それから1週間ほど経って、俺は眼鏡の新調を思い立った。
大学に入ってからパソコンの画面をやたら見るようになったせいか近視が進み、高校時代から使っていた眼鏡の度が合わなくなってきたのだ。
以前はいつも馴染みの眼科で検査してから眼鏡を作っていたのだが、新しい街なので眼科自体どこに行っていいのかわからない。いきなり眼鏡屋に行っても作れるのだろうが、少し不安だった。
結局、ネットで評判を確認した、そこそこ大きな眼科に行くことにした。
院内はお客さんが多く、評判どおりだと思う半面、待ち時間の長さにイライラした。やっと自分の番がきて、簡単な問診のあと、きき目テストなどをしてから、「次はこの機械にアゴを乗せてください」と言われた。視力を測る機械だろう。
担当の看護婦は、機械的に客をさばくのに慣れすぎているのか、視線を合わせようともせず淡々と検査を進めていく。
「はい、じゃあ大きく目を開いて、まっすぐ正面を見ていてください」
言われるままに箱型の顕微鏡のような白い機械にアゴを乗せて、片目でレンズのなかを覗き込む。
丸い視界のなかに、草原のかなたへと一直線に伸びる道路の絵が映っている。
その道路の途中に1人の男が立って、こちらを見ている。
と、次の瞬間、機器の作動によって強制的に視界の焦点が水平線へと移った。道路の端が見えなくなるあたりに、大きな赤い気球が浮かんでいる。それがくっきりと見えたかと思うと、また視界の焦点が変わり、水平線のあたりはぼやけて、逆に道路の手前側がくっきりとして見えた。
また道路に立つ男の姿を見た瞬間、俺の頭になかにひやりと風が通ったような感覚があった。
(え……?)
また焦点が気球のほうへ移る。そしてまた戻る。男はこちらを向いて立ったままだ。
「はい。終わりました」
看護婦の声に我に返る。
俺は自分のなかに湧きあがってきた奇妙な感覚に、思わず、「もう1回見せてもらっていいですか」と口にしていた。
「は?」
看護婦はフレンドリーさをまったく感じない口調で訊き返すと、「次の方も待っていますので」とこちらの罪悪感をわざと呷るような戸惑いの口調で答えた。
食い下がるだけの強い気持ちもない俺は、「はあ」と言って、その白い機械を眺めた。
今まで受診していた眼科では、同じような機械だったが、なかの絵は道路の上に大型トラックが停まっている構図だった。
こんなものはどこも同じだと思っていたが、メーカーによって違うのだろうか。テキパキと客を捌きたい看護婦の冷たい視線を受けながら、俺は機械の側面についていた表示を確認した。
《 JFR‐T2 ㈱角南精機 》
そう書いてあるのが見えた。
角南……。この街でよく目にする名前だ。地元企業だろうか。
「次はこちらで視力を測っていきます」
看護師は黒いCのマークの並ぶパネルのところへ俺を促す。
決められた順序に従って検査が進むなか、俺の頭のなかには、ひとつの奇妙な考えがぐるぐると回っていた。
なぜそんなことを思ったのだろう。つい先日話題に上ったからか。それにしても、荒唐無稽じゃないか。
たった一度だけ会った、『見えない男』が、眼科の視力検査の機械のなかにいるだなんて。

それから数日が経った。
『ピーチロア』のほうをずっと見ていたが、特に変った話はなかった。音響も現われない。
そして久しぶりに覗いた本来のマイホームである、『灰の夜明け』のログで、ビクリとするものを見つけた。

 音響:見えない××× 明日19時このまえのとこで

その新顔の単発の発言にはだれもレスをつけず、そのままスルーされていた。
音響だ。俺にはわかる。ピーチロアと灰の夜明け、両方を見ている俺にだけわかるメッセージ。ログは昨日。指定は今日だ。慌てて時計を見る。18時過ぎだ。よかった。まだ間に合う。
俺は身支度をしながら、胸が高鳴っているのを感じていた。その鼓動は、気になる女の子に会うという期待感から来るもののはずだった。けれど、その心地よい鼓動を乱す不穏な予感のほうが勝っていた。
音響はコンタクトが割れたと言っていた。当然、コンタクトを新調するため、俺と同じように眼科か眼鏡屋で視力検査をしたはずだ。そして……。
2人が同時に同じことを思ったとしたら、それは妄想だとしても、なにか意味のある妄想なのかも知れない。
そんなことを考えながら、ファミレスに着いた。先日ピーチロアのオフ会で行った店だ。
自転車を停めていると、「時間ぴったし」と声をかけられた。音響だ。いつものゴシックな服装に、今日は眼鏡をしていない。やはり、コンタクトを作ったのだ。
