師匠シリーズ109話 館 上下


潮騒を聞いている。
暗い海がその向こうにある。
空には一面の星。水面にはその欠片が揺れている。
春はようやくやってきたが、夜はまだまだ肌寒い。
「最後の1本だ」
何度目かになる言葉のあと、マッチの明かりが一瞬、海辺の闇を深くする。
煙草の匂いを嗅ぐことで、脳裏にはその匂いと結びついた記憶が滔々と湧いてくる。
いろいろな話をした。
いろいろなところへ行った。
別の世界へと通じているかも知れない扉を開けて。彼女との冒険も今日で終わり。終わり。終わり。
俺は彼女の横顔を見る。
彼女は夜空を見ている。
さっきのホテルでのことが蘇りかけて、頭を振る。
岸壁に2人腰掛けて、とりとめもない話をする。
こんな時間もいつか終わる。
「なあ、知ってる星座はあるか」
煙草を持った手が空を指す。
空に散りばめられた光に目を凝らしたけれど、星と星とを繋ぐ線は見えなかった。
「ありません」
オリオン座ならわかるんだが。あれは冬の星座だ。
「こんなとき、星座の話のひとつやふたつでもサラッとできれば、ロマンティックなのにな」
「すみません」
今度覚えよう。
そうして沈黙がやってくる。岸壁を撫でる波の音が大きくなる。煙草の吸殻を靴で踏むときの、赤く小さな火花が転がるのが見えた。
「あいつも、どんな気持ちで夜空を見ていたんだろう」
遠くを見るような声でそう言った。
「知らない星を」

京介さんから聞いた話だ。

「なんでそうなるんだ。第7室には太陽しかいないのに」
「よく見なさい。第1室に火星が入っているでしょう。オポジションで凶相よ。この場合は配偶者に、あなたとは別の男女関係が生まれやすいことを示しているの」
「これが180度か? ちょっとずれてるじゃないか」
「何度説明したらわかるの。メジャーアスペクトのオーブは広いの! これは5度だから範囲内よ」
おばさんが机を叩く。
私は机の上の紙を睨みつけている。12個に切り分けられたケーキのような形が描かれている。
ホロスコープというやつだ。西洋占星術で使う、自分の生まれた瞬間の星の配置を表したもの。
その星の配置がその人の人生を支配するというのだ。
「あー、だめだ。頭が煮えそう」
私は鉛筆を放り出して頭を抱えた。
目の前の紙の上に、私の人生のすべてがある、なんて言われても、どうやってそれを読み解いていくのかのハードルが高すぎる。
タロット占いなら、引いたカードの配置でその人の、そのときどきの、かつ特定の分野のことを自在に占うことができるのに、西洋占星術は基本的に、定められたその人の人生をただ解き明かしていく作業だ。
考えてみれば恐ろしい。これは恐ろしいことだ。知れば知るほど、そのことがわかってくる。
「休憩しましょうか。紅茶淹れてあげる」
おばさんが小太りの体を揺すって立ち上がる。その後ろ姿を見ながら私はため息をついた。
アンダ朝岡という名前のこの占い師と出会ったのは、今年の夏のことだった。街中を襲った不気味な怪奇現象を追っていた私は、その先で4人の人物と出会った。全員が、私と同じようにその怪奇現象の根源を追っていた。
この街のなかでたった1人、私だけが気づいていて、だからこそ私がなんとかしないといけない。そう思っていた。
しかし、この街で昼ひなかにお互いにすれ違っても気づかないけれど、その日常の仮面の下に、非日常の世界を見通す目を秘めている人々がいたのだ。私のほかにも。
そのことが、なぜか嬉しかった。
『今度会ったら、タダで占ってあげるわよ』
偶然街ですれ違ったとき、その夜に交わした約束を彼女は覚えていた。
「あら、あなた」
50年配の女性にいきなり声を掛けられて、とまどったが、すぐに思い出した。けれどそれは相手の顔を思い出しただけだった。なにしろお互いに名前も知らなかったのだから。
2人で苦笑して、あらためて自己紹介をした。
彼女は《アンダ朝岡》と名乗った。聞いたことのある名前だった。地元の情報誌で星占いのコーナーを持っている人だ。その星占いは、街に迫りつつあったその怪奇現象に、私が気づくきっかけにもなっていた。
いま時間あるでしょ、とアンダ朝岡は言って、無理やり私を自分の店に連れていった。
『アンダのキッチン』
そんな名前の、駅に近いビルの1階のテナントに入っている、小洒落た店だった。まるで喫茶店のような店構えだったが、実際に軽食を注文して、それを食べてリラックスしながら占いの相談をする、という珍しいスタイルだった。
料理が上手いのか、占いが上手いのか、あるいはその両方なのかわからないが、とにかく結構流行っている店らしかった。
アンダはタロットなどの占いもするけれど、西洋占星術がメインだった。しかしそのタロットにしても、私がかじっている知識よりはるかに詳しい。さすがにこの道で食べているプロだな、と思う。
再会したその日は、私のことを占う、というより、占いに興味を持っていると言った私に、あれこれとアドバイスをしてくれた。
ただの客としての対応とは明らかに違っていた。私を見つめるその優しげな瞳には、秘密を共有する仲間としての親しみが込められているような気がした。
「また遊びにいらっしゃい」
帰るとき、そう言われた。紅茶の風味が口のなかに甘く残っていて、また来てもいいな、と思った。
それから、2度、3度と店に顔を出していると、いつの間にか私は彼女の教え子になっていた。
後継者などというつもりは毛頭なかった。ただ自分の知らない西洋占星術という占いに興味を持ったのだ。トランプやタロットを使った神秘主義的なものとは違う、ホロスコープという生涯変わることのない出生時の星の配置……つまり運命の地図が、まず面前に示されるという、その潔さに、逆に途方もない奥深さを感じていた。
私は学校帰りに時間をつぶしたあと、『アンダのキッチン』が閉まる午後7時過ぎに顔を出し、客のいなくなった店内でいろいろなことを教えてもらう、という日々が続いていた。
「なあ、アンダ。これって、どういうことなんだ」
ある日、ローカル情報誌を広げてアンダを問い詰めた。
アンダが担当している星占いのコーナーだ。店と同じ、『アンダのキッチン』というコーナー名だった。
よく見るものと同じく、おひつじ座から始まる12星座ごとに、その月の運勢を占ったものだ。
以前の私は、素直に自分の誕生星座のところを読んでいた。あるいは、気になっている相手のところを。
しかし、西洋占星術をちゃんと習っていくと、こういう星占いとはまったく別物だということに気づいてきた。
まず第1に、西洋占星術ではホロスコープの起点となる第1室の支配星座は、その人が生まれた瞬間に東の地平線にあった星座なのだ。これを上昇宮(アセンダント)と言って、その人の本質を読み解くキーとなっているものだ。
私はみずがめ座のはずだったが、アセンダントを調べると、ふたご座だった。
今まで星座別の性格占いで、みずがめ座の欄に『常識やモラルに捉われない。推理力、洞察力に優れ、クールで気ままな性格』などと書いてあるのを見ては、当たっている! と思っていたのに。
しかし私が習う西洋占星術では、生まれた瞬間の太陽の位置を第1室に置くやり方はしなかった。
サン・サイン占星術といって、太陽の位置を起点にするやり方もあるらしいし、誕生日はわかっても、生まれた時刻がわからない場合に太陽を第1室に置くやり方もあるのは習ったが、アンダの西洋占星術では、明らかに太陽星座を重視していなかった。
まして、ホロスコープは、言わばその人の人生の地図のすべてであって、今月の運勢やら今週の運勢やらといった、狭い範囲を言い当てるものではない。
そういうことがだんだんとわかり始めて、あらためてあの星占いコーナーとの矛盾に気づいたのだ。
「なあ。なんでこんな適当なことばっかり書いてんの」
私が情報誌を突きつけると、アンダはしばらく黙ったあと、にっこりと笑って言った。
「お坊さんがね。檀家さんに『昨日の夜、死んだ父が枕元に立ってこんなことを言うのです』って相談されたら、『それはあなたを守るために、心配しておっしゃっているのですよ』って言うでしょう。でもお釈迦様の教えでは、人間が死んだ後には霊なんかになってこの世にさまようなんてことは、言ってないの。でもその理屈を説いて、あなたが見たのは幻だ、錯覚だ、なんて言ってもその人は納得するかしら。そういうことの専門家だと思い込んで相談しにきているのに。そんなときに、相手に合わせてあげて、返事をすることを、なんて呼ぶか知ってる?」
「知らない。なんだ?」
「方便よ」
なんだそりゃ。
うそも方便ってやつか。

