大学3回生の春だった。
正確に言うと、2回生が終わり、3回生の最初の授業を迎える前の、短い春休み中のことだ。
そのころ俺のオカルト道の師匠は、知らない間に我が大学の司書の職にありつき、「もう僕の教えることはない」などと言いながら、この春に大学院を卒業していた。
そのころ師匠は俺に、心霊スポットに行くような実地訓練を施すよりも、昔話ばかりをするようになっていた。師匠自身が、オカルト道の弟子としてオカルトにどっぷり浸かりはじめた馴れそめの話だ。
その昔話のなかでは、まるで1回生のころの俺のような初々しい師匠が、その師匠である加奈子さんという女性と毎日のようにオカルト三昧の日々を送っている。どの話も、信じられないような体験ばかりだ。それを懐かしそうに、そしてそのときの恐怖を思い出したような畏怖の表情をかすかに浮かべながら、師匠は滔々と語った。
まるで、自分がオカルトの道から身を引くために、オカルトの知識・体験をすべて俺に伝承しようとしているかのようだった。
しかし師匠の誤算は、師匠が加奈子さんに抱いていたような執念が、俺にはなかったところにあった。その差が生まれている要因は、明らかだ。俺は師匠に、憧れの感情をもっていたが、師匠が加奈子さんに持っていた感情は、それだけではなかったということだ。俺は不肖の弟子ではあったが、せめてオッサンの昔話にはつきあってやろうと、耳だけはいつも傾けていた。
その師匠が春休みのある日、俺を呼び出して街なかの雑居ビルに連れていった。人通りの多い路地から、1本入った通りで、普段はよりつかない場所だった。
俺には見覚えがあった。地元のオカルトフォーラムである『灰の夜明け』のメンバーだった、京介さんのバイト先だ。大学1回の秋ごろに、師匠が嫌がらせで蓑笠を着て突撃しようとしたことがあった。そのイタズラの開始直後になぜか師匠の急にテンションが急降下して、あっという間に京介さんに追い出されたのだった。
あれ以来だ。雑居ビルの1階に、その京介さんのバイト先だった喫茶店ボストンが、いまも変わらずに看板を出していた。
師匠は、喫茶店ではなく、ビルの上のほうの階を見上げた。2階は消費者金融の看板が出ている。3階の窓には、『服部調査事務所』の文字。
そのころは、俺も師匠から多くのことを聞いていた。『服部調査事務所』の前身は『小川調査事務所』という名前で、在りし日の加奈子さんや、若かりし日の師匠が調査員のバイトをしていたことを。それも、ただの興信所の仕事ではなく、『オバケ』と呼ばれる、奇妙で不可解な依頼ばかりをもっぱら引き受ける、特殊なバイトだった。
俺は師匠から、そこでの冒険談を聞かされるたびに、その調査事務所に興味を覚えていた。ただ、ひとりで勝手に覗きにくるのは、師匠が自ら近づかないことで守っている聖域を、汚すような行為である気がして、自重していたのだった。
「どうしてここに?」
思わず訊ねると、師匠は「ま、一度くらいはな」と言ってビルの入り口に向かった。
カンカン、という安っぽい音のする階段を上がり、3階のフロアにたった1つあるドアをノックする。
「どうぞ」
なかからの応答に、師匠はドアを開けて、「お久しぶりです」と挨拶をした。俺もそれに続く。
小ぎれいなオフィスだった。デスクが4つ。そのうちの奥のデスクに男性が座っている。眼鏡をかけていて、背筋のピンとのびた人だった。その細められた目つきには、こちらを値踏みするような冷たさが感じられる。
「僕の弟子です」
あらためてそう紹介されると、妙に恥ずかしい。頭を下げながら、うわぁ、と言いそうになった。しかし、師匠と男性の間には、そういう言葉が通じる雰囲気があったようだった。表情をピクリとも変えず、男性は立ち上がった。
「服部所長だ」
師匠の紹介と同時に、服部さんは右手を差し出してきた。師匠の昔話のなかで、ニンジャと呼ばれていた人だ。
握手を済ませると、応接用のテーブルにつくように促された。
「で、どういう風の吹き回しなんですか。あなたが、『オバケ』を引き受けるなんて」
服部さんの切り出した言葉に俺は驚いて、師匠の顔を見た。
師匠は俺と服部さんのどちらに対してのバツの悪さなのかわからないが、とにかくうしろ頭をかいて、「あー」と口にした。
「まあ、僕ももう就職したし、こいつに僕がやってきたことを、一度見せておきたかったんですよ」
「……『オバケ専門』の調査員がいるっていう噂は、未だにこの業界にありましてね。彼女が死んでからもう何年も経つのに、人づてに聞いて、ここへ訪ねてくる人がいるんですよ。私がオーナーから事務所を預かったとき、真っ先にあなたに連絡しましたよね。また、来てもらえないかと」
「あのときは、済みませんでした。断ってしまって。でも、連絡をいただいたときにはもう、僕のなかでは終わったことでしたから」
「終わったことということなら、私にとっても終わったことです。『オバケ事案』なんてものは。そんな依頼を引き受けることができる人間がいない以上、それはただの不良案件ですよ」