2人で店に入り、変な話をしても大丈夫なようにと、ガラガラの奥のほうの席を選んで座った。すぐさま店員が箸やフォークのセットと水を持ってくる。
音響はカツカレーとサラダを注文し、俺はポテトフライを頼んだ。
(こいつ、がっつり食う気か)
と少しあきれて、「奢らないからな」と念のために釘を刺した。眼鏡とコンタクトを買い直した者同士なのに、なぜこんなに財布の紐の堅さが違うのだろう。
カレーを食べ終わるまで待たされて、ようやく本題に入った。
「やっぱり眼鏡換えたんだ」
音響はそう言って手を伸ばし、俺の眼鏡を外してフレームを見た。そして眼鏡を返さないまま、こちらに指を立てて見せた。
「2本」
「残念、チョキでした」
俺は眼鏡を取り返し、「そっちはコンタクト、こっちは眼鏡。新しいものを買うには避けて通れないってわけか」と言うと、音響は「やっぱり気づいてたね」とテーブルに肘をついて顎を載せた。
「『見えない男』が見えない人の共通点についての仮説①、眼鏡をかけている」
音響は肘をついていないほうの手で、指を1本立てて見せる。
「わたしはコンタクトで、眼鏡はかけていないのに見えなかった。あなたはかけているのに見えていた。のでバツ。で、仮説②、近視」
それは俺が唱えた説だ。
「わたしもあなたも目が悪い。のに、あなたには見えた。のでこれもバツ」
音響は3本目の指を立てる。
「そして仮説③、この街で、他覚的屈折検査を受けたことがある」
想像していたより小難しい単語が出てきて、「んん?」と言いそうになったが、なんとか取り繕って頷いてみせる。そして言った。
「そう。眼鏡やコンタクトを作るには視力検査を受ける必要がある。あの機械で。大学に入る前に俺が住んでいたところでは、なかの絵は大型トラックが道の先にある構図だった。大学のいろんな地方の出身者に訊いてみたけど、気球の絵のパターンがほとんどだった」
「逆に、この街で生まれた私にはわからなかった。あのレフラクトメーターの絵が、ほかでは使われていない特殊な構図だってことが。地元の友だちに片っ端から訊いてみたけど、どの眼科のレフラクトメーターも、やっぱりあの絵だった」
レフ?
また知らない単語が出てきたが、どうやらあの視力検査の機械の名前らしい。とりあえずさもわかっている風に頷いてみせた。
「角南精機っていう地元メーカーが作ってるやつで、この街ではシェアがほぼ100パーなんだって」
俺は目の前で肘をついているかわいらしい黒服の少女を、驚きの顔でまじまじと見ていた。
こいつは、みんな見た目で騙されているかも知れないが、やはり油断できないやつだ。
「お前も、あの絵の道路に立っているやつが、都市伝説の『見えない男』だと?」
音響は答えるかわりに、「ケーキ食べていい?」と訊いてきた。先を促そうと思わず頷いてしまったが、これは俺の奢りという意味になってしまったのだろうか?
嬉々として注文をする音響を見ながら、これも策略だったような気がして変な身震いをしてしまった。
「サブリミナル効果ってあるでしょ」
イチゴのショートケーキにフォークを刺しながら音響は言った。
「映画館でフィルムの何カットかに1枚、コーラを飲めっていう文字を差し込む実験をしたら、一瞬すぎて見えてないはずなのに、観客はみんなコーラを飲みたがったっていう話」
「それ都市伝説だろ」
「でも、潜在意識に直接影響を及ぼす視覚、聴覚の効果についてはまだわかってないことが多い。ディズニーの『ライオンキング』で、星空に一瞬《SEX》の文字が浮かんで見えるのは知ってる?」
「おい」
音響の口からセックスなんていう言葉が堂々と出たことに驚いて、思わず周囲を見回してしまった。
「ディズニーアニメって、性的なサブリミナル効果を利用して、戦略的に子どもを引きつけてるんだって」
「陰謀論かよ」
オカルティストの鑑だな。イチゴのショートケーキにかぶりつくオカルティストを見ながら、そのギャップに苦笑する。
「レフラクトメーターの絵だとね……」
音響は最後に食べたイチゴの余韻を楽しむかのように、唇をペロリと舐めてから続けた。
「地平線のトラック、浮かぶ気球、赤い屋根の家…… 普通のメーカーのものだと、どれもそこに視点を集中させるための構図になっている。なのに、この街の機械では、気球の手前に男が立っている。まるで邪魔するみたいに」
そうだ。邪魔なのだ。「まっすぐ正面を見てください」と言って、視点を一点に集中させようというときに、気球の手前に人間が立っているのはおかしい。どちらを見ていいかわからなくなるからだ。
「でもすぐに機械のフォーカスで、視点は無理やり気球に合わせられる。周りがぼやけてしまうから」