「ようするに金儲けのために、でたらめをでっちあげてるんだろう」
「でたらめじゃなくて、ほ・う・べ・ん」
アンダは指を立ててゆっくりと訂正した。
「これでも、ちゃんと私なりに研究してやってるのよ。方法は企業秘密だから、教えてあげないけど」
納得はいなかなかったが、それでも店では一貫してストイックな占いの手法を守っているようだった。
アンダはよく、自分のホロスコープを例にして私に説明してくれた。
「私のアセンダントはおひつじ座にあるけど、ルーラー(支配星)はなにかしら?」
「火星」
「そう。その火星が第8室にあるでしょ。●ックスや死を司るハウスに、マレフィック(凶星)の火星があり、損なわれているということ。そしてこの火星が、さらに別のマレフィックの土星とスクウェアで、凶相を成しているわ。これは短命の相よ。さらに第8室のルーラーの冥王星が、マレフィックの天王星とオポジション。海王星とセミスクウェアよ。これがどういうことかわかる?」
ひどいな。
顔をしかめたら、アンダは「そうね」と言って続けた。
「天寿をまっとうする自然死ではないわね。間違いなく。せめてもの救いは、第8室がカーディナル・サイン(活動宮)じゃなくて、フィックスド・サイン(不動宮)だってことね」
「ええと、その場合は病院で死ぬとか、そういうこと?」
「少なくとも即死ではないと思うわ。だれかに看取ってもらえるなら、まだましね」
自分の死について、あっけらかんと語るアンダを見ていると、なんだか不思議な気持ちになる。自分で自分の西洋占星術を信じていない、というわけではないだろう。ただ、人の運命を、星の配置のなかに読み解くことを生業にしていると、そういう達観めいた心境に至ってしまうのだろうか。
数年前に起きた夫との死別という悲しいできごとまで、自分のホロスコープのなかに読み解いて説明をしてくれる彼女の横顔を見て、なんだか辛い気持ちになった。

学校の廊下で、間崎京子とすれ違った。
この高慢な秘密主義者は、あいかわらず私のかんに触るやつだったが、風のなかにだれとも知れない人間の髪の毛が混ざっているという、気持ちの悪いできごとのときに、図らずも一緒に組んでその謎を追ったりしていたせいで、このところ休戦状態にあった。
「よう」
そう言って通り過ぎようとしたら、向こうからそっと寄ってきて、打ち明け話をするように私の耳元に口を近づけた。
「最近、占いに凝ってるんですって?」
それを聞いてビクリとする。こいつはなぜそんなことを知っているんだ。
「どんな先生かしら。今度紹介してくださらない?」
「いやだ」
その言葉のあと、なにか理由をつけようとしたが、うまく出てこなかった。それが妙に気恥ずかしくて、とっさに出た言葉が「おまえ、何座だ?」という問いかけだった。
「あら、そういう占いなの」
間崎京子は興味を失ったような顔をした。
違う。そういう星座占いみたいな程度の低い占いじゃないんだ。
思わずそう言い訳をしようとしたが、(こいつに侮られることが、そんなに嫌なのか)ということに思い当たり、(だれが! 勝手に思ってろ!)と、我ながら天邪鬼なことを考えて、結果的に黙っていた。
すると間崎京子は、「私、星占いとか、占星術とか、好きじゃないのよね」と言いながら、両手を後ろに回して、すねたように足を蹴り上げる仕草をした。
「いいから、何座だ」
重ねて訊くと、くすり、と笑って言った。
「……くじら座」
なんだそれは。
何座かと訊かれて、「ヤクザ」と答えるのが、子どものころの定番ジョークだったが、これは、なんて中途半端な……。
「そうそう。今度、私の誕生日会をするの。あなたもご招待するから、きてね」
間崎京子はそう言って去っていった。
誕生日会?
あいつの?
そんなな女の子じみた行事に呼ばれるなんてことは、ここ数年なかった。しかも、あいつの?
その場に残された私は、痒くもない頭を掻きながら、立ち尽くしていた。
 
その日の放課後、アンダの店に寄ってから午後9時過ぎに家に帰ると、玄関に張り紙があった。
『ちーちゃんとまーちゃんへ。パパとママは、レストランでお食事をしてきます』
ずる賢そうな顔をした2人の似顔絵つきだ。母親が描いた絵だった。
妹のまひろはまだ帰ってきてないらしい。郵便受けにあった新聞とチラシを取り出してから鍵を開けて家のなかに入り、テーブルの上にそれらを投げ出す。
ふと、そのなかのチラシの文字に目が留まった。
『劇団くじら座』
地元の劇団の公演の案内チラシだった。そういえばたまに見る名前だ。
そう思った瞬間、昼間に間崎京子が言った変な言葉を思い出した。
『おまえ、何座だ?』
『……くじら座』
そうか。そういうことか。あいつも、そういう冗談を言うんだ。
なんだかおかしくて、声に出して笑ってしまった。
だれもいないリビングに自分の声だけが響く。
ひとしきり笑ったあとで、あのとき笑ってやらなくて悪かったな、と思った。

数日後、間崎京子は本当に私に招待状を持ってきた。誕生日会のだ。
11月20日。太陽星座なら、さそり座ということになる。私は一般的なさそり座の性格占いの内容を思い出す。
『排他的で秘密主義。嫉妬深く、執念深い。プライドが高く、洞察力、霊感に優れる……』
当たっているなあ。むしろこれしかない、という気もしてくる。やっぱり太陽星座でも十分当たるじゃないか。
そう思うと、こいつのアセンダント星座も知りたくなった。
「来てくださるかしら」
会場は本人の家となっている。
子どものころの記憶では、お誕生日会などと言って家に友だちを招待する子は、いいところの子どもだけだ。
間崎京子の家も一度見てみたかった。どういう環境でこいつみたいな子どもが育ったのかを。
「ほかにはだれが来るんだ」
「あとは私のクラスのお友だちが2人。あなたもお友だちを誘ってくれていいわ」
こいつの友だちということは、取り巻きの連中だろう。そんな完全アウェーに1人で乗り込んでいくのも、確かに気が引けた。
「考えとく」
そう答えると、間崎京子は嬉しそうに、「きっと来てね」と言った。
「なあ、おまえ自分が何時に生まれたか、知ってるか」
私は知らなかった。アンダの西洋占星術のホロスコープを作るうえでは、誕生時刻というのは必須の情報だった。
地球はぐるぐる自転している。誕生の瞬間の星の配置は、時刻によってまったく違ってしまうのだ。私はわざわざ母親に訊いて調べた。
私の問い掛けに、間崎京子はその場で生まれた日と時間をそらんじた。
朝6時か。これでこいつのホロスコープを作れるな。調べてやろ。
そう悪巧みをしていると、さっきの暗唱のなかに、おかしな部分があったことに気がついた。
生まれた西暦が、早生まれの私より2年古い。えっ、と思った。つまり1学年上なのだ。
「私、中学生のときに病気で1年休んだから」
「じゃあ、次で17歳の誕生日なのか」
なんだ。本当はイッコ上なのか。
やけに大人びていると思ったが、本当に年上だったとは。
驚いている私に、間崎京子は「じゃあ、きっとね」と言って去っていった。
私は思わず「ああ」と答えていた。