服部さんはニコリともせずに、師匠の目を見つめながら続ける。
「と、言いたいところですが、これが金に換えられれば、と思うことは今でもあります。奇妙な依頼人にお引取り願うたびに」
応接テーブルの上に、一枚の写真が差し出される。50歳くらいの女性が、三毛猫を抱いてこちらを向いている写真だった。
「ご要望のあった、『オバケ』の依頼ですよ。つい先日お断りをしたばかりでしたが、あなたから『オバケ』の調査を引き受けたい、という電話を受けて、すぐに連絡をとりました。やっぱり、ご相談に乗れるかも知れない、と。この依頼人はお世話になっている方の紹介でしてね。恩を売っておきたいというのもあります」
師匠が、『オバケ』を引き受けるのか。あの何度も聞かされた昔話のように。俺は信じられない思いで、師匠と服部さんのやりとりを聞いていた。
「依頼人は、野原静枝(のはらしずえ)さん、51歳。独身で、市内の一軒家に三毛猫と2人暮らし。最近、家のなかで、なにも異常がないのにガラスが割れる音がする、などの怪現象に悩まされているそうです。原因をつきとめて、怪現象を防いで欲しい、というのが依頼内容です。どうですか。できますか」
「まあ、たぶん」
師匠はまったく気負った様子もなく、ボソリと言った。服部さんは、ソファに深く座りなおして、息を吐いた。
「私は、幽霊なんて見たことがありません。存在も信じていない。あなたたちが、どのような力で問題を解決しているのか、正直よくわかっていません。ですが、あなたの力が彼女より劣っていることはわかります。それでも、できると?」
さらっと、毒を吐いた。服部さんは、意図的に師匠を挑発しているわけではないようだ。ただ冷静に分析しているように見えた。
師匠はその言葉を聞いて、どこか嬉しそうな表情を浮かべた。
「あのころの僕じゃありません。見るだけなら、たぶん、あの人にも負けない気がします。だから、なんとかしてきますよ」
「……」
服部さんは、師匠の言葉を吟味しているようだった。
「ああ、それでも、僕のほうが劣っているという評価は、間違いなく合っていますよ。僕もそう思います。あの人に勝てるのは、だれもいない」
師匠の言葉には、暗い炎が揺らめいている。俺は、その言葉に思わず耳を塞ぎたくなった。
「いいでしょう。ただし、報酬は成功報酬です。そのかわり、彼女がもらっていた額と、同額を出します。あのころのあなたがもらっていたような、雀の涙ではありませんよ」
それを聞いて、師匠はニヤリと笑って言った。
「フクロウの涙でしょ」
◆
その翌日、俺と師匠はスーツを着込んで、住宅街の一角にある家の前に立っていた。
2階建てで、小ぶりな庭がある簡素な家だった。師匠がインターホンで来意を告げる。俺は隣の師匠の格好を改めて眺める。
似合わない。
ていうか、スーツなんて持っていたのかこの人。そんな感想を抱いたが、考えてみれば大学図書館とはいえ、就職できたのだ。スーツくらい持っているだろう。
俺も人のことは笑えない。大学3回生になろうというのに、まったく就職活動のことなど考えていない俺は、リクルートスーツなど持っていない。入学式で着たスーツをひっぱり出してきて、まだサイズ的に入るのかどうか、おっかなびっくり着てきたところなのだ。
師匠が言うには、興信所なんて胡散臭い業界だけど、だからこそ身なりだけはちゃんとしておいたほうがいい、とのこと。いつもホットパンツ姿でうろうろしているイメージがある、前任者の加奈子さんのことを引き合いに出して、あれはどうなのか? と訊いてみると、「あの人は、天性の人たらしだ。真似をすると痛い目を見る」と言った。
たしかに、よく無礼な態度をとっているのに、年配の人にやたら好かれている印象がある。それもこれも、師匠からの伝聞だから、どこまで本当なのかわからないけれど。
「はあい」
玄関のドアが開いて、女性が出てきた。依頼人の野原静枝さんだ。
「ちらかってますけど」
と招き入れられた家は、まったくそんな様子はなく、玄関も廊下も、綺麗なものだった。スリッパを履いてから、案内されたリビングも、家具がよく整理されていて、よけいなものは一切ないような印象だった。ただ1点を除いて。そのことについて訊ねる間もなく、「おかけになってください」と促された。
言われるままに、ソファの前のテーブルについて、自己紹介をするとき、師匠は名刺を出した。以前使っていた、『坂本』という偽名の名刺だ。そういえば、昨日服部さんに渡されていた。まだ残っていたんだな、と思っていたが、よく考えると、師匠がそれを使っていたときとは、事務所の名前が変わっている。そ あ、まずい、と思ったときには、野原さんの手に渡ってしまった。しかし、横から覗き込むと、ちゃんと『服部調査事務所』になっている。昨日、師匠が訪ねる前に、服部所長がわざわざ作っていたのだろうか。いや、違う気がする。いつ師匠が依頼を受けるようになってもいいように、以前から準備していたのではないか?