「じゃあその男の意味がない」
あいの手を入れながら、俺はまるで師匠と話しているようだと感じていた。
俺もおそらく音響と同じ想像をしている。けれど、あえてこの少女の口から聞きたいと思ったのも、つくづくこういうポジションが染み付いてしまっているからなのかも知れない。
「そう。気球に視点は集中して、フォーカスから外された男は、いないのと同じ扱いにされる。見るべき対象じゃない。『見えているのに、見えない』」
それでサブリミナル効果か。脳のどこか奥のほうに、インプットされてしまった情報。
この男は、見えない。
あらためてゾクリとした。うっすらと考えていたことを、音響が綺麗に言葉にしてしまった。
「でもあの絵では小さすぎる。顔もよく見えない」
「3000分の1秒の『Drink Coke』と同じよ。潜在意識に埋め込むための手法ね」
いやにコークの発音上手いな。
「俺は前にそいつを一度見てたけど、見てないお前はなんでわかった?」
「耳鳴りがした」
耳鳴り。その言葉にドキリとする。俺も、この世のものではないものと遭遇するとき、耳鳴りがする。
「嫌な感じ。あの絵の男は……」
音響は口をつぐみ、確かめるように頷いた。
「普通じゃない」
恐れを抱きながら、それをなお見つめようとする、『こっち側』の表情だった。
「『黒い手』は本物だった。どこのサイトも、くだらない人たちばかりだけど、あなたは逃げ切れた」
「だから俺も、眼科に行けば気づくと?」
ご期待に沿えてなによりだ。少女らしい見た目に反していやに大人びた語り口を見せる音響に、俺は最後の疑問を口にした。
「なぜ、そんな絵を作ったんだろう」
「わからない。ただひとつ言えるのは……」
そこまで話した音響がふいに言葉を切った。その顔はすぐさま驚いた表情になり、そのまま凍りついていた。
どうした? そう訊こうとして、ただならない様子に俺も息を飲む。
音響はまっすぐ俺のほうを見ている。けれどその焦点はどこにも合っていない。
前を向いたまま、音響は汗をかいたグラスの下の水滴で、テーブルに文字を書いた。
《みないで》
その瞬間、俺は首のなかに鋼鉄の芯棒が入ったような気がした。
隣のテーブルに、だれかいる。
まっすぐ音響を見つめたまま、俺の全神経は視界の端に映るだれかに向けられた。
だれだ?
でも振り向けない。店内の空気が濁るような異様な気配が、そちらから溢れ出ている。
男だ。顔はよく見えない。いつからいた? 店に入ったときにはいなかったはずだ。さっき音響の際どい発言に、思わず店内を見回したときも気づかなかった。
視界の端で、顔のぼやけたそいつの席には、水も、スプーンや箸のセットも置かれていなかった。
俺たちにも、店員も気づかれず、そいつはいつの間にかそこにいた。
見えない、男。
じわじわと全身が嫌な汗をかきはじめたとき、その男はスッと席を立った。そして静かに歩いて出口へ向かって行った。
店を出るまで、店員のありがとうございました、の声も聞こえなかった。
ふいに喧騒が戻った。ファミレスのざわざわした空気が。
俺と音響は金縛りが解けたように息を吐いた。
「嘘だろ」
思わず口にした。追いかけるなんて発想はなかった。やり過ごすしかない、ということが直感でわかったのだ。あいつは、やばすぎる。
「なんでそいつが、今ここに現われるんだ?」
「ネット」
青ざめた顔で音響は呟いた。
「少なくとも『ピーチロア』と、あなたたちの『灰の夜明け』、両方を見ている」
そうか、今日ここで俺たちが会うことを知っているのは、両方のサイトのユーザーだけだ。
そんな奴は俺だけだと思っていた。
Koko、みかっち、京介、ワサダ、山下、wak、伊丹、みら吉、ひとで、ドラ……。
『灰の夜明け』のメンバーたちの名前が脳裏に揺らめく。顔を知っている人もいれば、知らない人もいる。
「レフラクトメーターに仕込まれたサブリミナル効果について、ただひとつわかるのは」
音響はかすかに震える声で、さっき言いかけた続きを口にした。
「目に見えないなにかが、目に見えない存在であるために、この街に住む人間に仕掛けた悪意のかたまりだと言うこと」
ただ見えない、というだけの都市伝説的な存在ではない。それを知ったのは、俺たちだけなのかも知れない。そいつは、匿名の世界に潜んで、じっとこちらの世界を見ている。
得体の知れない嫌な予感が体のなかに満ちるのを感じながら、俺はしばらくのあいだ、目の前の少女と見つめあっていた。

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