11月20日はあっという間にやってきた。
なかばなりゆきで、行かざるを得なくなった感もあるが、とにかく私は京子の誕生日会に行くことにした。
悩んだ末に、一応友だちを誘ってみた。クラスでも浮き気味の私にとって、友だちと言えるのは高野志保という名前のクラスメートだけだった。
志保は物静かで目立たない子で、私の乱暴な態度や言葉づかいに怯えながらも、いろいろと心配してくれるやつだった。
特に間崎京子に関しては、今年の夏の初めにあった、ある事件のせいで、かなり過敏になっていて、その魔女のような女に深く関わろうとする私を、そっとたしなめる役目を果たしてくれていた。
なるべく気軽な感じを装って誘ってみたが、案の定、高野志保は「行かないほうがいい」と反対した。
「危ないよ」
真剣な表情でそう言うのだ。
危ないって……。
「おいおい。ただのお誕生日会だぞ」
そう言って気軽さを強調しようとしたが、志保の耳には入っていないのか、しばらく俯いていたかと思うとキッ、と顔を上げて、
「わかった。ついてく」
と決死の覚悟を決めたような表情で言うのだった。
なんだか私まで怖くなってくる。
20日は金曜日だったので、放課後、寄り道せずに家に帰ると、すぐに着替えて京子の家に向かった。途中待ち合わせたスーパーで高野志保と合流する。
志保はバレー部だったが、今日はさぼったらしい。バレー部の顧問のジジイが結構厳しいらしいから、大丈夫なのかと心配になる。
間崎京子の家は、市内の北の端にあった。志保の母方の祖母の家がこの辺りにあるらしく、土地勘があったので私は地図も見ずに、彼女についていくだけでよかった。
それどころか、志保は間崎京子の家を知っているという。
「間崎さんの家は有名なお屋敷なの」
明治維新のあと、子爵の称号を賜わった間崎家の先祖は、そのあと生糸の生産業に投資をして成功し、財を成したのだという。京子の曽祖父の代で、市内の中心地から引越しをして、郊外に西洋風の屋敷を建てたのだそうだ。
「私のおばあちゃんも、若いころにお屋敷で女中をしてことがあるらしいの」
志保が今日のことを祖母に話すと、失礼があってはいけないと、まるで自分のことのように大慌てで、誕生日の贈り物を見繕ってくれたそうだ。あやうく、お屋敷まで見送りについてくるところだった、と言って志保は笑った。
そんな栄華を誇った間崎家だが、第二次大戦のあとは斜陽の時代を迎えた。
手を出していた不動産業が失敗をして、借金を返済するためにいくつか持っていた会社をすべて手放し、零落の一途をたどったのだ。さらに京子の祖父が死んだのを皮切りに、身内に若死にや事故死などの不幸が立て続いた。周辺の住民たちは間崎家の呪いなどと言って、陰で噂をしていたそうだ。
そういえば、京子は以前、母親は自分が生まれたときに死んだと言っていたな。
ほかにもそんな不幸がたくさんあったのか。
「間崎さんは、お父さんが船医で、いつも海外にいるから、ほとんど1人で、あの大きなおうちにいるみたい」
その父が、傾いた間崎家を立て直すために腐心するどころか、怪奇趣味というのか、変なものを買い集めることにばかり執着し、船医の仕事をしながら、世界各地でそういうものを探し回っているとの噂だった。
周囲の噂では、そのあやしげなものたちの呪いで間崎家はこうなってしまったのであって、かつての子爵家ももはや風前の灯、というのだ
「ほら、あれ」
志保が指さす場所はやや高台になっていて、その先に大きな建物の姿が見えてきた。
なるほど、大きい屋敷だ。
「私もあんまり近づいたことないけど、やっぱり変な感じがする」
噂では、間崎家の周辺は磁場が歪んでいて、へたに近づいて取り込まれてしまうと、帰れなくなる、というのだ。
酷い言われようだ、と思ったが、屋敷に近づくにつれてその気持ちが少しずつわかり始めた。確かに異様な感じがする。説明しづらいが、リズムを変えずに歩き続けているのに、見えている屋敷が、なかなか近づいてこない気がするのだ。
まるで近づけさせまいとしているような……。
それでも歩き続けると、私たちは玄関らしきところにたどり着いた。
あらためて見ると、私たち庶民が住む普通の一軒屋の4倍か、5倍か、いやそれ以上ありそうな大きさの洋館だった。2階建てのようだったが、見慣れた瓦屋根ではなく、尖塔のようなものがところどころに突き出ているのが見えて、3階建てくらいありそうな高さに思えた。たぶん、秘密の屋根裏部屋なんかもあるに違いない。
周囲をがっしりした石壁が覆い、その向こうに広い庭と洋館がある、という構造だった。
少し緊張しながら、石壁にはまったアーチ上の鉄製の門の前に立って、どうやって開けるのか観察していると、インターホンらしいものを見つけた。
ボタンを押してしばらくすると、『いらっしゃい』という声が聞こえた。
石壁の向こうで扉の開く音がして、やがて門のところまで足音がやってきた。そして、ガチャリ、という鍵の回る音がする。
「ようこそ。山中さん。来てくれてありがとう」
門を開けた京子は、黒い服を着ていた。ドレスと言ってもいいような、フォーマルな服だった。彼女のすらりとした長身によく似にあっていた。
ジーンズ姿のいつもの私服で来てしまった自分の体を思わず見下ろして、なんだか少し焦った気持ちになった。
「高野さんも。どうぞお入りになって」
促され、私たちは敷地内に足を踏み入れる。庭は広かったが、日本庭園のように築山や川などを模した緻密な趣向は見当たらなかった。ただ、洋館を囲むように植えられている背の高い木々の群が、小さな森を作っているような気がした。
その森のなかへ、古い洋館が長い時間をかけてゆるやかに飲み込まれている……そんな気が。
チャリ、という音に、ふと目をそちらへやると、京子の胸元には大きな鍵束が首から下げられていた。まるでネックレスのように。
玄関へ向かって歩きながら、京子は「これ? 家の鍵よ」と言って触り、チャリンチャリンという音を立てた。
いくつあるのだろう。大小織り交ぜて、10個以上はありそうだ。
昔よく、鍵っ子という言葉を聞いたが、ここまで露骨で大袈裟なものを見ると、逆になんだかファッションとして似合って見えるので、不思議だ。
「私のクラスメートはもう来てるわ。さあどうぞ」
両開きの玄関を開けて、私たちは洋館の中に招き入れられた。

もう日が暮れるころで、玄関ホールには明かりが灯っていたが、いやに薄暗い気がして私は目を擦った。
床は茶色の絨毯が敷き詰められていて、靴のまま上がっていいと言われたが、少し気が引けてしまった。
城のように豪華なシャンデリアが天井にあるのが見えたが、明かりは灯っていなかった。かわりに壁の両脇の上部に取り付けられたささやかな明かりが足元を照らしていた。
栄華のあとか。
私は絨毯の上を歩きながら、周囲の空間がボロボロと朽ちて崩れていくような錯覚を覚えていた。
古い映画で見るような、二階へと伸びる大きな階段の側を通り過ぎ、奥まったところにあった客室へ案内された。
部屋のなかでは京子のクラスメートが2人、所在なさげにソファに腰掛けていたが、私たちが現われたとたんに立ち上がり、頭を下げた。
私や志保に下げたのではない。この家の主に下げたのだ。緊張していることは痛いほど見て取れた。取り巻きの連中のなかでもよりすぐられた2人なのだろうが、誕生日会に呼ばれたことが、彼女たちにとって本当に名誉なことだったのかは、知るよしもなかった。
京子は、「パパが海外にいて、今日は私1人しかいないから、十分なおもてなしができないかも知れないけれど、どうかゆっくりしていって」と言った。
普段は通いの家政婦がいるそうだが、今日は休みを取ってもらっているらしい。
「お料理は得意なの。今日は私が、腕によりをかけたものをご馳走するわ」
友だちを呼んだこんなときにこそ、家政婦に手伝ってもらえばいいのに、と一瞬思った。しかし、こいつは、自分の日常に触れられたくないのかも知れない、と思いなおした。
父親と遠く離れ、この大きな古い屋敷に家政婦とたった2人で暮している自分を、どこか恥じているような、そんな気がしたのだ。
「もう少し待っていてね。あと少しでできるから」
そう言って京子は部屋から出て行った。その仕草がいちいち優雅で、しゃくに障った。
「どうも」
などと、どこか気まずそうに会釈を交わしている、京子の友だちと志保たちから目をそらし、私はソファに足を組んで腰掛けて、ケッ、と口のなかで毒づいた。
料理が得意ねえ。
どうも信用ならなかった。
アンダと出会ったあの事件の夜、京子は私に言ったのだ。
『似顔絵を描きましょうか。私、絵は得意なのよ』
なにが絵は得意だ。結局描いてもらう前に事件がとんでもない結末を迎えてしまったので、うやむやになっていたが、あとで美術の時間に京子が描いた絵を見て、私はひっくり返りそうになった。
ギャグで言っていたのか。
そう思ったが、どうやら本人は上手に描けていると思っているらしかった。だから信用ならないのだ。
「あいつ、絵が下手なの知ってる?」
いじわるなことを言ってやりたくなって、友だち2人にそういいかけたときだ。
部屋の入り口にふいに京子が顔を覗かせた。驚いて立ち上がりそうになった。
「本を見て作ってるから、大丈夫よ」
そう言って、入り口にあった部屋の明かりを点けてから、また去っていった。もともと明かりは点いていたが、もう一段階明るいのがあったらしい。
最初はあえてそれを点けずに出て行ったような気がしてならない。自分が去ったあと、みんながどんな話をしているのか、確認するために。
友だち2人は、心なしか青ざめているようだった。
私がなにを言おうとしていたか、見透かされていた。まいったな。あいつは、やっぱり油断ならない。
よけいにしゃくに障り、私は不機嫌になった。
本を見て作っているだと!
その本がネクロノミコンだとか、ゾハルの書だとかいう名前でなければいいけど!
 