その、いつ戻ってきてもいい、というメッセージをこめた名刺を受け取った師匠は、なにを思っただろうか。
「こっちは見習いの」と師匠に振られ、「岩崎です」と頭を下げた。もちろん偽名だ。
「さっそくですが、詳しいお話をお聞かせ願いたいのですが」
師匠が切り出すと、野原さんは不安げな様子で話し始めた。
「あのう。私、お恥ずかしい話ですが、結婚もせずこの年になってしまって、このとおり猫と2人暮らしなんです。あ、この子は、まめと言います。女の子で、今年で5歳になります」
野原さんはソファのうえで猫を膝に抱いている。写真でみた三毛猫だ。よほどかわいがっているのだろう。猫も懐いた様子でおとなしく座っている。
この家は持ち家で、野原さんは商社で事務職をしていると自己紹介をした。見たところお金には困ってなさそうだった。
「このごろは物騒なことも多いでしょう? 一人暮らしをしていると、いろいろと心細いこともあります。でも、まめがいてくれて、私本当に助けられています。一人じゃないって思えて、心が楽になるというか……。でも、この1ヶ月くらい、怖いことが立て続いて起きたんです」
最初は、夜中、そろそろ寝ようかというころに突然、2階から窓ガラスが割れるような音が響いたそうだ。びっくりして、恐る恐る2階に上がると、どの窓も割れておらず、まったく異常はなかった。おかしいと思って家じゅうの窓や、台所のガラス製品など確認したが、割れたものは1つも見当たらなかった。うとうとして寝ぼけていたのかも知れない、と思って気にしないようにしていたが、数日後にまた同じことが起きた。
なにも割れていないのに、家のなかからガラスが割れたような音が聞こえたのだ。それだけでは終わらなかった。ガラスだけはなく、なにか大きな家具が倒れたような、バタン、という音や、ドアが乱暴に閉められたような音も聞こえるようになったという。ドアは最初から閉まっているし、倒れた家具もない。それどころか、最近になって、なにか視線の端をスッと避けるような影を見るようになったそうだ。
「影?」
「え、ええ。はっきりとは見えないんですが、廊下へスッと動いて消えたり、階段のほうへなにかが上っていくような影を見たり」
なるほど。完全に『オバケ』事案だ。普通の興信所や探偵事務所に持ちこんでも、相手にされないだろう。まして警察なんかには相談できない。そう思っていると、師匠がゆっくりと訊ねた。
「失礼ですが、以前から霊感というか、そういう不思議なものを見たり、聞いたりということはあったのでしょうか」
「いえ、ありません。全然」
野原さんは、目の前で手のひらをブンブンと振る。
「こどものころ、祖父が死にまして。法要のあと精進落としでお食事をいただいていたとき、その死んだ祖父がすーっと廊下を通ったそうなんです。親戚一同驚いたそうですが、私栗きんとんを食べるのに夢中で、一人だけ気づかなかったくらいで」
「栗きんとんですか」
俺は思わずそう訊き返した。
それは、親戚が集まったときの鉄板ネタになりそうな話だ。たぶん、今でも話題にされて笑われているのだろう。
「なるほど。ちょっとなかを見せていただいていいですか」
「ええ、どうぞ」
師匠と俺は、そのガラスが割れたような音がしたという2階に案内された。部屋が2つと、小さな物置があったが、どの部屋の窓も普通の窓ガラスで、特におかしなところはなかった。そのうちの1つは、ベランダに続いている。一応外に出てみたが、ごく普通のベランダで、音を立てそうなものはなにもなかった。