それから小一時間経って、ようやく京子が呼びにきたときには、私は腹が減ってかなりイライラしていた。
もはや誕生日を祝おうという本来の目的を忘れ、飯食わせろ、という原初的な欲求しか頭になかった
客間を出て、やたら広い食堂に通された。ドラマとかで見るような馬鹿でかいテーブルがあって、その片方の隅に固まって料理が並べられていた。
お誕生日おめでとう、と言ってそれぞれ持参したプレゼントを渡す。志保のは、高そうな箱に入った万年筆だった。
かつてのこの家の格式を知っているお祖母ちゃんが、奮発して買ってくれたのだろうか。
私はというと、近所の雑貨屋で買った、可愛い猫の模様の便箋と、それとお揃いの柄のノートだった。明らかに私のが1番安い。 
しかし、京子はなぜか私のプレゼントを受け取ったときに、1番嬉しそうにしていた。喜んでもらえて悪い気はしない。
そうして、いよいよ夕食会となったが、私の不安は杞憂だったようだ。すべて洋風だったが、どれもおいしかった。まるで高級レストランのコース料理のようだ。
本当にこいつが作ったのか?
鴨料理をほおばりながら疑いの目で見ていると、澄ました顔で微笑み返してくる。
服装といい、立ち居振る舞いといい、そして容姿といい……その絵に描いたような深層の令嬢っぷりに、なんだか照れたような気持ちになってしまい、私はわざと乱暴に肉を噛み千切った。
私が3口食べる間に、志保と友だち2人は2口食べ、京子は1口しか食べななかった。
3分の1くらい私が食べた気がするが、とにかく出された料理をすべて片付けた。テーブルの上の空になった食器を眺めながら、私はもうこの家に用はない、という気になっていた。
「ケーキがあるけど、もう少し休んでからにしましょう」
なのに、そんなことを言うのだ。このお嬢様は!
そうして5人で別の部屋に移動した。
食堂のすぐ隣の部屋だったが、そこには暖炉があり、少し冷えるわね、と言うと京子はそれに火をつけた。
確かに12月を間近に控えて、寒気がやってきていた。部屋のなかに暖炉があると、その暖かさと仄かな明かりとで、なんだか穏やかな気持ちになるので不思議だった。
その部屋には、私が見ても名前もわからない洋画家の画集がずらりと並んでいて、興味があるらしい志保が最初は恐る恐る背表紙を眺めていたが、「どうぞご覧になって」という京子の一言で、目をキラキラさせた。
そして次々と手に取っては熱心に頁を開いていた。
京子の友だちは落ち着かない様子だったが、やがてテーブルの上にあった玩具に手を伸ばした。そして京子になにか習いながらいじっている。
暖炉のソファに陣取った私の遠目には、飛び出す絵本のように見えたが、どうやら違うらしい。厚い紙でできた玩具であるのは間違いないようだったが……。
「それ、なに」
私が訊ねると、京子は言った。
「『悪魔の3つの部屋』、というおもちゃよ」
テーブルに近づいて行くと、「ほら、こうして遊ぶの」と京子はそれを私のほうへ向けた。
厚紙の上に洋風の家が描かれていて、その下のほうに3つの扉がある。扉の部分は開くと外へ折れるようになっていて、やっぱり飛び出す絵本のような構造になっている。
その開け放たれた扉の向こうには京子の体が見えたが、そのうちの1つの扉から、毛むくじゃらなケモノのようなものが顔を覗かせていた。
やはり厚紙でできたそれは、牙と角が生えていて、悪そうな顔をしていた。これが悪魔ということらしい。
その悪魔を、扉の裏側の横のあたりにセットすると、正面から扉を開けたときに、その動きに連動して横から顔をひょこっと出す、という仕掛けになっているようだった。
玩具と呼ぶにも、あまりに他愛ないものだ。京子は子どものころにこれで遊んでいたのだろうか。
そう思っていると、京子はすべての扉を閉め、厚紙の家の後ろでごそごそとしたあと、「さあ、悪魔が隠れたわ。どの部屋かしら」と言った。
おいおい。そんな子どもじみた遊びにつきあわせる気か。
呆れていると、「さあ、みんな裏を見ちゃだめよ。前に回ってちょうだい」とほかの3人まで巻き込み始めた。
その言葉に従って、4人とも厚紙の家の前に並んだ。
京子は満足そうに頷くと、口を開いた。
「悪魔のいる部屋の扉を開けてしまうと、食べられてしまうわ。悪魔のいない部屋を上手に選んで開けてね」
3つの扉のうち、セーフが2つ。アウトが1つ。純粋に3分の2でクリアできる、というしょうもない遊びだ。
私は真んなかの扉をぞんざいに指さした。金でも懸かっているなら京子の顔の表情を読むとか、もっと真剣にもなるが、あまりにもどうでもいい余興だった。
私が指さした扉を見下ろし、京子はしかしすぐにそれを開けなかった。そして玩具を抱えたまま、こんなことを言った。
「この家の主である私には、悪魔がどの部屋に隠れているか、わかるわ。だから、こんなヒントをあげる」
そうして、私が選んだ真んなかの扉ではなく、私たちから見て右側の扉に手を伸ばして、開けた。
その向こうには京子の黒い服と、首から下げた鍵の束が胸元に見えるだけで、悪魔の顔は覗いていなかった。
「この部屋は空よ。悪魔が隠れている部屋はあとの2つのどれか…… もう一度だけ選ばせてあげるわ。最初に選んだ真んなかの扉か。それとも左の扉に変えるのか。どちらでもいいわ。さあ、どうするの」
京子は子どもに諭すようにそう言った。
単純なゲームのはずが、少し様相が変わった。
んん? ちょっと待てよ。
騙されたらシャクなので、冷静に考える。
これで1つの扉が開けられ、残る扉は2つ。3択が2択に変わったので、確率は2分の1になったのだろうか?
真んなかの扉と、左の扉。どちらも同じ2分の1なら、確率は同じだ。
本当にそうか?
自慢ではないが、数学の類は苦手なのだ。
最初に選んだ真んなかの扉は、選んだ時点では悪魔が隠れている確率は3分の1だったはずだ。今、京子は私が選ばなかった扉を1つ開けたが、そのことでどういう変化が起きたのか。
本当に2分の1になったのか?
少し考え込む。
京子は当然悪魔の位置を知っているわけだよな。
私が悪魔の扉を選んでいたとしても、選んでいなかったとしても、必ず私が選ばなかった扉のうち、1つが開かれる。そして悪魔の位置を知っている京子は、絶対に悪魔のいる扉を開かない。
ということは、扉を1つ開けた、という行為の結果に、最初の私の選択の意味を変える情報は、なにも含まれていないのではないか。
だとしたら、やっぱり真んなかの扉は最初から確率は変わっていない。3択のままじゃないのか。
で、それに対して左の扉は…… あれ? ううむ。これも3択のまま? いや、違うよな。3分の2の、さらに2分の1なのか?
あれこれ考えていると、頭がパンクしそうになった。こんな子どもじみたゲームで、いったいなにをやっているんだ私は。
京子の友だち2人は、完全に傍観に入っている。それに対して、私の隣でじっと考えている様子だった志保が、ふいに顔を上げた。
「左の部屋には、66%の確率で悪魔がいます」
だから、真んなかの扉のままでいい。
志保が続けてそう言いかけた瞬間、私はその口を塞いで、もう片方の手で左の扉を開けた。
志保と友だち2人はあっ、と言った。
左の扉の向こうには悪魔はいなかった。向こう側の景色が覗いているだけだった。
「左を選んでよかったわね。悪魔は真んなかの部屋に隠れていたみたい」
「どうして?」
志保が私に向かってそう訊いてきたが、言わずもがなだ。
私たちにとって悪魔は確率で存在していたが、裏側で見ている京子にとってはそうじゃない。
確率を追って自滅させるために、不均等な選択ゲームをさせたのだ。こいつの性格はよくわかっている。
私はその裏をかいただけだ。
「今度はこんなゲームもあるわ」
そう言って、京子は『悪魔の3つの部屋』を片付け、別のボードゲームのようなものを出してきた。
小さなチェスの駒のようなものを、星の形をしたボードに交互に刺して、陣地を奪い合うという、ずいぶんとレトロな感じの玩具だった。
「やっててくれ。ちょっとトイレ借りる」
京子にそう断って席を立つと、トイレの位置を身振り手振りで教えてくれた。1階と2階に2ヶ所ずつあるらしい。
全部教えてくれなくていいよ。ハシゴさせる気か。
暖炉のある部屋から出て、暗く薄ら寒い廊下に立つと気持ちがスゥッと冷えるのを感じた。
ここへ来るまで、あれだけ怯えていた志保がいつの間にか寛いでいる。本当に普通のお誕生日会に呼ばれたかのようだ。
あいつは、間崎京子だぞ。
あの、なにを企んでいるのかわからない、恐ろしい女がこの家に住んでいるんだ。普通の家であるはずはない。
かつての名家が没落して、今はほとんど帰ってこない父と娘の2人だけだというのに、この無駄に大きな屋敷を売り払いもせず、ずっと住み続けているのはなぜだ?
京子の父親が蒐集している、という怪奇趣味的なものたちは、いったいどこに隠してあるのか。
暖炉の部屋を離れ、廊下を進む。絨毯がどこまでも敷かれていて、足音がほとんど鳴らない。明かりは、壁際にぽつりぽつりとあるランプのような形のささやかなライトだけだ。
教わった場所にトイレはあったが、用を足したあと、遠回りして帰ることにする。
静かだ。広すぎて、食堂のそばの暖炉の部屋の音は聞こえてこない。
洋館は大きく3つの棟に分かれていて、さっきまで私たちがいた、玄関からまっすぐ伸びる中央館と、途中で左右に分かれる廊下を進んだ先に、それぞれ別館があるらしい。
私は、玄関から見て右側にある別館のほうへ、恐る恐る進んでみた。
明かりが点いていなかったので、廊下でスイッチを探り当てて点けたが、やはり暗い。天井に豪華な明かりの姿が見えているが、どこかに別のスイッチがあるのだろうか。それとも、もはや完全に使われていないのか。
掃除はしているのだろう。黴臭くはないが、それでもどこか陰気で空気が澱んでいるような気がする。来客もないに違いない。まったく使われることのない、化石のような空間なのだ。
廊下の壁際に大きな台が置かれ、その上に高級そうな陶器が据えられている。かつては花が飾られ、見るものを愉しませたのだろう。いまはひっそりと、空の陶器が口を開けているだけだ。
中央館にあった大きな階段ほどではないが、幅の広い階段が姿を現した。その下から上の階を窺ったが、真っ暗で先は見えなかった。
階段は上らずに、先へ進む。
廊下の右側の壁は庭に面していて、閉じられた窓のカーテンの隙間から、外にうっそうと繁る木々の影が覗いている。
左手側に部屋が見えてきた。
豪華な装丁の重そうな扉がある。ゲスト用の部屋だろうか。横を見ると、その先にも同じような部屋と扉があった。
目の前にある扉の、横向きのバーになっている取っ手に手をかけ、押し下げてみる。
開いた。
なにげなく取っ手に触ったが、開くとは思わなかった。
戸惑いながら、なかを窺ってみる。
「だれか、いますか」
なにか声をかけないといけない気がしたが、我ながら間抜けな言葉が出てしまった。
しかし人の気配などまったくしない。この別館自体が、まるで遺跡のように人の痕跡が途絶えた空間なのだ。
キィ。
軋んだ音を立てて、扉が開いた。
部屋のなかは暗い。ちょうど廊下の向かいの壁に明かりがあったので、その光が私の背中越しに部屋のなかへと射し込んでいる。
自分の影が、部屋の床に伸びている。足を踏み入れると、廊下の絨毯とは違う弾力を感じた。同じように柔らかいが、なんだか妙な足ざわりの床だった。
部屋の真んなかに、椅子が見えた。テーブルは見当たらない。古そうなアンティークチェアだけが、ぽつんとこちらを向いて置かれていた。
近づこうとした瞬間だ。
私はふいに立ちくらみを覚えた。ぐらりと、足元が揺らいだ気がした。
毒?
とっさにそう思った。さっきの料理に、なにか仕込まれたのか。
間崎京子の冷たい顔が浮かび、すぐに消える。そんなまさか。
立っていられなくなって、私は目の前の椅子にすがりつくように腰を下ろした。
その、木製で革張りの椅子は、硬過ぎず、柔らか過ぎず、座り心地はかなり良かった。私が毎日家でご飯を食べている椅子などとは、材質も役割もまったく違うのだ。
暗闇のなかでじっと座っていると、段々落ち着いてきた。少し気分が悪くなっただけなのだろう。
毒……。
自分で自分の考えたことが可笑しくなって、苦笑してしまった。
だれもいない別館の、だれもいない部屋で、真っ暗ななか、1人でこうしていることがなんだか心地よくて、名残惜しい気がした。
どのくらい経ったのか。さすがにもう戻らないといけない、と思って椅子から腰を上げ、光のある廊下へと足を踏み出す。
また変な感触の床を歩き、部屋の外へ出た。扉を閉めるとき、光が失われていく部屋のなかで、取り残される椅子が妙に寂しそうに見えた気がした。