「師匠。なにか感じますか」
小声でそう訊いてみたが、返事はなかった。
続いて、1階の台所や各部屋を見せてもらったが、そこでもとりたてておかしなところはなかった。昼間だからだろうか。もしかすると、夜にもう一度出てこないといけないかも知れない。めんどうだな。
ただ俺は、1点だけ、家に入ったときにすぐに目に入ったものが気になっていた。それは、目張りだ。柔らかい厚手の絨毯生地のようなものが、家の廊下や室内の壁をぐるりと巻くように貼り付けられている。
そのことを廊下で訊ねてみると、野原さんは「ああ」と言って、「まめ」と猫を呼んだ。
「にー」と言いながら、猫は走ってくる。野原さんの足元にくると、すりすりと頭をこすりつけた。野原さんは猫を抱きあげながら言った。
「この子は、目が見えないんです」
ああ、それでか。納得がいった。
さっき飼い主の膝に座っているときは、心地よさそうに目を閉じているだけに見えたが、抱き上げられた猫の両目は、今も張り付いたように閉じたままだった。
「なるべく障害物がないようにと、家具の位置には気をつけていますが、なにしろ走り回るものですから。しょっちゅう壁に頭をぶつけるので、怪我をしないようにこうして家じゅうに緩衝材を貼っているんです」
「さっきも呼んだら走ってきましたけど、目が見えないようには思えないですね」
俺は感心して、猫の顔の前に、指を持っていった。猫は飼い主に抱かれたまま顔を伸ばし、目を閉じたまま鼻先でその指の匂いをかいだ。
「この子にとっては、見えないのがあたりまえですから。音とか、匂いとかでいろいろなことがわかるんでしょうね。あと、家のなかのことは、だいたい記憶できてるんだと思います。ご飯とか、トイレの場所も間違えずにスイスイ歩けるんですよ」
まめ。と言いながら、野原さんは小さな布のボールを投げた。そのお手玉のような赤いボールは、なかに鈴が入っているようで、リンリンリンと鳴りながら廊下を転がっていく。猫はその布ボールを追いかけて走る。そしてすぐに捕まえて、前足ではじいて遊び始めた、
「でも興奮するとわからなくなるみたいで、あ、ほらぶつけた」
まめは廊下の壁にぶつかったが、そんなことおかまいなしに、転がるボールを追い回している。
俺はそれを見ていて、胸が暖かくなった。まめは、目が見えないというハンディキャップを持っていても、普通の猫と同じように暮らしている。家の家具を少なくしたり、家じゅうの壁に緩衝材を貼って、怪我のないように気をつけている。その野原さんの優しさと、猫にそそぐ愛情を見て、感動してしまった。
リビングのソファに戻って、師匠と俺は野原さんと向かい合った。
「どうでしょうか。なにかわかりましたか」
野原さんは心配そうに身を乗り出した。まめは、また飼い主のそばに座っている。2人の客に、どこか警戒しているのかも知れない。
「そうですね……」
師匠はそう言って、なにか考え込んだ。考え込みながら、俺のスリッパの先を軽く踏みつけた。野原さんには気づかれないように。
?
俺はなにが起きたのかわからず、師匠の顔と依頼人の顔を交互に見たが、なにごともないようだった。しかし、次の瞬間、視界の端になにか異変をとらえた。
影だ。小さな影が、リビングの奥の壁のあたりに見える。
なんだ?
ゾクリとする。目を凝らしたが、よく見えなかった。
「なにか心当たりは?」
師匠にそう訊ねられ、依頼人は答えにくそうに、視線を上下させた。
「あ、いえ、その……」
なにを言いよどんでいるのだろう? 心霊現象としか思えないできごとに、困惑しているのはわかるのだが。明らかに、なにか言葉を飲み込んでいる。
師匠は質問を変えた。
「失礼なことをお訊きしますが、メンタルクリニックなどにはかかられましたか?」
「ええ。そういうことが続いて、寝不足にもなってしまって、仕事にも支障が出ていたので。診察を受けましたが、なんらかのストレスが原因かも知れないと言われました」
「お薬は?」
「いえ、まだそこまででは。……続くようなら、また受診して、様子をみる、ということになっていましたが」
「それで、まだ続いている、と」
野原さんは、語気を強めて言った。
「でも、聞こえたのは本当なんです。この子も……。この子も聞いて、驚いていましたから」
「猫も?」
師匠と俺は揃って三毛猫のまめを見た。飼い主のすぐ横のソファに座っているが、香箱をつくってはいなかった。どこか落ち着かない様子でキョロキョロとしている。さっき野原さんの膝にいるときは、寝ているかのように大人しくしていたのだが。
その猫の視線が、壁際に向かう。小さなもやのような影が、そこにあった。
見ている? 俺は緊張した。師匠は淡々とした様子で質問を続ける。
「その心当たりは、もしかして、以前の家族では?」
「え?」
「例えば、先代の、猫」
それを聞いた瞬間、野原さんの表情が変わった。まず、嬉しそうな顔に。次に強張った顔に。
「なにか、見えたんですか」
身を乗り出した依頼人の真剣な口調を聞いて、俺は気づいた。言いにくそうにしていたのは、師匠の霊感を疑っていたからだ。もし、自分から、ひょっとして以前飼っていた猫が……? などと口にしていたら、インチキ霊能者であれば、さも最初からわかっていたかのように振舞ったことだろう。そうなればそのあとの言葉の信憑性はないに等しい。
しかし、師匠はその言葉を聞く前に、あたりをつけた。本物なのだ。そう思った依頼人は、ここぞとばかりに師匠にすがりつく。
「教えてください。猫の霊が、見えたんですか」
「ちょっとお待ち下さい。まだはっきりとは申し上げられません。少し時間をください。確認したいことがあります。その……。霊道といいますか、そういうものの流れがどうなっているのか、ご自宅の外を確認してきます」
師匠はそう言って立ち上がる。俺も続けて立ち上がりながら、師匠の口から霊道、という言葉が出たことに戸惑っていた。あまりそんな言葉を使わない人だったからだ。
「すぐ戻ります。そのままお待ち下さい」
野原さんを残し、師匠と俺は玄関から外に出た。
「師匠」
背中に呼びかけると、「しっ」と言って、師匠は振り返り、野原家の玄関を見た。野原さんが出てきていないか、確認したように見えた。
「よし、少し聞き込みをするぞ」
その言葉に驚いた。聞き込み? いま、俺が感じた霊的な影に、師匠はなにかわかったことがあるのだろうか。
師匠は2軒隣の家のチャイムを鳴らした。
「はいはい」
出てきた主婦に、営業スマイルで話しかける。
「そこの、野原さんのことで少し伺いたいことがあるのですが。あ、私こういうものです」
「はあ。あら、あら」
師匠の出した興信所の名刺に、主婦は興味をひかれたようだ。
「あら、野原さん、あら」
その興奮した様子を見るに、どうやら主婦は結婚相手の調査と思ったようだった。もちろん、師匠はそう思わせるために、わざわざ名刺を出したのだ。隣近所でも、独身の野原さんに良い話がないか、世話を焼いていたのかも知れない。もちろんただの野次馬根性かも知れないが。
「野原さんねえ。もちろん良い人ですよ。町内会の仕事もきちんとしてくれるし。上品ですし。え? 猫ちゃん? ああ、まめちゃん目が見えないでしょう。でも、とっても可愛がって、本当に仲のいい家族なんですよ。野原さん、近所に野良猫がうろうろしていたら、保護してあげて、里親探しを本当に一生懸命なさってるのよ。なかなかできないことよ。まめちゃんも元捨て猫でねぇ。保護してるときに、病気かなにかで目が見えなくなっちゃって。もらい手がないからって、ご自分で育てて……。うちで今飼ってるミーコちゃんも、野原さんが保護してた猫ちゃんなのよ。少しでも協力してあげたくなっちゃって。ほんと、野原さん優しいかたよ」
話し始めるとなかなか止まらない。
その後も、数軒の家を回ったが、どの主婦も同じような話をしてくれた。
「こんなところかな」
話を聞き疲れて、ため息をつきながら、師匠が言った。
「師匠、まずくないですか」
「なにが」
「いや、これ野原さん、噂になるでしょ。ご近所の。興信所がきたって」
「まあ、なるだろうな」
「本人の耳にも入るでしょ。まずいですよ」
「ちょっと、考えがあるんだ」
師匠ははぐらかにようにそう言うと、「さて、戻るか」と依頼人の家に足を向けた。
俺は、あとで怒られても知らないぞ、と思いながらついていく。ああいう温厚そうな人が怒るのは、見るのがつらい。