2014年4月20日 08:24

私は来た道をたどり、中央館へ戻った。
そして暖炉の部屋に入ると、京子たち4人はまださっきのボードゲームに興じていた。
「あら、おかえりなさい」
遅かったわね、とは言われなかった。他人の家のなかを探索していたことが、ふいにひどく浅ましく思えて、京子から目をそらした。
ボードゲームは京子が勝ったようだ。志保は悔しそうな顔をしていた。ずいぶんと寛いだものだ。
「ケーキを食べましょうか」
京子がそう言って立ち上がる。そして、みんなで食堂へ移動した。
京子が用意していたケーキは、大きく立派なデコレーションケーキだった。さすがに自分で焼いたものではないだろう。
ローソクの演出はなかった。庶民のするような、そういう風習はないのだろうか。あるいはケーキの上に、私たちと違う17本のローソクが立つのが恥ずかしいのかも知れない。
ケーキを食べながら、なんとなく食堂の隅に置いてあった木製の人形の話になった。
京子がそのピノキオのような人形にまつわる恐ろしい逸話を口にした瞬間から、食堂に重苦しい空気が流れた。
京子の友だち2人も、志保も、笑顔が強張っている。
京子はその様子に気づいていないのか、無視しているのか、わからない顔で、この家にあるというそのほかの奇妙な物の話を始めた。
京子は嬉しそうだ。このほうが、私にとってはすっきりする。そういうやつなんだから。
京子が1人で喋り続けていると、やがて呪いの椅子の話になった。
「ザ・バズビー・ストゥープ・チェアってご存知かしら」
その場の全員が首を左右に振った。私はどこかで聞いたことがある気がして、黙って続きを待った。
「18世紀のイギリスで、トーマス・バズビーという男が殺人罪で絞首刑になったの。彼が愛用していた椅子が、残された妻によって処分され、20世紀のなかばにはバズビー・ストゥープ・インというパブに置かれていた。死を招く呪いの椅子と呼ばれて。度胸試しに多くの若者が座ったけれど、次々と突然の死を迎えたわ。その数は、椅子がパブにあった26年間で61人と言われている」
京子がそんなことを言うと、みんな自分の座っている椅子がその椅子じゃないか、とばかりに、そわそわし始めた。
「バズビーズ・チェアは、その逸話とともに、ヨークシャーにあるサークス博物館に寄贈された。今でもそこにあるそうよ。もうだれも座れないように天井から吊るされて、ね」
なんだ。この家にあるなんていうオチじゃないのか。ひょうし抜けしていると、京子は続けた。
「バズビーズ・チェアほど有名ではないけど、私のパパが昔、カルカッタで似たような逸話のある椅子を手に入れたの。『フェレイクシアの恋人』という名前の椅子なんだけど…… 女が座ると死ぬ、と言われているわ」
おい。
首筋がぞわぞわした。
「フェレイクシアというのは椅子を作った職人の名前だそうよ。彼は病気で若くして死んだのだけど、女性と一度も結ばれなかったことを、とても悔しがっていた。だから、死んでからも、彼が生前、死ぬ間際に作った椅子を見守り続けていて、腰掛けた女性を、あの世へ呼ぶんですって。自分の恋人にするために」
おい!
私は立ち上がり、テーブルを叩いた。
「そんな椅子を、普通の部屋に置いておくな!」
すべてわかってしまった私は、怒った。
京子はきょとんとした顔をしている。
「さっき、むこうのほうの別館で、その椅子を見たぞ。階段を通り過ぎたところの部屋だ。部屋の真んなかに普通に置いてあったぞ。あれがそうなんだろうが!」
それを聞いて、京子は目を見開いた。
「あなた、座ったの?」
やはりか。この女。どこまで計算ずくなんだ。表情や言葉から読み取れることは、あまり信用できない。
「あ、でも、うそよ。座れないわ。部屋には鍵がしてあるもの」
鍵だって? 鍵は掛かっていなかったじゃないか。
「開いていたぞ」
「そんなはずはないわ。いつも、開かないように鍵を閉めているから」
「家政婦が閉め忘れたんじゃないか」
いくら来客がなく、使っていないといっても、掃除ぐらいはたまにするだろう。
「そんな椅子がある部屋なのよ。戸締りには気をつけているわ」
こいつにしては、良識的なことだ。でも鍵は間違いなく開いていた。
「確かめてみましょう」
京子も立ち上がった。
首からネックスレスのようにかけた鍵束が、ジャラリと音を立てた。
「鍵はそれだけか」
「パパの部屋にもあるけど。部屋に鍵をかけているから。今は使えるのはこれだけ」
私たちのやりとりに戸惑っていた残りの3人も、立ち上がって一緒に食堂を出た。
京子を先頭に廊下を進みながら、私は志保に耳打ちをした。
「なあ。私がトイレに行っている間、だれか部屋から出なかったか?」
「えっ。出てないよ。ずっとゲームしてたから」
だれかが先回りして鍵を開けた、ということはなさそうだ。だったら、やっぱり最初から鍵は開いていた、ということになる。
私たちは廊下を折れて、別館のほうへ向かう通路へ入る。
そして別館の廊下に入り、階段の横を通り抜けて、左手にある部屋の扉の前に立った。
あれ? そのとき、なにか違和感を覚えた。
なんだろう。
答えが出る前に、京子が扉の取っ手に手をかける。バーを下げようとして力を入れたが、びくりとも動かなかった。
「ほら」
 振り向いてそう言うので、私は「どけ」と体を入れ替えて、取っ手を握った。さっきと同じように開けようとしたのに、つっかえ棒の芯が入ったように、まったく動かなかった。
「どういうことだ」
京子が胸元の鍵束から、1つの鍵を選び、紐を伸ばして扉についた鍵穴に嵌めた。そして鍵を捻る。
ガコリ、というやけに大きな音がした。
「開けたわ」
その言葉も待たずに、私は取っ手を掴んで扉を開けた。
部屋のなかに足を踏み入れると、暗い部屋の真んなかに椅子はあった。
「『フェレイクシアの恋人』よ」
京子は、友人を紹介するかのように告げた。
さっきと同じ椅子。だけど違う。
椅子に近づこうとして、足を止める。
床が違う。今は普通の絨毯の感触だ。さっきの部屋じゃない。
「明かりを」
京子は言うとおり、入り口のそばにあったスイッチで明かりを点けた。
部屋が明るくなったが、なかは殺風景だった。椅子のほかには、特に目立ったものもない。両方の壁に数点掛かっている地味な絵と、奥のほうに衣装タンスのようなものがいくつか置いてあるだけだった。
椅子に近づこうすると、京子が言った。
「座っちゃ駄目よ。危ないわ」
バカにしたような口ぶりだった。
「この部屋じゃない」
私は踵を返すと、部屋を飛び出した。
そして右隣りにあった、さらに先の部屋の扉の前に立った。
こっちだ。
さっき、トイレのあと探索したときには、階段を通り過ぎたあとに、1つ目の扉に気づかなかったのだ。廊下が暗かったせいで。さっきの違和感は、階段から部屋までの距離がさっきより近かったから感じたのだ。
だからこの、階段から2つ目の部屋の扉が、さっき開けた、鍵の掛かっていなかった扉……。
そんなことを考えながら、取っ手を握った感触に驚く。
動かない。
こっちの部屋も扉に鍵が掛かっている。
唖然として、右を見る。
もう1つ隣りの部屋だったのか?
廊下を先へ進んで次の部屋を探したが、部屋に行き当たらないまま、広間のような場所に出てしまった。
どういうことだ。
やっぱり最初の1つ目の部屋が、さっきの部屋なのか。だったらなぜ鍵が掛かっていのだ。志保は、だれも暖炉の部屋を出なかったと言った。この家にいるのは私たちだけのはずだ。
私が椅子に座ったその部屋を出たあと、だれが鍵をかけたのだ?
暖炉の部屋に戻ったあとは、食堂でケーキを食べるまでずっと5人揃っていた。京子の鍵束のネックレスもずっと首からかけていた。
私は混乱した。
広間に残りの4人がやってきて、私を怪訝そうな顔で囲む。
「どうしたの。山中さん」
志保が心配そうに声を掛けてきた。
「いや……なんでもない」
無理にそう言おうとすると、舌がもつれそうになった。
座ると死ぬ椅子だと?
そんなものに、なぜ私は座ったんだ?
あのとき、立ちくらみがした。全校集会で倒れる女生徒じゃあるまいし、日ごろ体を鍛えているこの私が、なぜそんなタイミングで?
じわじわと気味の悪い感覚が背中の辺りに広がっていく。
だれかに、暗く冷たい場所からじっと覗かれているような……。
「待って、山中さん。あなた、本当に椅子に座ったの?」
この声は、京子か。
私は顔を上げた。そして睨みつけるように京子を見る。
「座ったのね」
心なしか青ざめたような表情で京子は呟く。そして、じっと考え込むような仕草をした。