「お待たせしました」
リビングに戻った師匠と俺は、待ちかねていた野原さんの向かいのソファに座る。
「それで、どうでした」
前のめりになる野原さんの横に、ととと、と走ってきた猫が、ぴょこんと飛び乗って座る。
目が見えないのに、どこにソファがあるのかわかっていて、ジャンプもできるのだ。俺はあらためて感心した。
真っ暗な世界で、生きていることはどんな気持ちなんだろう。どこになにがあるのか、経験と記憶をたどって生きるその日々は。その心細い世界で、見守ってくれて、愛してくれる家族がいることは、どれほど嬉しいことだろうか。
暖かい気持ちにつつまれていると、師匠がゆっくりと口を開いた。
「さきほど、猫の霊が見えたかどうか、と訊かれましたが」
そう言って、視線を野原さんのうしろの部屋の隅に向ける。
まただ。また影が見えている。俺は緊張した。小さな影だ。一度見たからか、さっきよりも形がはっきりしてきているような気がする。
その影は、ゆっくりと歩いていたかと思うと、急に素早く動き、3人の座るソファの横を走り抜けた。そして走り抜けたあとで……。
壁にぶつかった。
それを見た瞬間、ゾクリする。なんだ。なにかが、カチリとはまったような。もやもやする頭を整理する前に、師匠が言った。
「野原さん。いま僕らがなにを見ていたか、おわかりでしょう」
師匠は壁にぶつかって、その場でうろうろしている影を見ながら、薄く笑った。
「え?」
依頼人は不安そうに、両手を胸の前で合わせる。
「あなたは目の見えないまめちゃんを、本当に優しく育ててらっしゃる。まめちゃんも、野原さんを頼り、信じている。ペットと飼い主という関係を越えて、美しい家族だと思います。しかし、妙ですね。そんな美しい関係が、この家では以前にもあったようだ」
ビクリとした野原さんに、師匠は冷たい声で言い切る。
「私には、ここにいないはずの、3匹の猫が見えています。その猫たちはみんな、目が見えないようです。走ったあと、頭を、壁にぶつけています。この家で、過去20年ほどの間に亡くなった猫たちの霊です。まめちゃんの先代や先々代の猫たちでしょうか。これは偶然ですか?」
「なにをおっしゃるの」
固い棘のある声が、師匠を遮ろうとする。
「まめちゃんは、捨て猫だったそうですが、最初から目が見えなかったわけではないですね。保護されてから、病気かなにかで、見えなくなったと。そう、近所の方にはおっしゃったようですね」
「ちょっと、あなた」
野原さんは険しい声を出した。俺にもわかった。師匠が依頼人を断罪しようとしていることが。
「目の見えない猫は、外の野良猫の世界では生きていけない。この家のなかで、愛されないと生きていけないんです。そんな猫を飼っているあなたは、どれほど満たされたでしょう。愛することに。愛されることに。……人は感動することで、脳内麻薬、ドーパミンを分泌します。その物質によって、とてもここちよい気持ちに包まれます。感動はここちよいものだと、学習します。それによって人は、無意識に、あるいは意識的に、さらなる感動を求めます。僕も昔、飼っていた猫を失ったことがあります。とても悲しかった。心にぽっかり穴が開いたようでした。猫の形にあいた穴は、猫の形をしたものでしか埋めることができない、という言葉を聞いたことがあります。それは、僕には本当にそのとおりだと思えました。あなたはどうでしたか。『盲目の猫』という、とても愛おしい形に開いた穴は、いったいなにで埋められるのか」
「なにを言ってるの。やめなさい!」
野原さんは強く言った。しかし師匠はやめなかった。
「猫に限らず、動物は危害を加えられた相手を決して忘れない。でもそれは、危害を加えた相手を認識していた場合です。寝ているときに、薬品か何かで目をつぶせばきっと、いったいなにが自分をひどい目に遭わせたのか、混乱し怯えるでしょう。でも、その怯えた猫を、時間をかけて心を開かせることもきっとできる。子猫は、母親に頼らないと生きていけないから」
「やめて!」
声に、涙がこもっている。
「あなたは、医師のみたてのとおり、ノイローゼだった。仕事かなにかのストレスが原因の。そして、窓ガラスが割れるという幻聴が聞こえたとき、あなたは、それを霊現象ではないかと思った。なぜなら、自分を恨んでいるかも知れない存在に、心当たりがあったからです。幻聴は続いた。家のなかで、影も見るようになった。猫は、死んだ後も気づかないままだろうか。自分がされたことに。恨まれているのだろうか。恨まれているのかも知れない。その思いはさらなるストレスになる。思いあまって、あなたは霊能者がいる、という興信所に依頼をした。この現象が、たちの悪い悪霊の仕業なのか、それとも猫の呪いなのか、知りたかったからだ」
「幻聴なんかじゃない! あんな乱暴で、怖い音。この子だって、そばで聞いたのよ。悪い霊よ。強くて凶暴な悪霊がいるのよ!」
その喉から絞り出すような叫び声に、隣にいた猫がビクッとして跳び逃げる。師匠は、静かに言った。
「夜中に、急に窓ガラスが割れるような音がして、悲鳴をあげない人はいない。そして、そばにいる人が悲鳴をあげて、驚かない猫もいない」
その言葉を聞いて俺は、そうか、と思った。窓ガラスが割れる音に、反応していたというまめは、本当は飼い主のあげた悲鳴に反応したのだ。飼い主の頭のなかで鳴った、幻想の音などではなく。
「うそよ。うそ。全部うそよ」
そうではないことは、俺にもわかった。野原さんは、両手で顔を覆って、涙を流している。なんてことだ。こんなこと、想像してもいなかった。
「今この家で見える盲目の猫の霊は、3匹です。これがすべてであることを願います。そして、いま、その猫たちはどうしているか、わかりますか?」
師匠は口元を少し震わせて、悲しげな表情を浮かべた。
「今、あなたの前にいます。あなたを責める人間に敵意を示しています。今にも僕をひっかきそうな顔をしている。母親であるあなたを守っているんです。疑いもなく、あなたを信じています。信じて、愛している。たとえようもなく美しくて……残酷な光景だ」
その言葉が耳に入っているのか、依頼人はおんおんと泣いていた。泣きながら、「違う」「違う」とうめいていた。
師匠は立ち上がりながら言った。
「今あなたにできることは、今の猫を愛してあげることだけです。そして、もう次の『猫』を作らないでください」
行くぞ。
俺は、師匠の背中を追いかける。うめいている野原さんを残して。
それから、師匠と俺は、服部調査事務所に向かった。結果を報告するためだ。途中、師匠に訊いた。
「やりすぎじゃないですか。追い詰めすぎですよ。あれじゃあ……」
「感動は麻薬だよ。ドーパミンは麻薬そのものだからな。人生で、他に代替するものがない人間にとっては、同じものを求めるしかないんだ。一度踏み外した人間は。あのくらいのショック療法で、やめられるかどうか」
あとは、本人の決めることだ。
師匠は猫背で歩きながら、ボソリと言った。
服部調査事務所の階段をのぼり、ドアを開けると、デスクに座っていた所長が顔をあげた。
「聞きましたよ。電話がありました」
「そうですか」
「成功報酬はなしです。このままお帰り下さい。それともなにか、弁解することはありますか」
「いえ、ありません」
俺は、うなじの毛が逆立つような気がした。なんだよそれ。
師匠が、俺の肩をつかむ。
「フクロウの涙を、もらいそこねたな」
そう言って、笑った。
「やはり、あなたは彼女にはなれないようですね」
服部さんの冷たい声が、俺の頭蓋骨のなかをガンガンと反響する。
「僕もそう思います」
師匠は静かにそう言って、服部調査事務所のドアをくぐった。
◆
「なんか食ってくか」
雑居ビルの外に出たとき、師匠が振り返って言った。その視線の先には、喫茶店ボストンの看板がある。
「はい」
ボストンは、1年以上前に蓑笠を被った師匠と突撃をして以来だった。このところずっと師匠の昔話を聞いていた俺には、久しぶりという感じはしない。ヒゲのマスターもどこか懐かしい気がした。
店内の壁には、昔の写真が飾られていた。ウエイトレスをしていた京介さんの写真もあった。そして、在りし日の小川調査事務所の面々の写真も。師匠は、ずっとその写真を見つめていた。俺には、その光景が、つらかった。
食事を終えて外に出ると、だいぶ日が落ちて、夕日が赤く街を染めていた。
まだ春になりきらない冷たい風が、強く吹き付けてきて、安物の薄いスーツの俺は、寒さでウッとうめいた。
「早く帰りましょう」
そう言って歩き出す。繁華街から外れた通りは、足早に歩く人のシルエットがまばらにあった。物寂しい光景だ。
俺は、歩きながら今回の依頼について考えていた。もし加奈子さんだったなら、どう解決しただろう。師匠から聞いた話で、日本刀にまつわる依頼があった。加奈子さんはそこで、依頼人の罪を糾弾し、追い詰め、逆上した依頼人に切りつけられる羽目になった。しかし、最終的に依頼人は謝罪し、依頼料は支払われ、さらにはお詫びとして高価な脇差が贈られてきた。途中までの経緯は今回の件とよく似ている。しかし結末は真逆だ。
加奈子さんのほうは、どこまで追い詰めればいいか、わかっていたような結果だった。師匠は加奈子さんのことを、天性の人たらし、と言っていた。その差もあるのかも知れない。師匠はその差を、肯定的にとらえてさえいる。
少し歩いたところで、ふいに師匠が立ち止まった。
「どうしたんですか」
そう言って前を見ると、スーツの上にファーつきのコートを羽織った男が、夕暮れの道端にしゃがみこんでいた。しゃがんで、焼き鳥かなにかのプラスティックの空の容器に、紙パックの牛乳を注いでいる。その容器に、子猫が顔をつっこんで、顔が濡れるのもかまわず、ペロペロと舌を出して飲んでいた。
「おまえ」
師匠の声色がおかしい。今日初めて聞いた、まったく余裕のない声だった。顔を見ると、血の気が引いている。
「奇遇だな。こんなところで」
男は立ち上がりながら言った。そして残った牛乳を飲み干す。
オールバックの髪に、薄いグレーのスーツ。そして濃い青のシャツは、胸元を開けている。その雰囲気は明らかに、カタギの人間ではなかった。
30半ばくらいだろうか。整った顔立ちだったが、やや頬がこけていて、切れ長で冷たい目をした男だった。
松浦?