それからふいに急に口調を変えて、言った。
「さあ、みなさん。もう遅いわ。ご家族が心配なさっているかも知れない。もうお開きにしましょう。今日は私の誕生日会にきてくれて本当に嬉しかった。ありがとう」
有無を言わせない言葉だった。
京子は一方的に、自分で主催をしたこの誕生日会の終わりを告げた。
京子の友人たちは戸惑いながらも「そうね、もう遅いから」などと言って足早に自分の荷物を取りに行った。
志保も強張った顔で頷いている。
帰り支度をしたあと、もう一度京子はお礼を言って、玄関までみんなを見送った。
そして私にだけ言ったのだ。
「山中さんは、気分が悪いみたいだから、もう少し休んでいくといいわ」
私は京子の意図を読み取って、「そうさせてもらう」と返事をした。
志保が心配そうになにか言おうとしたが、「大丈夫だから。帰り道も、もう覚えた」と、私はあえて突っぱねるように言った。
悪いな。ここからは、私と、こいつの時間だ。
玄関から出て行く3人を見送って、私と京子は館のなかに戻った。
「で、どういうことなんだ」
「……」
京子はなにかを隠している。そしてなにかを恐れているようにも見える。
どちらも信用できないが、鍵の掛かった部屋だけは本当に存在していた。
「紅茶を淹れるわ」
京子はそう言って食堂へ戻った。私もついていく。
だだっ広いテーブルの端に座っていると、いい香りを漂わせながら、2つのカップが目の前に置かれる。
なんだ。うまいな。一口ごとに緊張がほぐれていくような気がする。
しばらく2人とも無言で紅茶を飲んだ。
そうして私たちは、ほぼ同時にカップを置く。
「私の祖父には2人の妹がいたの。大叔母、ということになるのかしら。2人とも大人になる前に亡くなっていて、私もお会いしたことがないけど。その2人は双子で、見分けがつかないくらい似ていたそうよ。たぶん一卵性双生児だったのね。でもその双子は、性格は正反対で、おしとやかと活発。そのせいか、いつも喧嘩ばかりしていたそうなの。2人が病気で亡くなったあと、そんな妹たちのことを偲んで、祖父が、彼女たちが住んでいた部屋に、ある仕掛けをしたのよ。今でも私たちは、『双子の部屋』と呼んでいるわ。祖父はからくり細工が好きで、そんないたずらが、この家の色んなところに残っているの」
「なんだ、その仕掛けって」
「他愛ないものよ。2人の住んでいたそれぞれの部屋の鍵を、連動させたの。片方が開けば、もう片方が閉じる。片方を閉じれば、もう片方が開く。つまり、2つの部屋の鍵は、どちらかが必ず開いていて、もう片方は必ず閉まっているの」
「なんだその悪趣味な仕掛けは」
「部屋のなかはそっくり同じ。でも扉だけが反対なの。祖父は容姿が瓜二つだったのに、性格が正反対だった双子の妹と、その部屋を重ね合わせたのね」
金持ちの考えることは本当に意味がわからない。退廃的な匂いがして、気持ちが悪い。
「待て、それがあの階段の先の2つの部屋か」
「そうよ」
階段の先にあった1つ目の部屋は、京子が開けようとして鍵が掛かっていた。だったら、そのとき右隣にあった2つ目の部屋は、鍵が掛かっていなかったんじゃないか?
京子が鍵を開けて、私たちが部屋のなかに入ったとき、隣の部屋の扉は連動する仕掛けのために、逆に鍵が掛かった。
そうか。だから1つ目の部屋を出て、隣の部屋の扉を開けようとしたとき、鍵が掛かっていたんだ。
京子が1つ目の部屋の鍵を開けたとき、やけに大きな音が響いたのはその連動する仕掛けのせいか。
だったら、私が椅子に座ってしまったあの部屋は、やっぱり2つ目の部屋だ。私たちが京子の手料理を食べている間もずっと、鍵が開いたままだったのだから。
なにが、『そんな椅子がある部屋なのよ。戸締りには気をつけているわ』だ。
「椅子は2つあったんだな」
そう問い掛けると、京子はゆっくりと笑みを浮かべて言った。
「ええ。そう。『フェレイクシアの恋人』は、まったく同じ2つ揃いの椅子なの。椅子職人の好きだった幼馴染が双子だったから、それにちなんで作られたそうよ」
双子。また双子か。そして、それは……。
「あなたも、双子よね。妹は、まひろさんとおっしゃったかしら」
「だったら、なんだ」
「椅子は、あなたを呼んだのかも知れない」
京子は妖しい微笑みを浮かべる。
座ると死ぬ椅子にか。悪い冗談だ。
「鍵が連動してるなら、必ずどっちかの扉は開いてるってことだろう。そんな部屋に、座ると死ぬ椅子なんてものを両方置くなんて、なにを考えているんだ」
性格が悪いにもほどがある。
ようやく、こいつの本性が見え始めた。
「そんな危険なことはしないわ。確かに、2つの部屋それぞれに椅子は置いてあるけど、間違って座ってしまわないように、安全策は講じているし」
「どこがだ。現に私は……!」
「座ったの?」
また、京子が緊張した顔つきになった。
「あの椅子は本物よ。この家に来てからも、3人死んだわ。パパの従姉妹と、使用人と、そして…… 私の母。座った順に死んでいった」
なんだ、その表情は。やめろ。私も。私も……。
座ったんだぞ。
「案内するわ。来て」
京子は立ち上がった。食堂を出て行くので、仕方なくついていく。
また薄暗い廊下を通って、中央館から別館のほうへ向かう。同じ道順で階段の前を通り、そして双子の部屋の前にやってきた。
「こっちの、左の部屋にはいつも鍵を掛けているの」
さっき部屋を出たときにも、ちゃんと閉めたらしい。
京子はガコガコと取っ手を揺すって見せている。
「じゃあ、右の部屋の鍵はいつも開いてるんだろう。そっちにある椅子はどうするんだ」
「ええ、危ないわね。だから、大丈夫なようにしてあるの。バズビーズ・チェアと同じように」
なに? なんだそれは。
私たちは双子の部屋のうち、右側の部屋の前に進んだ。
さっきは左の部屋の鍵を開けたせいで、連動して鍵が掛かってしまったので、こっちの部屋は結局扉を開けていない。
けれど、トイレの帰りに私が迷い込んだのは、間違いなくこの部屋だ。
「言ったでしょう。サークス博物館に展示されているバズビーズ・チェアは、調子に乗っただれかが座ってしまわないように、こうしてるって」
京子は鍵の掛かっていない扉の取っ手を掴むと、サッと開け放った。
そして壁際のスイッチを点け、部屋に明かりが灯る。
私は目の前に広がる光景を、信じられなかった。
呆然として、口が利けない。
絨毯の敷き詰められた床には、なにもない。
天井に、椅子が張り付いている。重力に逆らっているかのように、天井を床にして逆さに据えられているのだ。
「なんだこれは」
ようやくそんな言葉を搾り出した。
「博物館のバズビーズ・チェアは、天井から吊るしてあるだけらしいけど。うちは気軽に触ることさえできないように、天井に逆さまに打ち付けてあるの」
日本家屋と比べてはるかに天井が高く、そこに打ち付けられた椅子には、たしかにジャンプでもしないと触ることはできない。
しかし……。
「本当にあなたは座ったの?」
京子がそう訊ねてくる。疑っているのではない。まるで、なにか得体の知れないものを、恐れているかのような表情だった。
空間がぐにゃりと歪むような錯覚があった。
自分が今立っている場所が、ふいにひどく不安定なところのような気がして、立ちくらみがした。
「椅子が、あなたを呼んだのね? そうでしょう」
馬鹿な。
そんなこと、あるはずがない。天井に逆さまに打ちつけられた椅子に座るなんて。
「やっぱり隣の、1つ目の部屋か。私がさっき入ったのは。どんな細工をしたんだ」
2つの部屋の扉の鍵が連動している、なんていう妙な仕掛けがあったんだ。他にもなにか仕掛けがあるに違いない。私が部屋を出たあとに、勝手に鍵が掛かったと考えるほうが、天井の椅子に座ったなんていう現象より、ずっと現実的だ。
「いいえ、ほかに仕掛けはないわ」
「うそをつけ。あんなところにある椅子に、どうやって」
激高してそう喚きかけた私の目に、奇妙なものが飛び込んできた。
椅子の足の少し手前。天井に変な模様があるのだ。
天井には、壁紙というのか、パネルというのか、柔らかそうなシートがその一面を覆っている。その絨毯のような見た目の綺麗なシートに、荒れているような跡があった。それも、入り口から、椅子の足までの間に伸びている。
あれは……
私は口を押さえた。叫びそうになったのを必死にこらえたのだ。
足跡だ。
わたしの。
天井に、私の足跡がついている。
あの椅子に座るときに、やけに床の感触がおかしいと思っていたのは、そのせいなのか。
京子も、私の視線の先を見て、目を見開いて驚いている。
「出ましょう」
動けなくなっていた私を、京子が肩を貸すようにして歩かせる。
ふらふらしながら、促されるままに歩き続けて、私たちは中央館のほうへ戻った。まるで逃げるように。そして中央館のなかほどにあった大きな階段を上り、奥まったところにある1つの部屋に入った。
「離せ。もう歩ける」
京子の手を振りほどいて、近くにあった椅子にドシンと腰を下ろした。
「ここは私の部屋よ。落ち着いて」
京子はそう言って、部屋の明かりをつけた。
広い部屋だった。高校生の女の子が住む部屋とは思えない。殺風景だとか、そういうことではない。部屋の壁際に、大きな柱時計がこちらを取り囲むように並んでいたのだ。その数は10や20ではなさそうだ。
今度はなんだ。もういい加減にしてくれ。どっと疲れたような気持ちになって、深く息をついた。
「暖房をつけるわね」
京子は部屋の隅にあった、古そうな暖房器具らしいものにスイッチをいれた。
「なんだこの時計の墓場は」
自分でそう言ってから、気がついた。よく見ると、どの時計も動いている気配がなかった。それどころか、指している時刻がどれもバラバラなのだ。
 壁に掛かっているものもあるが、ほとんが、その胴体に大きな振り子を抱えた、床に据え置くタイプの柱時計だった。
昔の映画のなかでしか見ないような代物だ。
それらが整然と、ひっそり立ち並んでいる光景は、まるで墓石の群のように見えた。
「アンティーク時計よ。子どものころから好きで、パパにねだって集めたの」
京子は勉強机らしきものの前にあった椅子に座って、こちらを向いた。
「人の作ったものは、いつかみんな死ぬ。時計にとっては、針が動かなくなるときがそうね。人の作った機械が、人の見ていない、だれもいないところで、ひっそりと死んでいく。形ある無生物の死を、生物のそれのように定義づけることは難しいわ。でも私は、時計の死の潔さがとても好き」
そう言って、視線を正面の一際大きな柱時計に向ける。
ガラス張りの胴体の向こうに、長い振り子が幾本か覗いている。上部にある時計部分には、豪華な装飾が施されていたが、短針と長針は張り付いたように2時半を指していた。
「自分が死んだ時間を、指している」
ハッとした。
その京子の声の響きが、とても心地よかったからだ。こいつの言葉は、蠱惑的だ。
「いつまでも、自分の死んだ時間を指し続けているのよ。どの時計も、すべて。なんだか、美しいと思わない?」
退廃的だ。没落したかつての子爵家という血筋と、この館の古びた空気がこんな娘を育てたのか。
私は、この女の作り出す妖しい空間に取り込まれないように警戒心を強める。
「あの椅子は、本物なのか」
「ええ。本物よ。この家で起きた3つの死も」
ただ……
京子は言いよどんだ。
「ただ、なんだ」
「フェレイクシアに、恋人と見初められた人間は、今までに何人いたかしら。座ってしまっても、全員が全員死んだわけではないわ。この家でも、パパは新しくきた家政婦には、必ず座らせていた。もちろん、なにも説明しないでね」
最悪だ。こいつの父親は。
「でも、死んだのは1人だけだった。若くて、とても綺麗な人だったそうよ」
「私なら、大丈夫だといいたいのか」
「そんなことないわ。あなたは綺麗よ。たぶん、自分が思っているよりも、ずっと」
虫唾が走った。こいつにそんなことを言われたくない。
「椅子の呪いは不安定ね。人が移り気であるように」
そう言ったあと、京子はふいに鍵束を掴んだ。
「あなたが入って、そして椅子に座った部屋は、本当は左の部屋だったのかも知れない。あとで掛かっていた鍵のことは私にもよくわからないけれど。この家では、不思議なことがときどき起こるから」
「持ち主も把握し切れてない、カラクリ細工だらけだってのか。でも椅子が床にあるほうの部屋だったとしても、私が椅子に座ったのは間違いないんだ」
どうしてくれる、と言いそうになって、それはこらえる。
すると京子は変なことを言うのだ。