師匠の昔話に出てくるヤクザの名前が浮かんだ。しかし、師匠は、「石田」と呟いた。そして、ハッとした表情を浮かべ、来た道を振り向きながら、「服部か」と言った。
男は目を伏せて、ふ、と軽く笑うと、「偶然だ」と言って、牛乳のパックを地面に置いた。
偶然ではないのは明らかだった。男は、師匠を待ち伏せていた。服部さんがこの男に知らせたのか。師匠がこのビルに来ることを知っていたのは、服部さんだけだ。
師匠は、石田と呼んだ男と向かい合った。俺はそれを一歩引いて見ていた。男と師匠の視線が交差する。ただごとではない雰囲気に、空気が張り詰めていた。
「おまえのしたことを、忘れちゃいない」
押し殺した声で、師匠は言った。憎悪がこめられた声だった。
「あのときは悪かったな。殴って」
静かな声で、男は言った。俺はそれを聞いて、その男が誰なのかわかった。戦時中の心霊写真にまつわる騒動で、師匠を拉致し、暴行したチンピラだ。あのときは、松浦を出し抜いて単独行動をとっていたために、あとで仲間からケジメをつけられたはずだ。しかし、前歯が抜けていた、という話だったが、いまの男には歯は揃っているようだった。
『わざと抜いているのかも知れない』と師匠は言っていた。相手に己を侮らせ、力を隠すために。その力を隠す必要がなくなり、歯を再び入れたのかも知れない。そう思って、ゾクリとした。
そういえば、石田という名前ではなかった気がする。石田は、組の名前だ。松浦が若頭補佐をしていた、石田組。まさか、この男が跡目でも継いだのだろうか。組長の娘を手に入れて? 少なくとも、もうチンピラ然とした姿は想像できない。素人の俺が見る限り、裏社会で地位を築いた人間の佇まいそのものだった。
「俺もウサギに殴られたからな。痛み分けだ」
「ふざけるな」
師匠のただごとではない殺気に、俺は怯えた。火が出るような目をしていた。殴られたことに、怒っているのではない。そう感じた。俺がまだ知らない、なにかがあったのだ。思わず、膝が震える。
「代償は、払ったろ」
びょう、と冷たい風が吹き続けている。その風が、男のコートをたなびかせている。中身のない左手のスーツの袖がバタバタと揺れる。男は、隻腕だった。
師匠は、落ち着きを取り戻そうとするように、深く息をついてから言った。
「いまさら、なんの用だ」
「最近、昔のことを思い出すんだ。なにか大事なことを忘れてるんじゃないか。つけてないケジメがあるんじゃないかってな。……あの探偵事務所の女と、松浦が死んだとき、俺にはなにが起こっていたのかわからなかった。いまでもわからない。わかりたいとも思わない」
男の目は、暗く、海のように静かだ。
「あの女と、松浦を殺ったのは、だれだ」
こんなやつだったのか。俺は恐ろしい男の前にいる、ということを、ひしひしと感じた。師匠はなぜあの目を睨み返せるのだろう。
「それを知って、どうするんだ。おまえが」
師匠の声が、かすかに震えている。憎しみを抑えようとしているようだった。いや、憎しみだけはない。なにかを畏れる感情も、そこには滲んでいるような気がした。
「さあ。どうしたいんだろうな、俺は。ただ、俺にはそれが、つけてないケジメってやつに見えるんだよ」
「そいつも、もう死んだよ。終わったんだ。全部終わったことだ」
師匠は吐き捨てるように言った。
男は、薄く笑って師匠から目をそらした。そしてなにかを受け取ろうとするように残った手のひらを広げて、空を見上げた。迫ってくる夕闇が、絨毯のような雲を飲み込んでいく空を。
「俺には、そう思えないな。見ろよ。不吉な空だ」
そう言って、暗い瞳に夕日の赤を一滴浮かべた。
(完)
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