「言わなかったかしら。左の部屋の椅子は、レプリカなのよ」
なんだと? 聞いてない、そんなことは。
「パパのガールフレンドに椅子の話をすると、怖いもの見たさでどうしても座りたがるから、そっくりに作ったレプリカのほうで満足させてあげていたそうよ」
「ちょっと待て。だったらなぜ、そのレプリカの部屋のほうに必ず鍵をかけていたんだ」
「ほかに大事なものを置いているからよ」
「大事なもの?」
左の部屋にあったものを思い出してみる。
たしか洋服箪笥のようなものと、小さな地味な絵がいくつかあっただけだ。私がそう言うと、京子は「そんな風に言われると、レンブラントがかわいそうね」と笑った。
そう言えば、右の部屋には天井の椅子以外、なにもなかった気がする。
「だったら、椅子が2つ揃いだと言ったのはウソか。椅子を作った変態野郎の幼馴染の双子の話も?」
そうか。双子の話に持っていったのは、私にあてはめるためか! そもそもなぜ、こいつが双子の妹、まひろのことを知ってるんだ。
一方的に男に片思いされて、知らないうちになにもかも調べられる女性の気持ちが、わかった気がする。気色が悪い。
そう思って鳥肌を立てていると、京子は首を振った。
「椅子は2つ揃いよ。フェレイクシアの双子の幼馴染への執着の話も本当」
「だったら、もう1つの椅子はどこにあるんだ」
そう怒鳴ってから、体の中に嫌な予感が走った。
こいつ……
私から、その言葉を引き出したな。
汗が皮膚の上に湧き出てくる。自分が座っている椅子の感触が、艶かしく躍る。
部屋に入ってきたあと、無意識に腰掛けたこの椅子は、どんな形をしていた?
思い出そうとしても、思い出せない。自分の体を見下ろそうとしたが、首の油が切れたようにうまく動かなかった。
京子は笑って、立ち上がった。
「私が愛用しているわ」
京子のドレスのスカートがそこをどくと、座っていた椅子が見えた。見覚えがあった。同じ椅子だ。
なんてやつだ。
私は唖然として固まった。
こいつは、やっぱり普通じゃない。
「椅子の呪いも、弾くことは可能よ。私と同じ場所に、あなたも来ることができる」
京子はそう言って、こちらに右の手のひらを伸ばした。
弟子を導く、教導者であるかのように。
「願い下げだ」
とっさにそう言い返した。
「そう」
京子はさほど残念そうでもなく、伸ばした手を下ろす。そしてまた、あの椅子に腰掛けた。平然と。
「今この街で、途方もなく大きな呪いが蠢いているわ」
こちらを見るでもなく、京子はひとり言のように淡々と語った。
「目に見えない、とても邪悪ななにかが。……いったい、なにが起ころうとしているのかしら。私は、見届けたいと思っているの。この街の、未来を」
京子は指を交差させ、その上に顎を乗せた。前にも見たことがある。無意識にする仕草なのかも知れないが、彼女の意思の形を表しているかのようで、とても似合って見えた。
沈黙が降りた。
無数にある時計から、時を刻む音はなにも聞こえない。
すべてが古い灰につつまれていく。石化していくような時間だった。
やがて私は腰を上げた。
「帰るの」
「ああ」
「今日はありがとう。来てくれて」
「……誕生日、おめでとう」
今日、まだ一度も言っていなかったような気がして、そう言った。
「ありがとう」
京子はふっ、と息を漏らした。

それから玄関まで送ってもらって、外に出た。
あの椅子のある別館のほうが気になりはしたが、意地でも振り返らなかった。もうなにが本当で、なにが嘘なのかわからない。
すっかり遅くなってしまった。さすがに親に怒られるかも知れない。
空には一面の星空が輝いていた。私の住む市街地から少し離れたせいか、街の明かりが少なくて、その分、星がよく見える。
ふと思いついて、玄関に立っている京子を振り返った。
「お前、さそり座生まれだよな。さそり座の女って、歌になるくらい酷い言われようだけど、お前に関しては当たってると思うぞ」
それを聞いて、京子は露骨に不快そうな顔をした。
「お前のホロスコープを確認してみたけど、お前が生まれた瞬間に、東の地平線にあった星座は、やっぱりさそり座だったよ。上昇宮って言うんだ。お前の本質を表しているのが、それなんだ」
やりかえしてやった。
単純に、そう思って気が少し晴れた。すると京子は、「くだらない」と言ってため息をついた。
「お前、占いが好きなのに、どうして占星術は嫌いなんだ」
私よりはるかに色々な占いに長けているのに、どうしてなんだろう。素直にそう思った。
「そうね」
京子はそう言って星空を見上げた。
つられて私も空を見る。
「私が子どものころ、夜にこうして庭に出ていたの。そばにはだれもいなかったわ。みんな家のなかにいた。私だけ外で、そのとき庭にあった木馬に乗っていた。なぜそうしていたのか覚えていないわ。パパに怒られて拗ねていたのかも。何時くらいだったのかしら。急に地面が揺れたのよ」
「地震か」
私は、自分が子どものころに経験した地震のことを思い出そうとする。しかし、あまり記憶に残っていない。
「すごい揺れだった。地面がひっくり返るかと思うくらい。木馬から転げ落ちて、私は泣き叫んだわ。痛かったし、強かった。おうちも揺れていて、今に崩れ落ちそうだった」
そんな大きな地震があったか? 私の家も同じ市内だというのに、まるで思い出せなかった。
「揺れが収まって、私は泣き止んだ。家に入ろうとして、立ち上がったとき、奇妙なことに気がついたの」
京子は空を指さした。
「星の配置が変わっていた」
冗談めかしたような言葉だったが、その声は緊張を帯びたようにかすかに震えていた。
「空の星が、すべてでたらめな形に変わってしまっていたのよ。目を擦ったわ。でも見間違いじゃなかった。私は星が好きな子どもだったの。星座の本を片手に、夜空を見るのが好きだった。遠く離れた星ぼしを結びつけ、古来から人々がつむぎだした物語を空に浮かべて、夢想するのが好きだった。なのに、その夜、たった一度の地震のあと、そのすべてが狂ってしまったのよ。私は怖くなった。いったいなにが起こったのかわからなくて、また泣いてしまった。そして家に帰って、パパに抱きついたの。地震のせいで空が揺れて、星がずれてしまった。そんなことを口走ったと思うわ。なのに、パパは私の頭を撫でてこう言ったの。『大丈夫。地震なんて起きていないし、一晩寝れば空も元通りになるよ』って。泣く子どもをあやす言葉でも、ちょっとおかしいと思わない? 空の星のことはともかく、地震が起きてないって言うなんて。でもそれは、その言葉の通りだった。地震は起きていなかったのよ。次の日、だれに聞いても、友だちに、先生に、道行く大人に聞いても、だれ1人、地震のことを覚えていなかった」
京子は力なく笑った。
私は背筋がゾクゾクとしていた。なぜだろう。子どものころの、荒唐無稽な話なのに。
「次の夜も、その次の夜も、星の形は変わってしまったままだった。太陽や月、火星や土星……太陽系の星はそのままだった。でも遠くの星は、どれも似ても似つかない配置になってしまっていた。なのにそれを、だれも不思議に思っていなかった。あの地震と同じように、みんなの記憶まで変わってしまっていたの。街の本屋で星座の本を買ったわ。どの頁にも、私の見たことのない星座がちりばめられていた。怖かった。怖くてたまらなかった。私が……私だけが、別の世界に紛れ込んでしまったみたいで」
それは、本当なのか?
そう訊こうとして、ためらわれた。あまりに真摯な声と、表情だったから。
「黄道12星座も変わってしまっていたわ。計算尺座も、大猫座も、帆掛け船座も、なくなっていた。あの可愛いねずみ座も、気高い銃士座も。みんなみんな。うお座やてんびん座はあったわ。でも似ても似つかない形になってしまっていた。クルミ座はどこにいったの? 大きく手を広げた山猿座はどこに? あの、全天を睥睨する13の赤色巨星の群、魔王座は……?」
京子は早口でそう捲くし立てると、そこで息を止め、ゆっくりと吐き出した。
「雑誌で星占いのページを開いても、私はどこを見ていいかわからないの」
京子はこちらを見て笑った。泣いているような笑顔だった。
私はそのとき初めて京子の心に触れたような気がした。
「お前の本当の星座は……」
くじら座よ。
あのとき、冗談だと思った言葉が脳裏に蘇る。
京子ははにかむように俯いた。そして、もう空を見なかった。
一面の星空の下で、私はなにか謝る言葉を探していた。けれど、それは余計なことのようにも思えた。
そのかわりに、京子の胸元を指さした。鍵束の首飾りを。
「それ、変だぞ。いくつ部屋があるのか知らないけど、マスターキーを作ったほうがいいよ」
照れ隠しだった。あまり深い意味もなく、最初から思っていたことを口にしただけだった。
京子は自分の胸元を見下ろして、少し気を緩めたように微笑んだ。
「パパはマスターキーを使っていたけど、私はこっちのほうが好きなの」
「変わったやつだ」
笑ってやった。少しでも救われればいいと思って。
すると、京子は玄関口に立ったまま、鍵束を右手でチリンと鳴らして言った。
「マスターキー…… 本当の意味で、『支配者の鍵』と呼べるものはそんな即物的なものではないわ」
「なんだそれは」
「たとえば……」
京子は、目を閉じてゆっくりと言った。
「ひらけゴマ」
その瞬間、京子の背後、玄関の向こうの館のなかから、体に響くような音が聞こえてきた。
ガガコン……。
鈍く響く、重層的な金属音だった。まるで無数の扉の鍵が、いっせいに開いたような。
私は慄然として、耳に反響するその音の意味を考える。
京子は目を開き、私をまっすぐに見つめた。
「気をつけて帰ってね」
なんなんだ、こいつは。
今のは、祖父が作ったという仕掛けなのか。それとも……?
全身に鳥肌が立ったまま、私はその館を後にした。まるで逃げるように。
帰り道、京子の言っていた、星の配置が変わったという話のことを考えた。子どものころの荒唐無稽な記憶だと、笑い飛ばすのは簡単だ。ディティールが細かすぎるのが気持ち悪いが。
けれどそこには、あいつがあいつである、その根源を垣間見た気がする。
あいつは自分を異邦人だと言ったのだ。
1人なんだ。
そうか。
クラスで取り巻きたちに囲まれていても。誕生日会で、ハピバースデーと歌ってもらっていても。
そのことが、ストンと胸に落ちるようにわかった。
そして私は、彼女の部屋で、まっすぐに差し出された手のことを思った。私が握り返さなかった、あの手のひらのことを。

(完)

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